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祝宴

 

 それからひと月ほど経った頃だった。近所のアパートの一室が空いたので引っ越しの準備をしていると、「結婚式はどうするの?」と母が心配を口にした。父も「ちゃんとした方がいい」と、けじめを付けることを促した。


 両親の心配はもっともだった。まだプロポーズの言葉を幸恵に言っていないのだ。というより、まだ言う資格がないと思っていた。家庭を持つに相応しい男にはなれていないという引け目があったからだ。パリでの仕事もカリフォルニアでの仕事も中途半端で終わってしまったし、実家に帰ってからも手伝いの域を抜けていなかった。確固とした存在感を自分で感じられていないのだ。


 しかし、幸恵の立場に立てば、宙ぶらりんな状態が続いていることは疑いようがなかった。カリフォルニア以来ずっと同棲状態なのに、それから何も進展がない状態が続いているのだ。いつまでもこの状態を続けるわけにはいかないし、そろそろケジメを付けなければならない時期に来ているのは間違いなかった。新居への引っ越しというタイミングを逃せば、またずるずると同棲状態が続くだろう。


 このタイミングしかない。


 醸は心を決めた。


        *


 正式にプロポーズをして半年ほど経った頃だった。仕事を終えて家に帰った醸が着替えを済ませて居間に入ると、待ち構えていたように幸恵は醸の手を取って自分のお腹の上に置いた。


「触ってみて」


「何?」


「ここにいるの」


「何が?」


「だから……」


 幸恵が恥ずかしそうに頷いた。


「えっ、もしかして」


「そう」


 幸恵のお腹に新しい命が芽生えていた。それは醸が父親になることを意味していたが、信じられないことでもあった。危ない日には気をつけていたので、幸恵が妊娠するとは思ってもいなかったからだ。

 それに、まだ一人前の大人だという自覚がまったくなかった。父親の商売を手伝っているだけの半人前の男としか思っていなかった。そのせいか、「大丈夫かな……」と喜び以外の言葉が口を衝いてしまった。


「嬉しくない?」


「ううん。嬉しいけど……」


「嬉しいけど?」


 心配そうな幸恵に正直な気持ちを伝えた。


「自分がまだ子供なのに父親になれるのかなって思って……」


 すると幸恵は無言で頷いた。それは、その気持ちはよくわかる、というような頷きのように思えた。


「私も同じ。自信なんてまったくない。でもね、この子が私たちを親にしてくれると思うの」


「そうか……」


「うん。親になるんじゃなくて、親になっていくんじゃないかなって思うの」


「……うん、そうかもしれないね」


 それでもまだ自信はなかったが、「この子と一緒に成長していけばいいのよ」と笑みを向けられたので、少し気持ちが楽になった。


「父親か……」


 呟いた先にオヤジの顔が浮かんだ。


        *


 善は急げと日取りを決め、親族だけの宴が華村酒店の1階奥の間で開かれた。醸は紋付き羽織袴で、幸恵は白無垢だった。

 両親は朝からそわそわして落ち着きがなかったが、式が始まるとそれらしい表情になり、宴の時間になると緊張が解けたようで、普段の状態に戻っていた。

 祖父は式には出席できなかったが、うつらうつらしながらも布団の中から宴に参加していた。


 父の音頭で乾杯が終わって和やかな雰囲気で食事が始まった時、醸が立ち上がって幸恵の妊娠を報告した。

 すると、「孫!」と大きな声が聞こえた。父だった。母は、あらまあ、というように口を手で押さえていた。幸恵の両親は手を取り合うようにして喜んでいた。


「孫か~」


 打って変わってしみじみとした声を出した父が「お互い、おじいちゃんですな」と幸恵の父親に酒を注ぐと、「めでたいですね」と幸恵の父親が注ぎ返した。「ありがたいことです」と父は盃を上げて、飲み干した。


「お父さん、ひ孫ができるのよ」


 手を添えて祖父の頭を起こした母が盃を口に当てると、祖父は舐めるように酒を飲み、目を細めて嬉しそうに頷いた。


「良かったね。ひ孫が生まれるまで元気で頑張ろうね」


 母が祖父の手を握ると唇が微かに動いたが、声は出てこなかった。


「お父さん、何?」


 母が祖父の唇に耳を寄せると、唇がまた動いて、掠れるような声が漏れた。


「ひ、ま、ご……」


「そう、ひ孫よ」


 母が目を真っ赤にして頷くと、祖父は微かに頷き返して笑みのようなものを浮かべた。 


 しかし、それが祖父の発した最後の言葉になった。その翌日からなんの意思表示もしなくなり、お迎えが来るのを待つかのように眠り続けた。



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