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二足の草鞋

 

「御社を買い取らせていただけませんか」


 崇の隣に座る學が佐賀夢酒造の蔵元に向かって具体的な内容を説明した。


「経営権の変更に伴って社名とブランド名を変えさせていただきますが、働いている方々の雇用は保証します」


 蔵元は瞬き一つしなかった。窮地を救ってもらえることは嬉しいはずだが、社名とブランド名の変更に引っかかっているような感じに見えた。それでも學は声を緩めなかった。


「御社の伝統は守っていきます。お約束します。その上で世界へ雄飛するための取り組みを行いたいのです。これをチャンスと前向きに捉えていただけないでしょうか」


 崇は、口を真一文字に結んで耳を傾けている蔵元から目が離せなかった。代々続いてきた『佐賀夢酒造』という由緒ある蔵名、そして『一献盛』という誇り高き銘柄が消えることに対してどういう判断を下すのか、固唾を飲んで見守り続けた。


 少しして、固く結ばれていた蔵元の口がほんの僅かに動いた。しかし、厳しい表情に変化はなかった。


 嫌な予感がした。断りの返事が返ってくるのではないかと、不安が増した。その時、蔵元の静かな声が届いた。


「ありがとうございます」


 目は學をまっすぐに見つめながら、顎を引くように頭を少し下げた。


「ただ、」


 そこで口を閉じた。それは蔵名と銘柄変更に対する拒否を表したものであると思われ、崇の緊張は一気に高まった。

 それは學も同じようで、厳しい表情が更に険しさを増した。決裂という言葉が頭に浮かんでいるのかもしれなかった。


 崇は2人を見ていられなくなった。膝に置いた手に目を落として、蔵元の次の言葉を待った。


「救っていただけることに心から感謝いたします。ただ、一つだけどうしてもお願いしたいことがあります」


 そこで、蔵元の視線が崇に移った。


「崇さん、蔵元を引き受けていただけないでしょうか」


「えっ⁉」


 いきなりのことに慌ててしまった。そんなことは思ってもみなかった。どうしていいかわからず隣に座る學を見た。彼も同じような目をしていた。


「私は一徹さんのことを尊敬していました。その一徹さんが見込んだ崇さんなら安心して任せることができます」


 返事ができなかった。それでも蔵元は構わず訴え続けた。


「この酒蔵と蔵人たちを、よろしくお願いします」


 深々と頭を下げて、顔を上げようとはしなかった。


        *


「驚くことばかりだよ。學さんが佐賀夢酒造を買収すると言った時も驚いたけど、今日はそれ以上にびっくりした。蔵元になってくれなんて、考えたこともなかった」


 佐賀駅前の日本料理店で學に向かって両手を広げると、「事実は小説より奇なり、ですね」と彼もまだ信じられないというように首を振った。


「まったくだ」


 また両手を広げると、「で、引き受けるのですか?」と覗き込むように顔を見られた。


「わからない」


 答えを探してぐい吞みを見つめたが、一献盛は何も答えてくれなかった。


「わからない」


 首を振るしかなかった。そんな簡単に決められることではなかった。


        *


 東京に戻って百合子にも意見を聞いた。その上で更に熟慮を重ねたが、蔵元を引き受けたいという気持ちと、無理だという気持ちが何度も交差した。


 物理的には難しかった。東京と佐賀は遠すぎるのだ。それに、買収の条件として蔵元就任を頼まれたわけではないので、断ったとしても佐賀夢酒造の買収に影響を与えることはない。

 しかし、口説かれた時の蔵元の表情がいつまでも纏わりついていた。「私は一徹さんのことを尊敬していました。その一徹さんが見込んだ崇さんなら安心して任せることができます」という言葉が胸の中に居座り続けていた。「この酒蔵と蔵人たちを、よろしくお願いします」と深々と頭を下げた蔵元の必死な姿が瞼の裏から離れないでいた。


 う~ん、


 腕を組んで床の間に飾った一徹の遺影に視線を向けると、在りし日のにこやかな笑顔に見つめられた。


 お義父さん、


 呼びかけた瞬間、引継ぎの旅のことが思い出された。鮮魚割烹でご馳走になった呼子のイカの食感と、それに合わせた一献盛・純米極上酒のコクのある味わいが蘇ってきた。

 更に、開夢に跡を託すと言った時の蔵元の嬉しそうな表情が蘇ってきた。すると、心の中のもやもやが晴れてきたような気がした。


 断れないですよね、


 問うても一徹が答えることはなかったが、一徹だったら間違いなく引き受けるだろうことは容易に想像できた。


 やるしかないですね、


 確認するように一徹を見つめたが、その瞬間、考え違いをしていることに気がついた。〈やる〉ではなくて、〈やらしていただく〉なのだ。


 立ち上がって一徹の遺影の前に立ち、「お引き受けすることにしました」と覚悟を決めたことを報告した。すると、耳に何かが届いたような気がした。しかし、よくわからなかった。目を瞑って神経を集中させると、また聞こえたような気がして、その断片が頭の中で言葉となって再生された。


 それでこそ、わしが見込んだ倅だ。 


 間違いなく一徹の声だと思った。初めて倅と言ってくれた時の声だった。


 ありがとうございました。これで佐賀夢酒造さんに恩返しができます。


 遺影に向かって深々と頭を下げた。


        *


「やらしていただくことにしたよ」


 百合子と學に告げた崇に、もう迷いはなかった。


「そうですか、引き受けられますか」


 決断を尊ぶように學が何度も頭を縦に振った。


「苦労をかけることになるけど、留守の間よろしく頼む」


 崇は百合子に頭を下げた。月の半分を佐賀で過ごすことになるため、その間の店の一切を百合子に任さなければならなくなるのだ。

 しかし、それは簡単なことではなかった。店番をするだけでなく、配達や在庫の管理など諸々の仕事をすべてこなすことを意味しているからだ。


「私もできるだけ手伝いますから」


 學が、そう太くはない両腕に力こぶを作って笑った。


「ありがとう。でも、君にも仕事と家庭があるから無理を頼むわけにはいかない。配達は醸にやらすようにするからなんとかなると思う」


「そうか、そうですね、醸君も立派な大人になったから私が出る幕はないですね。でも、もし人手が足りない時があればいつでも声をかけてください。私が行けない時は音をやりますから、遠慮なく言ってください」


 學は右手を左胸に置いて大きく頷いた。


「ありがとう。そう言ってもらえると安心して佐賀へ行けるよ。本当にありがとう」


 學に向って丁寧に頭を下げると、その横で百合子は崇よりも深く頭を下げた。


        *


 二足の草鞋(わらじ)生活が始まった。それは超多忙な日々をこなすことを意味していたが、心は燃えていた。体力的にも精神的にも負担のかかることは目に見えていたが、新しい挑戦にワクワクしていて、全身に気力が漲っていることが自覚できた。酒の販売だけでなく、酒の製造に関われることに興奮していたのだ。自分が造って自分が売るという一気通貫のビジネスが経験できることに心が震えるほどの喜びを感じていた。


 もちろん、それだけではなかった。窮地に陥っている佐賀夢酒造を再建しなければならないという大きな課題を背負っていることに気を引き締めていた。學の機転によって買収することはできたが、利益を出せない状態が続くとすぐに売却されるのは目に見えている。商社に(なさけ)はないのだ。冷徹な損得計算だけが判断基準なのだ。だから、一刻の猶予もないと自らに言い聞かせていた。


 では、今すぐすべきことは何か?


 それははっきりと自覚していた。酒蔵の社員に希望と勇気を与えることだ。明るい未来を提示して、そこへ向けた挑戦心を(あお)ることだ。

 それができない限り前には進まない。崇は蔵人たちを前にして蔵元としての第一声を発した。


「今日から私たちは日本夢酒造として再出発します。ブランド名も一新します。一献盛から富士桜に生まれ変わるのです。そして、輸出用のブランド『FUJI・SAKURA』の出荷準備を始めます」


 崇は順番に一人ずつ視線を向けた。

 杜氏は、蔵人たちは、うつむいていなかった。その顔はしっかり前を向いていて、希望に燃えているようにさえ見えた。変化のない淀んだ毎日から脱却できることを素直に喜んでいるようにも感じた。


 大丈夫だ。

 再建できる。


 確信した崇は、「日本を代表する酒蔵になる!」と声に力を込めて言い切った。



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