発展していく後退できない関係①
「何だかんだいっても、修吾サンも謎の人だよねぇ」
「そ?」
まどかの言葉に、ハルは首を傾けた。
短い髪が頬にかかるように、ふわりと揺れる。
すでに夏らしい陽気だったが、ハルの首筋は涼やかに白い。襟足を短く切ったばかりのせいか、その白さは際だっているように見える。特別華奢なわけではないが、見るものにどこか儚い印象を与えた。まどかの艶やかで健康的な肌とは対照的で、そのせいでさらにその印象が深まっているのかもしれない。
まどがは、その白さに一瞬だけ顔を顰めた。
(謎ってむずかしい定義だとおもうけど)
ハルはまどかの言葉を反芻するように考えて、まどかの言う謎という表現もあながち外れていないという結論に至る。
というのも、ハルは修吾と毎週一緒に珈琲を飲む関係であるにも関わらず、その名前と連絡先とアカネの知人という情報以外を知らないことに気づいたからである。
乗っている車や好みの香水、よく着るブランドにいつも飲む珈琲のブレンドの配合は知っている。どんな本を読むか、寒色よりも暖色を好むことや異性にモテること、音楽はあまり詳しくないが室内楽のコンサートにはたまに行くことなども知っている。
しかし、どんな家族構成でどこに住んでいるかや、どういった職に就いて今までどのような人生を送ってきたのかということは一切知らなかったのだ。
「知りたいとは思わないわけ?」
「必要ないもの」
謎は多いかもしれないが、知るべきことは知っている。
それに、なんとなくではあるが、ハルは修吾がそういった情報を自分に知られたくなさそうだと思っていた。知られたくないと思っているだろう理由までは分からないが、知られたくないことを知りたいと思うほどハルは修吾に対して関心がなかったし、礼儀知らずになりたくないとも思っていた。
この、お互いの意思ひとつでつながる淡い関係が、ハルにはとても好ましかった。
リヒトとは、ありえない関係の在り方である。
「ふーん」
「何?」
どこか不満そうなまどかに、ハルはきょとりと視線を向ける。
まどかの表情はいつもどおりにからかいめいていたが、ハルはまどかの指がもどかしそうに机を叩いているのに気づく。綺麗な珊瑚色に塗られた爪が、たまにカツリと鳴っていた。
「毎週デートしてるわりには冷めてるなっと思ってさ」
「デートじゃないよ」
「二人っきりで喫茶店、十分デートだと思うけど。愛しのりーくんには秘密の関係ってやつでしょ」
皮肉っぽい言いように、ハルはふるりと首を横に振る。
まどかがハルと修吾をくっつけようとする言動は珍しくはないが、今日は特にしつこく感じた。まるで、早く既成事実もしくは言質をとりたいかのようだった。
「アカネさんもいるもの。りーくんには、訊かれてないから言ってないだけ」
「それって、浮気の言い訳の常套句じゃん」
じっと見つめたまま弁解すれば、肩をすくめたまどかにすぐさま否定される。
浮気、というまったく身に覚えも馴染みもない単語は、ハルの心に響くことはない。知識の表面を上滑りしていくような感覚しかないハルは、そんな内心を隠すこともしない。
そんなハルの様子に、まどかはますます口調に熱がこもっていくようだった。
「そうなの?」
「そうなの!てか、王子とさっさと別れて修吾さんと付き合っちゃえば良いじゃん」
何度目かになるまどかのお決まりの台詞に、ハルは少しげんなりする。
返す言葉が変わることもないのだから、ハルにとってはそれも仕方がないことだった。
「…りーくんが別れたいなら、」
「何ソレ」
当然のように返すハルの言葉は、特別珍しいものではない。いつもの、少なくとも以前のまどかなら軽く諌めつつも流しただろう反応だ。
それが最近、正確にはこのひと月ほどは目に見えて不機嫌な様子になる。
今日の反応は、さらにあからさまであり、さすがのハルもつい反駁してしまうほどだった。
「まどかさん、なんでそんなに苛々してるの?」
「別に」
きゅ、と噛みしめられた唇が痛そうだった。
ふいと逸らしたまどかの視線は、ただ空いている席に向けられている。やや伏せられた瞼からのびる睫毛は長くゆるやかな曲線を描き、その影はまどかの頬に落ちていた。どこか寂しげで悔しそうな横顔に、ハルはつい問いを重ねた。
一瞬、このままだと泣きだすかと思ったのである。
「私が修吾さんと会うの、嫌?」
「そんなこと言ってないって!むしろ、ハルには修吾さんみたいなひとが合ってるって思うし」
ハルの言葉に、まどかは慌ててハルに向き直った。
当然のことながら、その目に涙の影はない。そのことにほっとしつつも、ハルはだんだん訝しげな声になることを止められなかった。
「なら、りーくんと別れない私が嫌なの?」
「…ハルのためだよ」
「ほんとに?」
「あー、もう!わかった。私、もともと隠し事とか嫌いだし。こうやって遠まわしに言うのも好きじゃないから言うけどさ」
ハルの静かな問い返しに、まどかは耐え切れなくなったように小さく叫んだ。
ぐしゃりと前髪をつかんだ右手の小指には、鎖型のリングが光っている。その乱暴な仕草とは対照的な繊細な輝きに、ハルは一瞬だけ意識を奪われた。
「私、リヒトと寝たよ」
「…え、そうなの」
一拍だけ遅れた返答は、指輪に気をとられたせいだけではない。
ハルは、まどかがリヒトを王子だ浮気者だと敬遠していただけでなく、その周囲に群がってハルをリヒトから遠ざけようとする女の子たちを心底軽蔑していたことを知っている。むしろ、そのことについての罵倒を聞かされていたのはハルなのだ。
そんなまどかが取り巻きと同じような行動を取ったということは、リヒトと関係を持ったこと以上にハルにとっては意外だったのだ。
「他に何か言うことないの?あんたの彼氏とセックスしたって言ってるんだけど」
「まどかさんが…」
直裁的な言い方に、ハルは思わず口を開いた。
(まどかさんが誘ったんでしょ?)
しかし、途中まで口に上った言葉は、あまりの嫌味で陳腐な響きに立ち消えた。
ハルにとってまどかは、たとえリヒトをハルから奪おうとしているとはいえ、まだ友人という位置づけであることにかわりはなかった。
それに、好意の反対は悪意ではなくて無関心だとはよく言われることだ。まどかのリヒトへの今までの態度も、意識すればこそであったと考えればハルにとってそこまで驚くことではないのだ。
何より、リヒトにはそういった感情を逆転させる魅力があることを、ハルはよく知っていた。
口を噤んだハルに、まどかの視線がきつくなる。
「私が、何?」
「なんでも、ない」
驚きよりも混乱、むしろ戸惑いがハルの思考を鈍らせた。
この段に至ってもなお、結局まどかがハルに何を望んでいるのか見当がつかなかったのだ。
「本当に?もし本当に何でもないなんて思ってるなら、私を馬鹿にしてるかリヒトを馬鹿にしてるかのどっちかとしか思えないんだけど。王子なリヒトにはうんざりしてたけど、ハルはどっかオカシイよ」
「馬鹿になんてしてない」
「…あっそ、別にどうでもいいけど」
期待していた反応がハルからはまったく得られないことが分かり、まどかの高まっていた興奮が収まりはじめる。
すとん、と肩から力を抜いたまどかに、ようやくハルはまともな言葉を発した。
「それで、まどかさんは私からりーくんに別れようって言って欲しいの?」
「それが馬鹿にしてるって言ってんの!……私またリヒトと寝るよ、好きだもん。それでも、あんたは別れたくないってわけ?」
「わ、かんない」
一瞬詰まって目を伏せたハルに、まどかはため息をひとつ零す。
それに、ハルは俯いたままぴくりと反応した。
「…どんだけぼんやりしてるつもりか知らないけど、私、謝らないから」
「そんなつもりない」
かたり、と椅子をならしてまどかは立ち上がった。
つられるように見上げれば、苦しいような切ないような、それでいて恋に溺れている視線に射竦められる。ぴりぴりとした空気が、たしかにあった居心地の良い関係だったはずのところに流れている。
ハルは、まどかが敢えて悪者ぶろうとしていると思う。
同時に、まどかがハルとの繋がりを一方的に絶とうとしていることにも気づく。
それでもハルに為す術などない。
「まだリヒトの一番はハルかもしれないけど、もう特別じゃないんだから」
その言葉に篭められたのは、恋情と悲哀とほんの少しの優越感、そして怒り。
それまではどこか薄い膜を隔てて聞こえてきていたまどかの言葉だったが、この言葉だけはハルのなかへ鮮やかに響いた。それまでのまどかの言葉をかき消すほどに、鮮やかだった。
言葉を返さないハルを一瞥し、まどかは教室から出て行く。
ぴんと伸びた背筋は変わらず凛々しい。
そんなまどかの後姿をぼんやり見送りながら、ハルはひとりごちらずにはいられなかった。
(特別だもん。りーくんの特別だけは、なくしたくない)
それは、自らに言い聞かせているようなものだった。
今までは、まどかの最後の言葉を聞くその一瞬前までは、疑うことのなかったリヒトの特別である自分という存在の確認であった。
そう内心で呟いて、空しく響いたことにまた驚く。
確信していたはずのことが、まどかの言葉で揺らいでしまったことが信じられなかった。
ハルは、ふらりと立ち上がって、何かを探すように周りを見わたした。昼休みに入ってしばらく経った教室は閑散としていて、隅に見知らぬ数人の学生たちが固まっているだけである。
無意識に探したリヒトを見出すことはない。
(まだ、りーくんは私を選んでくれる?)
はふり、と吐いた息は思いのほか重かった。