一転して
1か月後、咲が上京するタイミングで橋渡が華村酒店を訪ねてきた。彼は咲と母を前にして少し緊張している様子だったが、お茶を一口飲むと、「できました」とバッグから小冊子を取り出した。
色鮮やかな表紙と浮き上がるようなタイトルが目に入った。
『女性蔵元が華咲かせた泡酒と佐賀県食文化の魅力』
駐日外国公館へ情報発信する冊子だった。タイトルは日本語と英語が併記されていた。
「まあ~ステキ」
目を輝かせたのは、意外にも母だった。
「華村咲をもじって、華咲かせたと表現されたセンスが素晴らしいと思います」
自分事のように嬉しそうな声を出したので咲の顔を窺うと、冊子をめくりながら感激しているのか、目が少し潤んでいるように見えた。
「素敵なタイトルと写真、記事をありがとうございます」
咲に見つめられて、橋渡は柄にもなく照れているようだった。
ひょっとして……、
呼子で感じた、ちょっとした違和感は確信に変わろうとしていた。しかし、そんな心の内を知るはずもない橋渡は、んん、とくぐもった声を出して、話を切り出した。
「この冊子の見本が完成した時に公館3館に持参して反応を伺いました。すると、3館共に興味を示していただき、説明が聞きたいという嬉しいお返事を頂きました。うまくいけば多くの大使館から同じような反応を頂けるかもしれません。そこで、今からそのための準備をしたらどうかと思いますが、いかがでしょうか」
そこで反応を見るかのように話を切ったが、もちろん異論があるはずはなく、すぐに3人は同意の頷きを返した。すると、彼はほっとした様子で続きを話し出した。
「昨日すべての公館に対して小冊子を発送しました。返事が来るのは来週からになると思いますが、二桁を超える試飲説明会のご要望が来た場合には対応が難しくなります。そこで、私と皆さんが手分けして行ったらどうかと思うのですが、いかかでしょうか」
これにも異論はないので、賛意を示した。
「ありがとうございます。それでは具体的な方法について提案させていただきます。どの国の公館であっても英語で説明すれば問題はないと思いますが、それでは面白くありません。好感度を一気に上げるためには彼らの母国語を使った方がいいのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?」
もちろんこれにも異論はなかった。
「ありがとうございます。では、フランス語圏の公館での説明は咲さんと醸さんで、スペイン語圏の公館の説明は醸さんと奥様で、英語圏やそれ以外の公館の説明は咲さんと私でやりましょう」
*
駐日外国公館説明会の準備に没頭している時、醸の元に外務省から手紙が届いた。恐る恐る封を開けると、3つ折りになった手紙が一枚入っていて、試飲用を送った30の在外公館すべてから調達希望が来たと書いてあった。
「ヤッター!」
思わず大きな声が出てしまった。
「どうしたの?」
普段と違う声に驚いたのか、奥から幸恵が慌てた様子で店に入ってきた。
「凄いことになった」
手紙を見せると、「まあ!」と幸恵は目を満開にしながら口に右手を当てた。それで心がばら色になりかけたが、一転して不安が襲ってきた。
在庫だ。今回の分はなんとか賄えそうだが、その先注文が増えることを想定しておかなければならない。慌てて受話器を手にした。
「えっ、全部? 30か所全部?」
咲の声がひっくり返った。
「そうなんだ。それで在庫なんだけどさ、大丈夫?」
しかし、受話器に声は届かなかった。
「大丈夫じゃないの? 品切れとかになると大変なことになるよ」
すると、弱々しい声が返ってきた。
「うん、わかってる」
「それに、試飲説明会がうまくいったら外国公館からの注文も来るし」
「それもわかってる」
しかし、そこでまた声が消えた。
今度は長かった。それでも待つしかなかった。
「とにかく、」
やっと声が戻ってきたが、それは不安を消してくれるものではなかった。
「考えられる最低量と最大量を出さないと在庫と生産量が大丈夫かどうかわからないから、大至急その数字を教えて」
そこで突然切れた。
不安は緊張に変わった。




