問題⑤
日曜日、ハルは久しぶりに賑やかなリビングに驚いた。
「ハルちゃん!なんだか久しぶりねぇ」
久しぶりに聞く華やかな声は、二十歳のハルよりもずっと若々しい空気をふりましている。優しく楽しげな口調には、ハルへの気遣いがあふれていた。
そんなセリフに、リヒトは苦笑しながらハルを手招いた。
「そうは言っても、一ヶ月くらいじゃん。ハル、そんなことに居ないでこっち来なよー」
「ハル、昼は食べたのかい?良ければ一緒に食べよう」
じわじわと目の前の光景に現実感が出てきて、ハルは駆け寄りたい気持ちをぐっとこらえる。
それでも堪えきれない喜びが、ハルを満面の笑みにさせた。
「スズさんリカさん、お帰りなさい!お久しぶりです」
リヒトの両親である涼也と百合佳、それにリヒトとハルの四人が揃うのは四月ぶりである。もうすぐ五月も終わろうとしているのだから、正確には一ヵ月半ぶりだ。
同じ家に住む家族としては、ハルの言うように久しぶりといえるだろう。
(どうしようすごく嬉しい。よかった、顔だけでも洗ってきてて)
ハルは、自分を引きとって育てたリヒトの両親に多大なる好意を持っていた。
それは返しきれないだろう恩や長年一緒に暮らしてきた親しみのためばかりではなく、この夫婦のハルをまるで子供のように自然に甘やかす空気のためであった。リヒトの少しだけ背伸びした甘やかしたいという意志をともなったそれとは異なる、どこまでも無意識下に漂う空気である。
それはハルにとって気恥ずかしさを感じるものではあったが、それでも失くした何かが埋まるような感覚は手放すことができないものなのだ。
「ただいま、ハルちゃん。なんだか大人っぽくなったわねぇ。髪の毛が短くなったせいかしら?」
「少しだけ背、伸びたから」
「ふふふ」
ソファに座る百合佳の隣に腰掛ければ、百合佳の細い指が寝起きで少し乱れたハルの髪を撫でつけた。こういう仕草をてらいなくすところを目の当たりにするたびに、リヒトが百合佳に育てられたことをハルは実感させられる。
リヒトにされるよりも、ハルにとっては百合佳にされるほうがくすぐったい気持ちになった。
「父さん、昼ってデリバリー?」
「いや、美那子さんが作ってくれてあるはずだが」
美那子さんというのは通いの家政婦のことであり、留守がちな中谷家の一階を取り仕切っている六十歳になろうかという妙齢の女性である。ハルが寝過ごした午前中に、すでに仕事を終えて帰宅したのだろう。ハキハキとした物言いと柔らかな笑顔に会えなかったことを、ハルは少し残念に思った。
「わかったー」
「あ、私がやる!りーくん触っちゃダメ」
すでに冷蔵庫を開けようとしているリヒトに気づいたハルは、慌てて立ち上がった。
そんなハルを見た百合佳は面白そうに、涼也は困ったように笑った。
「ふふ、ハルちゃんたら過保護ねぇ」
「あんまりアイツを甘やかさなくていいんだよ?」
「でも、この前りーくんコンロ壊したばっかりだから…」
すべて電化されている調理器具の中でも、スイッチひとつて動かせるコンロが動かなくなってしまったことは記憶に新しい。いつもは優しい美那子も、さすがに呆れたようにリヒトへ苦情を述べていた。
「あら」
「しょうもないな」
二人は呆れたように笑っているが、それがどれほどオカシイことかということをハルほどは正確に分かっていないに違いない。なぜなら、この二人もリヒトと同様かそれ以上に家事というものに携わったことがない類の人間なのだ。
「ハルー!これってレンジに入れるやつ?」
「それはダメ、こっちに移しかえて」
「ん」
「あ、これ使って」
「ハーイ」
何だかんだと言いながらも、温めるだけの準備にそこまで手間はかからない。
さしたる時間もかけずに整った食卓は、美那子さんの家事能力の高さによってかなり充実したものとなっていた。少なくない品数のおかずは、どれも手が込んでいて美味しそうである。
「そーいえば、いつまで居る予定?」
「今日はこれを食べたらすぐ出るよ。その代わり、七月からしばらくは戻れそうなんだ」
「今から四人で暮すの楽しみだわぁ」
「別におれとハルは二人でも楽しいけどね、ねーハル?」
「四人のほうが楽しいと思うよ」
「えー、夫婦ごっこできなくなっちゃうんだよぉ?」
「リヒト、お前はハルに何をさせてるんだ」
「ふふ!リヒトったらやらしい」
「…してません」
ハルとリヒトが、恋人という関係になったのはほぼ一年前のことである。
それは涼也も百合佳もすでに知っていることである。内緒にする必要もつもりもなかった二人は、付き合うことになったその日に二人へ報告したのだ。
なので、すでに成人している恋人同士がプラトニックな関係だと思われているはずはないとハルも分かってはいる。しかしながら、そういった話を涼也と百合佳にすることは、ハルにとってどう位置づけていいかいまだに分からないほど戸惑うことなのだった。
(あえていうなら、箱入り息子を誑かした雌狐が良心に目覚めた気分…)
明け透けともいえる中谷家のからかいに、ハルは目を伏せて否定することしかできない。
もともと多くない口数は、こうなるとほとんどなくなると言ってよいだろう。
「もう!ふふっ分かってるわよ、ハルちゃんったら真面目なんだから!」
「ホント、夜遊びもしないしー。ハルは本ばっか読んでさ」
リヒトは不満そうにハルを横目で見やった。土曜日の夜にリヒトが誘った夜遊びを、本を理由に断ったことを根に持っているのだ。自分に非はないと思いつつも、ハルはどこか後ろめたそうに身じろぐ。
「だってアカネさんの本だったから」
「…ふはっ、別にそんな気にしてないよ」
「ん」
「あら、ハルちゃん今も茜ちゃんとよく会ってるの?」
ハルの口から発せられたアカネの名に、百合佳は少し驚いたように目を瞬いた。
アカネの店がハルとリヒトの通う大学近くにあることは知っていても、そこにハルが通っているとは思わなかったのだ。百合佳の知るかぎりにおいて、ハルとアカネの関係はさほど親密ではない。
「大学から近いし、よく珈琲飲みにいってます。美味しいから」
「私は最近とんとご無沙汰なのよねぇ…あいかわらずモテてるのかしら?」
ハルの語るアカネの近況に、百合佳は懐かしむように微笑んだ。
アカネと百合佳は高校の同窓であり、卒業してから数十年たった今もその親交は続いていた。そのため、中谷家に引きとられたハルとアカネも知り合うことになったのだ。もっとも、その頃はハルとアカネの関係は百合佳の考えていたようにさほど親しいものではなかった。親しかったと言えないこともないが、それは少なくとも中谷家の人間を介してこそであり、一対一の親交はなかったといえる。
現在のような関係になったのは、ハルが大学に入学してようやく一年ばかり経ってからだ。
「とっても。老若問わず大人気ですよ。最近ますます美しくて」
「ふふふ、幸せゆえね」
百合佳がこういうのは、アカネが結婚して息子がすくすくと成長しているからである。
ある意味で、ごく一般的な普通の幸せである。百合佳がアカネにとってさも得がたいものかのように話すのを、ハルハいつも不思議に思うのだが、百合佳に言わせると気の毒なくらいモテたアカネにとっては得がたいものだったということだ。
それだけが理由とは思えないほど感慨深そうな様子ではあったが、百合佳がそれ以上このことについて話すことはなかった。
「まぁハルの方が可愛いけどねー」
「リヒトはハルちゃんにメロメロね」
会話に割りこむようにハルを抱き込んだリヒトは、ハルの頭をぐしゃぐしゃとかき回して笑う。そんなリヒトに、百合佳はにこやかに応じた。
「おれの姫だもん」
「まぁハルはうちの姫だけどね」
「や、おれのだし!ってゆーか、ハルもおれにメロメロだし。ねー?」
「うんめろめろだよ」
「心こもってなさすぎ!照れすぎ!」
「はは」
「え、失笑?」
言葉遊びのようなやりとりは、まるでリヒトと対等であるかのような気分をハルの中に生む。そんな気分をハルは楽しんでいる自分を自覚するが、それは同時に本当はそうではないと知っているということである。これはもちろん、優劣や主従という関係があるという意味ではない。
すでに顔も忘れた実の母や確かな名も知らない実の父、そんな存在を凌駕するリヒトがハルにとって絶対的な生きる指針となっている事実が対となって等しいとは言えないと考えているだけである。
「ほんとにめろめろだよ、ふふ」
「…ハル、可愛すぎるっ」
いつになく素直なハルのセリフに、リヒトの構いたい心がはいたく刺激された。
さすがに両親の前でキスすることは思いとどまったが、がばりと抱きついてハルのこめかみへ頬ずりすることをやめることはできない。むしろハルが嫌がらないことをいいことに、本格的に抱き潰す体勢へと腕を動かしていく。
リヒトのスキンシップは、いつもハル限定で過剰気味だ。
そこに、他の女の子の影など微塵も感じさせることはない。ただひたすらに甘やかな、ハルへの愛情があるだけである。それはひたすら心地よく、いつ溺れても不思議はないとハルは思う。
(めろめろすぎて、ひとりでなんて生きてけないよ。りーくん)
温かいリヒトの腕の中で、ハルは幸せに少しだけ息苦しさを覚える。
(ああ、誰にもあげたくない)
そして、この温かい腕をいつか失うことがあるとしたら、それはリヒトがハルを捨てるときに違いないと思うのだった。