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灘生一本酒造

 

 若葉の輝きが増し始めた頃、一徹と崇は神戸の灘にいた。

 訪れたのは、灘生一本酒造だった。辛口の酒『六甲錦醸』で有名な酒蔵である。ここでも蔵元が温かく迎えてくれて、夜には自宅に招いてくれた。テーブルの上にはホタルイカや桜エビ、明石鯛や磯で獲れたメバルなどの旬の食材が並んでいた。


「寂しくなりますね……」


 伏し目がちになった蔵元はふーっと息を吐き、一徹を見つめた。


「本当にお世話になりました」


 しみじみとした声を発した一徹は、「私同様、こいつをよろしくお願いします」と崇を目線をやってから頭を下げた。


「もちろんです。一徹さんが見込まれた方ですから」


 にこやかな笑みを浮かべた蔵元は崇に六甲錦醸を注いだ


「よろしくお願いいたします」


 両手で盃を上げた崇は慈しむように飲んだ。


 その後は、一徹を労っては盃に注ぎ、崇を激励しては徳利を傾ける、しみじみとした中にも温かみのある時間が過ぎていった。


 しかし、ある一言で和やかなムードが吹き飛んでしまった。それは、同席していた杜氏の言葉だった。


「華村さんとは、これきりだね」


 赤ら顔で吐き捨てた。


「えっ、これきりって……」


 驚く崇に強い口調で、「こんな若造に酒のことなんてわかる訳がない」と切り捨てた。


 こんな若造って……、


 自分でも顔が強張ったのがわかったが、そんなことはお構いなしという感じで、追い打ちをかけるような厳しい声が飛んできた


「うちの酒は特別な酒だ。訳のわからん奴には触らせない」


 それを聞いた途端、頭の中に北海入魂酒造の蔵元の危惧が蘇ってきた。代替わりが縁の切れ目になろうとしているのだ。横にいる蔵元が取りなそうとしてくれたが、杜氏は頑として首を横に振った。


「お前みたいな素人の若造に日本酒の何がわかるんだ!」


 ドスの利いた声を発して睨まれた崇は金縛りのようになって固まってしまった。しかしその時、「わしが見込んだ(せがれ)ですから」と杜氏に酒を注ぎながら一徹が柔らかな笑みを浮かべた。


 えっ、倅? 

 婿養子ではなく倅⁉


 その瞬間、崇の金縛りが解けた。


「オヤジのようにはできませんが、華村酒店の後継者として精一杯やりますので、引き続きのご贔屓(ひいき)をお願い致します」


 崇はテーブルに額を付けた。必死の思いを込めて十を数え終えるまで付け続けた。

 それでも杜氏の態度は変わらなかった。顔を上げた崇を睨みつけたまま硬い表情で腕組みを解かなかった。

 それで崇はまた固まってしまったが、一徹の声が場を和ませようとした。


「明日、またお邪魔します。倅と将棋でも指して、こいつの人柄を見てやって下さい」


 一徹は杜氏に笑みを向けて、軽く頭を下げた。


        *


「参りました」


 崇はまた杜氏に頭を下げた。二戦続けての負けだった。二戦とも序盤は崇が優勢なのに中盤で互角になり、終盤になると王手を指されるのだ。

 崇は悪手は指していない。でも負けた。杜氏の将棋は強かった。


 これで終わりだ……、


 崇は観念した。せっかく一徹が最後のチャンスを作ってくれたのに、それを台無しにしてしまったと思った。素人と(さげす)まれた自分が存在感を示すためには将棋で勝つしかないと気合を入れて臨んだが、その(ねが)いは泡となって消えてしまった。


 これで終わりだ、


 部屋の空気が固まったように感じ、顔が青ざめていくのが手に取るようにわかった。一徹の顔を見ることができなかった。もちろん、杜氏の顔も見れるはずがなかった。うつむいたまま、ただ時が永遠を刻み続けるのを甘受していた。


 それは、崇が両膝においた拳を握りしめた時だった。

 空気がふわっと揺れて、頬を撫でたような気がした。

 思わず顔を上げると、「素直な指し手だな」とにこりともせずに杜氏が言った。


「さて、仕事に戻るか」


 杜氏が腰を上げて部屋から出ようとした時、一瞬立ち止まって、後姿のまま声を出した。


「また、指しに来いよ」


        *


「ありがとうございました」


 駅に向かう道すがら一徹に頭を下げると、「よかった。よかった」と同じ言葉を何度も呟いた。


 自分一人だったらどうなっていたかわからない。長年の付き合いで杜氏の性格や趣味を知り尽くしていたからこそ、一徹は焦ることなく事を丸く収めた。


 自分も一徹のように蔵元や杜氏から温かく迎えられたい。一徹のように蔵元や杜氏と特別な信頼関係を築きたい。そのためには何が必要なのか……、崇は歩きながら必死になって考え続けたが、容易に答えが見つかるはずもなかった。


 駅に着いた。電車が来るまでに少し時間があったので近くの居酒屋に入ると、席に座るなり一徹が六甲錦醸を頼んだ。


 運ばれてきた酒を崇が注ぐと、一徹は噛むようにしてからゴクンと飲み干し、頬を緩めた。


「旨いな~、この酒は」


 なんとも言えないその顔に崇は見惚れた。


「こんな旨い酒を造る杜氏はめったにいない」


 そうだろう、というような表情で一徹は崇のお猪口に六甲錦醸を注いだ。


「頑固だから造れるんだ、こんな旨い酒を」


 一徹は味わうように飲み干した。


 その通りだと思った。一途な気持ちが無ければ旨い酒は造れない。その通りだ。頷いた崇にほろ酔い顔の一徹が呟いた。


「損得抜きで酒を愛し、人を愛す」



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