母親の真意
お母さんは何が言いたかったのだろう?
病院を出てから家に帰るまでその問いは続いた。それはベッドに入るまで途切れることはなかった。「今できることを精一杯しなければならないの。そうしないと間違いなくあとで悔やむことになると思うの」という母親の声だけが頭の中で何度も反復していた。
そのまま受け取れば〈悔いのないように今を生きなさい〉ということになるのだが、言いたいのはそんなことではないように思えた。
もしかして、私の悩みを知っているのだろうか?
急にそんな気がしてきた。母親に大学院のことは相談していなかったが、薄々気づいていたのかもしれない。なんと言っても母親なのだ。子供の考えていることはすべてお見通しなのかもしれない。
でも、今はそんなことを考えている場合ではない。明日の手術のことに集中しなければならない。手術室に入る直前まで手を握って応援してあげなければならない。成功して悪いものがすべて取り除かれることを願わなければならない。再発しないことを祈らなければならない。自分のことなんてどうでもいい。母親のことだけを考えなければならない。
咲は大きく深呼吸して、すべての邪念を取り除こうとした。そして、胸の前で両手を合わせて、母親のために祈り続けた。
*
翌日、父親と音と共に固唾を呑んで待ち続ける中、3時間を超える手術が終わった。
手術室から出てきた母親はまだ麻酔から完全に冷めていないのか、ボーっとしたような感じだった。
「よく頑張ったね」
声をかけると、僅かに頷いた。その途端、目に霞みがかかったようになった。動くベッドに手を添えながら無言で病室までの廊下を歩いた。
医師に呼ばれていた父親が病室に返ってきた。明るい顔だった。
「大成功だってさ」
事前の検査結果通り、転移はなかったらしい。1週間ほどで退院できることも朗報だった。
「良かった」
ほぼ同時に安堵の息が漏れたが、それは咲と音だけで、母親の顔に笑みはなかった。手術後の疲れのせいだと思われたが、精神的なショックも大きいに違いなかった。女性のシンボルでもある乳房が片方無くなったのだ。心にダメージを受けないはずはなかった。
「今日はゆっくり休ませてあげよう」
父親に促されて、音と共に部屋を出た。
*
「ちょっといいかな」
自宅に戻ってしばらくしてから、父親に呼ばれた。母親のことで話があるという。
「医者が言うには、アメリカでは特殊なジェル状のものを使って乳房を再建する手術が始まっているらしいんだが、残念ながら日本ではまだ行われていないらしい。だから下着やパットを使ってわからないように誤魔化さなければならないようなんだ」
男である自分にはそのあたりがよくわからないから手伝って欲しいと言う。
「ただでさえ癌になったことでショックを受けている上に、おっぱいが一つなくなって辛い思いをしていると思うから、支えてやって欲しいんだ」
「うん、わかった」
片方の胸がペッタンコのままでは母親の気持ちが晴れないだろうことは容易に想像できた。
「看護師さんからアドバイスを貰ってお母さんが納得できる補正下着を探してみる」
早速明日から始めると告げて部屋に戻ろうとしたが、話はそれで終わりではなかった。
「ところで、何か相談したいことがあるのかい」
「えっ?」
「何かあるんだろう?」
「何かって何?」
「それはわからないけど……」
父親が言うには、昨日の夜、母親から電話があって、咲が何か相談したがっているようだから話を聞いてやって欲しいと頼まれたのだと言う。
「別に……」
咲は父親から視線を外したが、「卒業後のことかい?」と言い当てられてしまった。
しかし、そのことを口にすることはできなかった。母親の手術が終わったばかりなのだ。自分のことなんてどうでもよかった。
「お母さんの病気のことは心配しなくていいんだよ。手術はうまくいったし、転移もなかったんだから。それに入院も手術も保険がきくからお金の心配もない」
心配しているだろうことをすべて取り除くかのような穏やかな声だった。
「うん」
でも、それ以上話す気にはなれなかった。少なくとも母親が退院して家に帰ってくるまでは自分のことは棚上げにしたかった。頷きを返しただけで、父親に背を向けた。




