父親の愛情
「お帰りなさい」
父親に付き添われて母親が10日振りに帰宅した。
「ただいま」
明るい声だった。右胸は左胸と同じように膨らんでいた。そのせいか、落ち込んでいる様子はまったく感じられなかった。
「迷惑かけたわね」
咲の肩に手を置いた。家事全般を一手に引き受けたことへの労いのようだった。
「おいしいものを作るわね」
早速料理をするつもりでいるようだった。
「まだだめよ。それに今日はお寿司を頼んでいるからなんにもしなくていいのよ」
すると、なんでお寿司? というように首を少し傾げた。
「退院祝いだよ」
父親が笑みを浮かべると、やっと頬を緩めて「ありがとう」と言った。しかし、それは弱々しく、まだ調子が万全ではないことを思わせた。それを父親も感づいたのだろう、「少し休んだ方がいい」と布団をひいている和室へと母親を誘導した。
「ゆっくり休んでね」
背中に向けて咲が声をかけると、母親は振り返らずに右手を少し上げた。
*
母親が起きてくるのを待って、夕食を始めた。
「おいしいね」
病院食から解放されたせいか、母親は満面に笑みを湛えていた。
「ウニ食べる?」
咲は自分の分を指差した。ウニは母親の大好物で、今日も最初に口にしていた。
「ありがとう。でも、もう充分」
頷きのあとで、右の掌を向けた。
「お腹がびっくりして全部食べられるかどうか……」
目の前の特上セットを見つめながら肩を少し上げた。
「ゆっくり食べたらいいよ」
笑みを浮かべた父親が母親の肩に手を置いた。
それはとても愛情のこもった仕草だった。
なんだかジーンとして、潤んでしまった。
*
食事が終わって、母親に付き添った咲は和室で着替えを手伝った。
「見ないでね」
母親は咲に背を向けてブラジャーを取った。新しい補正ブラジャーを咲が後ろから渡すと、背中を向けたままで身に着けた。そしてパジャマに着替えて布団の中に入ると、「相談した?」と上を向いたまま声をかけられた。
首を振ると、「大学院?」と見つめられた。
やはりお見通しだった。
しかし、頷かなかった。
頷けるわけがなかった。
それでも背中を押すよう声が続いた。
「行きなさい。心配しなくていいのよ」
布団から右手を出して、正座している右手の上に乗せた。
「お父さんを呼んできて」
笑みを浮かべて促された。
でも、呼べば2人揃って進学を進めるのはわかっているので動かないでいると、
「さあ早く」と手を強く握られた。
仕方なく居間に行った。
「お母さんが呼んでる」
「そうか」
父親は新聞をテーブルの上に置いて、立ち上がった。
*
母の部屋に戻って父親の横に正座すると、「さあ」と促された。でも、口を開くことはできなかった。母親の気持ちは嬉しかったが、今後長い治療を受けるかもしれないことを考えると、安易に言い出せなかった。転移する可能性がゼロではないし、そうなれば再手術ということになり、入退院が続くかもしれないのだ。
そんな状態で大学院へ行かせてくれとは言えなかった。しかも、自分が進学すれば音も行きたくなるだろう。そうなると両親の経済的負担は半端なものではなくなる。何もなくても大変なのに、こんな非常事態で切り出すべきではないのだ。
黙ってうつむいていると、「咲」と呼びかける声が聞こえ、顔を向けると、父親の真剣な目に捕えられた。
「子供が親の懐を心配する必要はないんだよ。こう見えても人並み以上の給料は貰っているし、貯金だって少なからずあるんだからね。子供2人を大学院にやるくらいどうってことはないんだ」
「でも……」
「心配するな。贅沢さえしなければなんとかなる」
そこで強く見つめられた。
「なんとかならなくなったとしても、子供が一流になるためなら借金をしてでも投資してやる」
「えっ!」
喉が詰まったようになった。父親の目を見つめたまま固まっていると、「咲」と今度は母親から呼びかけられた。
「あなたが幸せになることが私の願いなの」
「そうだよ。お前が幸せにならなかったらお母さんも元気にならないよ」
「その通りよ。病気と闘うための一番の薬はあなたの幸せなの。だから大学院に行って。そして、勉強したことを私に教えて。お願い」




