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ふじ棚

 

 1週間後、醸は鮨屋のカウンターに座っていた。東京一と言われる評判の店、『ふじ棚』だった。店主が独立する時、縁起を担いで、一富士、二鷹、三茄子から文字を拝借して名づけたという。

 メニューは『完全お任せコース』のみで、一人3万円。握りを含めた料理7皿とそれに合わせた日本酒が供され、料理も日本酒もすべて店主が決める。客はそれを食べて飲むだけ。だから、完全お任せコース。


 店主と父の付き合いは長く、それも、ただ長いだけではなく、お互いに尊敬し合う間柄だった。プロフェッショナルと認め合う深い付き合いが続いていたのだ。

 醸は配達専門だったため店主とは挨拶程度の会話しかしたことがなかったが、父が亡くなって倉庫の在庫処分に悩んでいた時、ふと頭に思い浮かんだのがふじ棚の店主の顔だった。どうなるかわからないが、とにかく相談してみようという気になったのだ。


        *


 醸は一升瓶を抱えて店主を訪ね、それを透明な切子グラスに注いだ。

 すると、店主が目を丸くした。


「この色は……」


 グラスに鼻を近づけた瞬間、驚きの表情になった。


「この香りは……」


 一口飲んで、唸った。


「これは凄い!」


 店主は口を開けたまま放心したような表情で一升瓶を見つめていた。父が命を懸けて守り抜いた17年寝かせた日本酒から目が離せないようだった。


「17年物か……」


 驚きながらも、全然違う、というような表情でもう一口飲んだ店主は、何度も大きく頷いたあと、驚きの言葉を発した。


「全部貰うよ」


「えっ、全部?」


「そう、全部」


「全部と言われても100本近くありますけど」


「だから、全部!」


「でも……、本当にいいんですか?」


「くどい!」


 それは、17年物の古酒がすべて売れた瞬間だった。醸はしばらく呆気に取られていたが、そのうち心の奥底から「助かった」という思いがじわじわと湧き出してきて、震えるような感動に突き動かされた。


「ありがとうございます!」


 体を半分に折って頭を下げると、「いやいや、礼を言うのはこっちの方だよ。これに合わせて新しい料理を考えるのが楽しみだ」と優しい眼差しで見つめられた。そして、「さすが、崇さんだね。いいオヤジさんを持って、感謝しなさいよ」と笑みで包んでくれた。


「はい、ありがとうございます。帰ってオヤジに報告します」


 何度も礼を言って頭を下げて店を辞したが、ふわふわと雲の上を歩いているような感覚の中にいて、現実感がまるでなかった。しかし、歩いているうちにどんどん嬉しさが込み上げてきて、頬が緩むのを止められなかった。いかんいかんと引き締めてもすぐに緩んでしまうほどだった。すれ違う人たちがおかしそうに見ている感じがしたが、そんなことはまったく気にならなかった。


        *


 店の看板が見えると、流石に落ち着いてきたので、店番をしながら待っていた母にふじ棚でのことを聞かせた。すると、「まあ~」と大きな声が出たあと、父の遺影に向かって手を合わせた。


「あなたが大事に保管していた古いお酒が売れたそうですよ」


 そして声に出さずに、ありがとうございます、と口を動かした。


 少しして向き直った母は、「宝物のように、本当に宝物のように大事にしていたのよ。店の奥にある倉庫を完全に遮光して、温度と湿度に大きな変化が無いように常に気を配っていたの。それだけじゃないわ。倉庫の床の下に貯蔵庫を作ってお気に入りの日本酒を保存していたのよ」と当時のことを懐かしそうに振り返った。そして、「店の倉庫がいっぱいになった時、新しい倉庫を借りると言い出したの。私は大反対したわ。売上が落ちていたし、手持ちのお金もほとんど残っていなかったから。でもね、あの人は聞かなかった。これは醸のためだと言って私の反対を押し切ったの。そして、製造年月日の古い順から新しい倉庫に移していったの」と声を強めた。


 胸がいっぱいになった。資金繰りが厳しい中でも保存状態の良い古酒を残そうとした父のことを思うとたまらなくなった。

 しかし、ありがたいと思うと同時に父の体を十分に労わってやれなかった自分が情けなくなった。父は時として襲ってくる痛みに耐え続けていたはずなのだ。胸が締め付けられる度に恐怖に怯えていたのかもしれない。それなのに、病院に連れて行くことができなかった。本を読んでそのことを知っていたはずなのに、なんにもできなかった。本来なら羽交い締めにしてでも連れて行くべきだったのだ。


 なのに……、


 自分を責めても父が帰ってくるわけではないが、それでも許すことはできなかった。


 もっとちゃんと……、


 今になって後悔しても遅すぎるが、悔やまれてならなかった。


「あなたのせいじゃないわ」


 心の内を察したのか、母が優しく声をかけてくれた。でも、どんなに慰められても自分を許すことができなかった。


「俺のせいなんだ。俺がもっとちゃんとしていれば」


「いいえ違うわ。あの人は人生を全うしたのよ。命を懸けて華村酒店を守ったの。だからあなたが自分を責めたらあの人が悲しむわよ」


 それで、もうおしまいというように遺影に向き直り、「あなたのおかげです。本当にありがとうございました」と手を合わせて、深々と頭を下げた。



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