問題④
アカネの店で、修吾に珈琲とケーキさらには夕飯を奢られたハルは、機嫌良く風呂上りのひと時を過ごしていた。
一緒に住んでいる人達つまりリヒトの家族は出払っており、通いの家政婦も帰宅した静かで気楽な空間と時間である。すでに十五年以上を共に暮らしていたとしても、さすがにリヒトの両親の前であまりにだらしない行動は気が引ける。もっとも、多少は気を緩めたほうが彼らが喜ぶのをハルは知っているので、いつも折り目正しく生活しているわけではない。それでも一人であることの気ままさには及ばないのだ。
お気に入りのソファに、パジャマのままぐたりと寝転んでも気が咎める相手は居ない。
(新作、うれしい)
さらには読みたかった本をアカネから貸りたことで、ハルは満たされた気分を味わっていた。
もっとも、それが表情となって露わになっているわけではない。
(アカネさんも面白いっていってたし、楽しみ)
そして、この思考を最後に、ハルの意識は本の世界へ没入したのであった。
「ただいまー」
それから二時間も経たない夜の十時を回って帰宅したリヒトは、ハルの返事がないことに首を傾げつつリビングを覗いて、その理由を正確に理解した。
そして、ハルの感情を読むことにかけて右に出るものがいないリヒトは、ハルの機嫌の良さにもすぐ気がつき、それが視線の先の書籍によるものだということも分かる。だが、それだけではなさそうだとも思うのだった。
「ただいま、ご機嫌だねぇ?」
しかし、それだけではないことを察知することはできても、さすがに一緒に行動していないリヒトには要因まで思い至ることはできない。
ハルの耳元へ二度目の帰宅の挨拶をすれば、ようやくハルはリヒトの帰宅に気づいた。
「わ。ごめん、おかえり」
「んー。ご機嫌なのは、本のせい?」
ソファに寝転んだハルに屈みこむようにして、こめかみにキスをひとつ落としつつ尋ねれば、ハルは擽ったそうに笑って起き上がった。
同じ姿勢をとり続けたことで固まった腕を伸ばしつつ、ハルは本を膝の上で開く。
「本と、おいしいご飯のせいかな」
新しい本に関するハルの上機嫌は常態であり、リヒトの関心の対象になることはない。今だってリヒトと会話はしているが、ハルの意識は手元の本に向かったままだ。
それでも気になるのが、珈琲を飲みに出ることはあっても外食はあまりしないハルの外食を匂わす発言だ。思い出すのは、アカネの店に同行したはずのリヒトの知らない大人の男のことである。
「アカネさんとこで食べたの?珍しいね」
「付き合えって言われたから」
「それって、あのガッコに来てたひと?」
「ん」
特に疚しいこともなさそうなハルの様子に、リヒトはやっぱりねと思いつつもどこか面白くない気分がくすぶっているのを自覚する。それが何故かと考えても、ぼんやりとしたその気分を分析することはできなかった。
ただ、リヒトにはない意志の強そうな視線が、それがハルを見るのが気に食わないと思った。
それは、リヒトにとってはごく珍しい感情だったが、その感情がリヒトの声にのせられることはなかった。のせられたとしてもハルが気づくことはなかっただろうし、そんな感情をハルに悟られることをリヒトは善しとしていなかった。
ふんわりとした声の調子のまま、リヒトはさらに追求してみた。
「ごちそうしてもらったの?」
「ああ、うん」
そしてリヒトは、ますます面白くない気分になる。
さらに、ハルの返事でその理由に思い至り、面白くないのに加えて苦々しい気分にまでなった。友達やリヒトにさえ遠慮する奢られるという行為を、ほとんど他人を相手にハルが受け入れたという事実が、まるで甘やかされることを受け入れているようで面白くなかったのだ。
ハルを甘やかそうとする人間が、自分以外にいたことが面白くなかった。
それをハルが全く気にしていないのも気にかかる。
「…あの人とはどういう関係なの」
「友達」
「ほんとに?」
「うん」
「ほんとの本当に?」
「んー…」
思いの外しつこく問い詰められ、ハルは本に向けていた意識を少しだけ浮上させて考えてみる。
(どうだろ?といっても二回しか会ったことないし)
考えてはみたものの、考えるべき材料が少なすぎることに気づいたハルは、早々に考えることを放棄した。ハルの意識においては、修吾との関係はまだそこまで重要ではない。
「何?」
「まだ知人ってかんじ、かな」
「まだ、」
「ン?」
ハルの言葉を一部だけ繰りかえしたリヒトの声は、ハルでさえ気づくほど暗く沈んだ調子であった。
それは、思わず読みかけの本を閉じてしまうくらいに。
「お…!」
「お?」
「お兄ちゃんは許しません!!」
「あ、そう」
先ほどの沈んだ雰囲気が気のせいだと思っても無理はないだろう高いテンションに、真剣に心配したハルのテンションは急落した。思わず冷たい視線を投げるくらいには、面倒臭い気分になった。
「ハルー!流さないでよー最近なんか冷たい。かまって?」
冗談の範疇ではあるが、リヒトはハルに対して年上さらには兄ぶることを好む。
普段の行いなどからそれが叶えられることは滅多にないが、ハルはそれが自分とリヒトのこれまでの関係を鑑みるに仕方がないことだと理解していた。リヒトにとって、自分が守るべき弱者であることの必要性を知っていた。
よって、ごくたまにリヒトのお遊びに付き合うこともあった。
「お兄ちゃん、ハルは本が読みたいの」
もちろん仕方なく付き合っているという事実からも、そのセリフが客観的に聞いて可愛げのある声で紡がれることはない。この場合も完全に本が読みたいがゆえの一言でしかないことが伝わる口調である。
「!」
しかしながら、その行動が引き起こすリヒトにおける効果は、ハルの予想以上に無視できないものとなった。手元の本に視線を落としていたハルが気づくことはなかったが、いつまでも密着して動かないリヒトにようやく不審なものを感じはじめる。
「り、」
「おっお兄ちゃんがいくらでも読んであげるからっ!!もう可愛い、可愛すぎるよハル。なにこの子、ほんとうちの子可愛すぎて困るんだけどー。もうハルおれをこんなに悶えさててどうするつもり?」
ぐりぐりと抱き潰されながらも、ハルはたまにあるリヒトのこの発作を冷静な気持ちで受け止めたいと思っていた。しかしながら、そのあまりの興奮ぶりに意図せず本音をこぼしてしまった。
「りーくんきもい」
「でも、ハルはそんなおれも好きなんだよね?」
優しげな目を少し細めたリヒトが、ハルの手から本を取り上げる。
そこではじめて、ハルは二人の間にあった空気がじゃれあう子供同士のような雰囲気から恋人同士のそれに変化しはじめていることに気づく。
視線が絡めば、無意識のままにぽつりと告白させられる。
それはまさに、言わされるという気分になるような視線だった。
「…すき」
いくら幼馴染で家族でもあるとはいえ、二人はれっきとした恋人同士だ。
それ以前の関係までも、そんな関係に至ってからも、二人の間に格段の変化があったわけではない。しかし、触れたいという欲求が生まれなければ恋人という選択肢ができることはなかったに違いない。
少なくとも、ハルはそう認識していた。
そして、その認識こそがハルがリヒトを浮気していると思わない大きな理由のひとつであった。
リヒトの口づけをまぶたに受けながら、ハルはひっそりと微笑む。
(りーくんが触れたいと思うのは、私だけ)
たとえ、腕を組まれても、二人きりで会っていても、キスをしても。さすがにまだ体を重ねられたことはないが、時には誰かをハルよりも優先させることがあったとしても、それはすべて相手がリヒトに乞うたからなのだ。
(りーくんは、やさしいから、乞われたら断れない)
ゆっくりと背中をたどるリヒトの指にふるえながら、ハルはそっとリヒトの頤に額を寄せた。
だんだんと、くすぶるような熱が体の内に溜まっていけば、もうリヒトのなすがままに全てをゆだねることの心地良さに浸りきる。
ハルが乞わなくとも、リヒトは出来うるかぎりの優しさでハルを抱く。
(りーくんが、やさしくしたいのは私だけ)
そこに疑いの余地はない。
ハルは今までの人生すべてをかけて、リヒトがやさしいということを信じているのだ。その優しさを信じられなくなったとき、初めてハルはリヒトの浮気を認識するのかもしれない。
「ハル、好き。優しくさせて?」
「ん、りーくん」
そう言って目を瞑ったハルの唇に、ようやくリヒトは口づけを落とした。
重ねられ、優しく食まれる。そっと口をひらけば、ハルより少しだけ温度の高い舌がゆっくりとハルの温度を上げていく。
その温度がちょうど同じくらいになってはじめて、リヒトは自分の服を脱ぎ始めるのだ。
なんで、と聞いたのはいつだったかもうハルは覚えていない。
ハルを置いていってしまわないため、そう言ったリヒトの真面目な顔をハルはとても可愛いと思った。これから先も、その顔を忘れることはないだろうと思った。
(私だけにやさしくしてとは思わない。だから、特別やさしくしてほしい)
本音も建前も、事実も現実も、熱に浮かされた頭ではふわふわと浮かんでは消えていく。
ただ、信じたいことが真実であることを祈るばかり。