命名
翌日の午後、咲は華村酒店へ泡酒を持参し、奥の間に入るなり、遺影の前に座って手を合わせた。
「一徹じいちゃんに飲ませたかったな」
もっと早く完成していたらと思うと残念で仕方がなかった。しかし、醸が笑っているのでどうしたのかと思っていると、「飲ませてやれよ」とグラスを渡された。
「そっか~。そうだね」
さっそく泡酒を注いで遺影の口元にグラスを付けて「おいしい?」と語りかけると、「咲ちゃん、おいしいよ」と醸が祖父の声を真似た。それがとてもよく似ていたので笑ってしまったが、それで一気に悔いのようなものが消えた。あの世に行っても応援してくれているのは間違いないのだ。あの優しい笑顔で見守っていてくれるのだ。
「これからもよろしくお願いします」
両手を合わせて頭を下げた。
「ところで、白鳥君も喜んでいるだろう」
崇の声でフランスでのことが蘇ってきた。
「はい。すぐに送りました。白鳥さんに飲んでいただこうと思って。それに、おじ様と醸にもいっぱい助けていただいて」
華咲夢とベネデスの情報がなければこの泡酒は完成しなかったと、心からのお礼を言った。すると、「そんなことより早く乾杯しようよ」とちょっと照れたような醸が促すので、皆のグラスに泡酒を注いで姿勢を正した。
「皆様のご支援のお陰で泡酒が完成しました。本当にありがとうございました。心からの感謝を込めてグラスを掲げさせていただきます。乾杯!」
一口含むと、爽やかな香りが鼻に抜けて、すっきりとした味わいが口の中に広がった。と同時に「いけるね。うまいね」と醸が顔を綻ばせた。更に、「乾杯の酒に最高だね。それに和食だけでなく洋食にも合いそうだから、すべての料理の食中酒としてもいけると思うよ」と崇おじさんが最高の誉め言葉を贈ってくれた。それで不安が消えた。早速、本題を切り出した。
「この泡酒を扱っていただけますか?」
「もちろんだよ。華村酒店のイチ押しとして扱わせてもらうよ」
間髪容れず社長の顔になった崇が断言してくれたのでホッとしたが、醸が不思議そうにボトルを一回転させたので、気になった。
「名前が書いてないけど」
「えっ、名前?」
「そう。この泡酒の名前」
「あっ」
泡酒を完成させることばかり考えていて名前のことまで頭が回っていなかった。それでも、何か言わなければと思って「日本夢酒造『泡酒』ではだめかな」と問うと、「悪くはないけど、でも、もし他の会社から同じようなものが出てきたらどうする? 固有の商標がないと差別化が難しくなるんじゃないかな」と指摘されてしまった。
「そうだよね。わ~どうしよう。どうしたらいい?」
救いを求めたが、「急に言われても思いつかないよ」と頭を振られた。
「そうよね……」
袋小路に入ってしまった。それでもなんとか知恵を絞り出そうとしたが、名案は浮かんでこなかった。
しかしその時、「華村咲にしたら?」と百合子の口から突然の提案が飛び出した。
「えっ、それって」
百合子は笑った。
「ひらがなで『はなむらさき』。どう?」
「おば様……」
天から舞い降りてきたような名前に咲は声をなくした。何か言おうとしたが、声は出ていかなかった。うるうるしながら百合子を見つめることしかできなかったが、「決まりだね!」という醸の声が涙を止めた。
「ありがとうございます」
まだ涙声だったが、もう心は揺れていなかった。その場で泡酒のブランド名を『はなむらさき』に決定した。
加えて、フランスへ出荷するブランド名を『HANAMURASAKI』にすることも決めた。




