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問題②

「あ、」


 一瞬射した影に気を取られた間に、手元から紙がすり抜けていく感触がした。

 すこし遅れて、ハルは修吾から渡された名刺を横からふいに奪われたのだと気づく。


「何をうっとり見ているのかと思ったら、男の名刺?しかも職業ナシの連絡先と名前だけって、ホストかよ」


 乱暴な言葉遣いに似合わないソプラノで毒づき、名刺を奪った友人はハルの前の席に座った。

 セミロングの黒髪はゆるく巻かれ、露出度は高めという格好である。椅子に横座りして組まれた足はレギンスやタイツで覆われることは稀であり、今日も膝の少し上までを晒している。

 襟ぐりの大きいサマーニットに黒のスキニージーンズというハルの格好とはまったく異なった雰囲気である。いわゆる類友とは言えないだろうが、二人の間には気安く親密な空気があった。


「最近知り合った人。ホスト、ではないと思うけど」

「浮気は否定しないんだ?さすがのハルも、クラスメイトに手を出されるのは嫌だったか。でも浮気に浮気を返すのは、同じ土俵に上がったとみなされるだけで良いコトないよー」

「まどかさん、早とちり。浮気はしないし、されてない。まだ」

「そのマダがどっちにかかるのかなっとね、ハイ王子。浮気候補者はっけーん!」


 そう言って、まどかは名刺を指に挟んでハル越しに高くかざした。


「浮気?」


 午前の講義が終わった教室は閑散としているので、ハルとまどかの会話を盗み聞きすることは難しくない。軽い足音と一緒に発せられた声に、ハルは顔だけで振り向いた。


「りーくん。お疲れ」


 振り向いた五歩先には、あいかわらず容姿端麗やら眉目秀麗という単語を寄せ集めたようなリヒトが笑っていた。

 薄いピンクのシャツに黒のスキニーと飾り気がないのにお洒落に見えるのは、そのすらりと伸びた背筋と手足のおかげだろう。流行に合わせてころころ替える髪型も、垢抜けた雰囲気に一役買ってはいるだろうが。今は前下がりの重めツーブロックだとリヒトが言っていたのを、ハルはなんとなく覚えていた。

 リヒトの笑顔を見て、ハルはわずかに口を引き結ぶ。


(今日はお疲れモード、もしくは面倒事ありってところかなぁ)


 笑顔といってもリヒトの機嫌がすこぶる良いというわけではない。なぜならリヒトの目は真顔のときでも笑んでいるような造りであるし、口元に浮かぶ微笑が消えるのは映画や本を見て泣くときくらいだ。そんなリヒトの表情でリヒトの内面をはかることの無意味さを、ハルはずっと前から知っている。

 

「浮気って何?これ誰?ホスト?弥生ちゃんのことなら説明したよね、もしかしてハル怒ってた?」

「ははは、焦る王子とか新鮮なんですけど」

「まどかちゃん、悪趣味だよー。どういうこと、女の子同士の秘密ってやつ?聞いちゃダメ?」


 しょんぼりと微笑みながら、リヒトはハルの肩に腕を回して、さらには頬をハルの頭にすり寄せた。

 人目をはばからないリヒトの行動に、慣れているハルはもちろん動じないが、二人と居ることの多いまどかもその様子には苦笑するくらいでスルーできる耐性ができている。初めの頃はいちいち驚いていたものだが。


「りーくん質問多すぎ」

「だって、」

「それは最近アカネさんの店で知り合った社会人の名刺で、真野さんのことは納得したのでもう怒ってません。あと、女の秘密は詮索無用です」

「えー…気になるなぁ。でも、つまり浮気じゃないということで」

「うん」


 なら良いか、とさらにハルに懐くリヒトのスキンシップに、教室に残っていた学生がちらちらと視線を向け始める。教養科目の講義だっただけに、教室に残っていた学生の中には初めて二人を見た人間も居るのだろう。そんなことは承知の上での行為なのだから、二人が興味の乗せられた視線に今さらたじろぐことはないが。

 ただ、まどかだけが呆れたように笑った。


「っかー!暢気なカップルだなぁ」

「まどかさんが殺伐としすぎてるんだよ」

「まどかちゃんは元気なのが魅力だもんね」

「うざ!私にまで色目を使うとか、ほんとリヒト王子は罪作りだわ」

「えぇ!?今のってイロメ?そんなの使ってないよね?」

「どうだろうねぇ」


 リヒトに溺れるきっかけは、本当に人それぞれでだった。

 わかりやすい優しさや美しさだけではなく、ふらふらと自由気ままな雰囲気やちょっとした言葉なんかでも、ひとによっては簡単にリヒトに夢中になった。たまに、その背景というか富豪と呼ばれる家柄に引き寄せられるひともいた。

 そんなリヒトの周辺を見てきたハルからすれば、どうだろう以外に返す言葉などなかった。リヒトの何が誰にとって色目になるかということを考えるのは、ハルがとおの昔に諦めていることである。


「えー…」

「あはは」

「まどかさん、からかったらダメだよ。こんなんでもりーくん純情だから」


 すぐそばにある頭を撫でれば、甘えるように手のひらにすり寄るリヒトは大型犬のようで可愛いと思う。リヒトは、人懐っこくて無邪気なレトリバーのようなものなのだ。


「ハル…ひどい」

「この浮気王子を純情だなんて言うのはハルくらいだっつの」

「おれ純情だもーん。浮気じゃないし。でもハルがわかってくれれば良いもんねー!」

「めんどくさい男だな」


 まどかのため息にかぶるように、ハルは自分のお腹が空腹を訴える音を聞いた。

 教室の時計は、すでに十二時半を過ぎている。


「まどかさん、お昼どうする?」

「アンタは?って愚問か、王子と一緒でしょ」


 まどかの言葉には二重の意味がある。

 ひとつには、恋人同士なんだから。もうひとつには、どうせ一緒に帰るんだから。

 前者は兎も角として、後者はハルとリヒトが普通のカップルと少し違う関係を築いていることに深く関わっている。少なくとも周囲はそう考えているはずであった。

 というのも、ハルとリヒトは幼馴染で恋人で、そしてある意味で家族でもある。戸籍上は他人であるが、ハルが四歳になる少し前から同じ家に住み、共に育ってきた。まるで兄妹のように。

 だからこそ二人の絆はどこか曖昧なのに、たしかに不可侵なものであるかのような印象を与えた。

 そして、特にリヒトの周りの女の子において強く印象づけられていたのだった。


「そうなの?」

「あ、おれは呼び出しあるから」


 リヒトの言う呼び出しは、詳細を聞いたことがなくとも告白の類であることが多い。そして、だいたいにおいて数時間でその用件が済むことはない。短くとも半日、長い場合だと連日その用件が続くことになる。

 しかも最近では長引くことが常になっているので、ハルはリヒトとの夕食を諦めた。

 だが、そこに何かしらの不快感が生じることはない。


「じゃあ、先に帰るね」

「えー、待っててくれないの?」

「うん。今日はアカネさんとこ行くから」

「終わったら迎えに行く。たまには一緒に帰ろ」


 ハルは、このリヒトの言葉を信用することの無意味さと、同時にその不信を指摘することの無意味さを知っていた。おそらくリヒトの用事は店が終わるまでに済むことはないが、しかしリヒトがハルを迎えに行こうと本気で思っていることも分かっているのだ。

 となれば、ハルのセリフは自ずと限定される。


「六時までしか待たないよ」

「わかった。待ってて、ね?」

「ん」


 待ちぼうけを食らわずに、それでいてリヒトの言葉を否定しない提案である。

 ハルは、ふと自分がひどく打算的な人間であることを自覚した。


「じゃあ、また後で」


 ちゅ、というリップ音をハルの頬にひとつ落とすと、リヒトは手を振りながら教室の出口へ向かう。

 頬杖をついたまま手を振りかえせば、またひとつキスを投げて教室を出て行った。


「甘い。甘すぎる」

「まどかさん、顔コワイ」

「あー、面と向かえばこんなに甘いのに、なんだってアイツはフラフラ浮気するのかね?マジ理解不能なんですけど」

「や…優柔不断?だから」

「今、やさしいからって言いかけたっしょ…アンタももう少しビシッと言えば良いのに」

「ビシッとねぇ」

「その子が言えるわけないじゃない」


 聞き覚えのある刺々しい声に、ハルは頬杖をはずして振りかえった。


「あ」

「…何アンタ?ってどーみても王子のおとりまきだけど」


 刺々しい声に聞き覚えがあるはずであった。

 つい最近、自宅までやってきて宣戦布告をしたゼミメイトの真野弥生である。いつもと変わらず隙のない装いで、綺麗に巻かれた栗毛が艶やかに輝いている。ただ、今日はその濃い睫毛に縁取られた瞳に剣呑な光を帯びている。

 敵意を持たれているのは分かっているが、ハルはなぜ声をかけられたのか分からなかった。リヒトをめぐる主張あれこれに関しては、すでに決着しているはずなのだ。


「えっと、真野さん。りー…リヒトなら呼び出されてるから、ここには来ないよ」

「そうやって余裕ぶってるけど、三加島さん図星でしょ?優しくしないでって言っちゃったら、あなたも捨てられちゃうから言えないん」

「うん」

「え、」


 ハルのあっさりとした肯定に、真野の嫌味っぽく歪められていた表情がぽかんとしたものに変わる。

 そんな真野の顔をじっと見つめ、ハルはほとんど変わらない表情のままコトリと首をかしげた。さも当然のことを言うかのように、淡々とした口調である。


「そう。だから言わないの」

「…ハル何言っちゃってんの。アンタは特別だってわかってるからコイツだって突っかかってくるんじゃん」


 ハルの反応に慌てたように喋るまどかを右手で静止しつつ、ハルはじっと真野を見たまま言葉を続ける。


「りーくんは私に特別優しいから、優しくしないでとは言えない。ごめん。…まどかさん、行こ」

「私は!謝られたかったわけじゃないっ」


 声を荒げた真野の目に浮かぶ涙に気づいたハルは、ひと呼吸おいて立ち止まる。

 そして、約一歩という至近距離で真野をひたりと見すえたまま言う。


「知ってる。だから、ごめん」


 にこ、と笑ったハルに、真野は今度こそ絶句して立ち竦んだ。

 そのまま脇をすり抜けて廊下に出れば、まどかが嬉しげにハルの頭をたたく。


「ハル、良く言った!」

「私は優しくないからね」


(りーくんとは違ってね)


 だからこそリヒトに魅かれる人間はハルに反発するということも、ハルは気づいている。その逆も。

 上機嫌のまどかと並んで歩きながら、ハルはひっそりと息を吐いた。

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