おっぱい
咲が大学院進学の話を両親に切り出そうとした4年生の春、突然、母親が入院した。乳がんだった。2センチほどの大きさだという。幸運なことにリンパ節や他の臓器への転移はないようだったが、根治のために乳房全切除術が行われることになった。
手術のことを父親から聞いた咲は目の前が真っ暗になった。母親が受けたショックを考えると、居たたまれなくなった。父親から大丈夫だからと言われたが、母親の顔が思い浮かぶと涙が止まらなくなった。
自分の部屋に戻って気持ちを落ち着かせてから、服の中に手を入れてブラジャーを上にずらし、右の乳房を左手で覆った。母親が手術を受ける同じ側の乳房だった。膨らみと重みを感じる手を下にずらすと、ペッタンコの皮膚しかなかった。
同じことをもう一度繰り返した。その瞬間、嗚咽が襲ってきた。母親の右胸がペッタンコになるなんて信じられなかった。片方とはいえ、乳房のない体になるなんて想像ができなかった。
女にとって……、
呟いてすぐ、その先の言葉を飲み込んだ。女としてまだ20年ちょっとしか生きていないのだ、安易に口に出すわけにはいかなかった。でも、それを我慢した分、手術の前になんとしても母親の乳房を見なければならないという思いが募ってきた。
それがどんどん強くなってきて止められなくなった。それが可能かどうかはわからないが、見なければ後悔するという強迫観念が襲ってきた。
でも、母親にお願いしていいものかどうかわからなかった。精神的に最悪の状態にある母親を傷つけるようなことはしたくなかったからだ。それでも見たいという気持ちを消すことはできなかった。
*
手術の前日の朝、母親を見舞いに行った。父親と音も一緒だった。思いの外、母親は落ち着いていて、顔色も悪くなかったので安心したが、手術や病気のことを触れないようにして当たり障りのない話を続けた。
昼食の時間になって病院食が運ばれてくると、それを合図にしたように父親が立ち上がり、病院の食堂に誘われた。
でも、咲は病室に残った。1秒でも長く母親の傍に居たかった。
個室だったために誰もいなくなった。咲はベッドの横にある丸椅子に腰かけて、母親が食事を終えるのをじっと待った。病院食は美味しくないと聞いていたので残すかと思ったが、母親はすべてを平らげた。手術前に体力をつけなければならないと思って食べ切ったのかもしれなかった。
咲は空になったお膳を病室の外に出して、内側から鍵をかけた。そして、丸椅子に座って母親に向き合った。
「お願いがあるの」
緊張からか、声が上ずった。
「こんなこと言って怒られるかもしれないけど、どうしても」
突然涙が零れてきて、声が続かなくなった。
「どうしたの?」
手を伸ばした母親がそっと涙をぬぐってくれた。
「なに?」
優しい声に後押しされた。
「あのね」
母親が頷いた。
「おっぱいをね」
声が掠れた。
「見たいの」
また涙が溢れて声が出なくなったが、母親は嫌な顔をせず、「いいわよ」とパジャマのボタンを上から外し始めた。咲はそれをドキドキしながら見つめた。
ブラジャーに包まれた丸い胸が見えると、母親は背中に手を回してホックを外し、ブラジャーを取って掛け布団の上に置いた。
おっぱいが露わになった。子供の時、一緒にお風呂に入った時の記憶よりは少し垂れているような気がしたが、それでも形のいいおっぱいだと思った。すると、母親が咲の右手を掴んで、その手を胸に誘導した。
「これでいい?」
咲は頷いた。柔らかくて温かくて懐かしいおっぱいが掌の中にあった。母親が咲の手の上に自分の左手を重ねると、その顔が強ばってきたように見えた。
「明日になったら」
声が震えた。
手も震えていた。
手術のことを想像したのかもしれなかった。
この柔らかくて温かくて懐かしいおっぱいが消えてしまうのだ。
震えないわけがない。
たまらなくなって手を離そうとすると、母親の手がそれを止めた。
「あなたを抱いておっぱいを飲ませた時のことを思い出すわ」
精一杯無理をして声を絞り出したようだった。
「乳首を噛まれた時があってね」
泣き笑いのような顔で咲を見つめた。
「痛くて声を出してしまったの」
その時のことを思い出したように顔をしかめた。
「吸ってくれる?」
「えっ⁉」
その意味を咄嗟に理解することができなかった。ぽかんと口が開いたまま、母を見つめたまま、動くことができなくなった。
「赤ちゃんの時のように吸ってくれる?」
じっと見つめられた。
「目や手だけではなくて口でも覚えていて欲しいの」
お願い、というように目で促された。
「うん」
ちゃんと返事したつもりが、掠れた声になった。自分のものではないみたいだった。
「ありがとう」
母親が手を離したので咲も離すと、少し黒ずんだような乳首が現れた。でも、きれいだった。目に焼き付けなければならないと思った。もう二度と見ることができなくなるのだ。目を離すなんてできるはずはなかった。
しかし、いつまでもそうしているわけにはいかなかった。父親と音がいつ戻ってくるかわからないのだ。咲はもう一度目に焼き付けてから、閉じたままの唇をそっと当てた。
すると、優しい匂いがしたような気がした。そっと口に含むと、その瞬間、涙が零れて嗚咽が漏れた。
それは咲だけではなかった。咲が唇を離そうとすると、頭を押さえつけられた。もっと吸ってというふうに少し強く押さえつけられた。咲は目を閉じて口の中の乳首に意識を集中し、感触を忘れないようにすべての神経を口に集めた。そして、何度も吸った。何度も何度も。
「ありがとう」
口を離した咲の頭を母親が撫でた。
「これで私も忘れない。ここにあなたが吸ってくれた乳首があったことを、あなたが掌で包んでくれたおっぱいがあったことを」
愛おしそうに乳房を撫でてからブラジャーを付けた。そして、パジャマに腕を通してボタンを一つずつはめていき、何事もなかったようなパジャマ姿の母親に戻った。
「咲」
さっきおっぱいを触った右手を母親の両手が包み込んだ。
「こんなことになるとは思ってもみなかったわ。自分が癌になるなんて考えたこともなかった」
母親の手に力が入った。
「明日のことは誰にもわからないの」
鼻から微かな息が漏れた。
「わからないからこそ、今できることを精一杯しなければならないの。そうしないと間違いなくあとで悔やむことになると思うの」
何かを伝えたいというような切羽詰まった顔になった。
「咲」
母親が顔を近づけた。
その時、ドアノブを回す音がした。続いて父親の声がした。母親が頷いたのでロックを解除すると、父親と音が入ってきた。母親と2人だけの世界がそこで終わった。




