怒るべきか諦めるべきかという問題①
ハルは、いつも車で通る道を歩いていた。
足どりはほんの少しだけ荒く、表情には怒りと諦めそしてわずかに悲しみが浮かんでいる。
「いらっしゃいませ」
週に四度は通っている喫茶店の扉を勢いよく開ければ、カラリコロリと古めかしいカウベルの音とともに馴染みのアルトに出迎えられる。
ふんわりと珈琲の香りに包まれて、ようやくハルは詰めていた息を吐き出した。
「こんにちは…」
「はは。あんたの王子サマ、まぁた何かやらかしたの?」
木製のカウンターに懐くように項垂れれば、先ほどで迎えたマスターにくしゃりと頭を撫でられた。
短い茶髪は猫っ毛のためセットする必要はなく、ハルは撫でまわされても心地よさを感じるだけである。その様子は気ままな猫のようで、マスターは微笑ましげに目を細めた。
この年齢不詳ながら美しいと下は高校生から上は還暦まで大人気のマスターは、実は御年三十八歳という妙齢の美女である。ちなみに、さばさばとした口調とそれに似合わない色っぽい流し目が特徴だ。
短く切りそろえられた爪を目で追いながら、つい愚痴ってしまうのは長年の付き合いがあるせいだ。
普段のハルは、あまり口数が多くもないし、どちらかというと素っ気ない人間なのだ。
「今回は本当に笑い事じゃない。よりにもよって、私と同じゼミの女の子って最悪すぎるよ」
「あら。相手はアンタのこと知ってるってことね」
ここまで湿っぽくなっている諸悪の根源を思い浮かべる。
おそらく当の本人は、ここまで自体が面倒臭くなっているとはついぞ思い至っていないに違いない。
ふわふわと優柔不断でノーと言えない日本人の典型もしくはその最たる者であるかのような男は、今日の講義が終わる六時まで大学に缶詰の予定だ。しかもゼミがあったはずだから、その後の飲み会の誘いも断りきれずに参加するその光景まではっきりと目に浮かぶ。
つまり、終日会うことはない。
「そ。しかも、さっき家まで来て宣戦布告された。りーくんがいないのも知ってたみたい」
「それはまた、ずいぶんと修羅場の臭いがするハナシで。…モテる彼氏を持つと大変ねぇ」
含み笑いで言われても、まったく親身さを感じない。
もっとも、ぶつけどころのないもやもやを聞いてくれるだけでハルにとってはありがたかった。
「正確には、彼氏じゃなくても大変だったから、どうせなら彼氏にしてみたらもっと大変だったってオチ」
「そういや幼馴染だっけ」
「白々しいよアカネさん」
なんといっても、アカネは王子こと彼氏ことリヒトとその家族に次いで長い付き合いの他人である。
もちろんハルとリヒトの関係については、誰よりも良く知っているに違いない。
「いやーなんだかんだいって、あんたら付き合ってないのがおかしいくらいだったからね。昔っからさ」
「やっぱり付き合わないほうが良かったとは言わないけど、まさかここまで酷いとは思わなかった」
「まぁ、あれは一種の病気だろうから」
病気とまで称されるリヒトの性格は、簡単に言えば浮気性に近いのだろうとハルは認識している。
他人から見ると立派な浮気であり、もう救いようがないほど優柔不断な性格だということだ。
(やさしいからなぁ、りーくんは)
ハルにとってはそれゆえの弊害だとしか思えなかったので野放にしていたことが、良くなかったのかもしれない。最近ではハルのそんな性格も広まり、どんどん状況は悪化しているといえる。
つまり、浮気から略奪愛へと目論むひとが増え、それに伴う修羅場が増加しているという状況だ。
(やさしさにつけこんでるのは、三加島さんだって同じじゃない!かぁ…)
恋する女の子たちの言葉は案外鋭くて、あまり浮気どうこうを気にしないハルの胸でさえ、えぐることもある。今回の同じゼミの子も、そんな女の子のうちの一人であった。
「はぁ」
「まぁ、元気出しなさい」
「…ん、ありがと」
淹れたてのブレンドは、相変わらず美味しい。
まったりとした雰囲気に、ささくれだっていた気分が和みはじめる。やはりアカネに会いにきて正解だったと、ハルがもちなおした気分で珈琲を啜っていると、ふいにアカネが視線を扉に向けた。
「あら、珍しい」
カラリコロリという音と、外からの風にまじってわずかに甘いムスクと煙草の匂いが香った。
どうやらアカネの知り合いが来店したらしい。ハルは振り返らないまま、一瞬だけ香る風を意識する。
(大人の匂い)
馴染みがないにも関わらず、どこか心地よい匂いにハルはわずかに目を細めた。
「幸崎サン、久しぶり」
「いらっしゃい。珍しいわね、あなたがここに来るなんて。突然どうしたの?」
親しげかつ皮肉っぽいアカネの声だけではなく、初めて自分以外にマスターという呼びかけ以外をする客の登場にハルは驚いた。コーサキという発音は軽いのに、その深い重低音の声は耳に心地よい。
興味をそそられるが、あまり至近距離でじろじろ見るのも躊躇われてじっとカップに視線を落とした。
「ハ、手厳しいな。珍しくも、ここらへんで仕事があったんだよ。覗いてみたら可愛い子猫と楽しそうにしてる幸崎サンが居たから、興味があってね」
(子猫って私のことだよね、どうしよう)
そんな風に思っても、ハルの表情はそしらぬふりをしたままである。気にはなるけれど話しかけられたわけではないのだ、と考えるハルにとっては当然の反応なのだが、男にとっては違ったようである。
ひょい、と片眉を上げる男の表情に反応したのは、アカネであった。
「いやだ。手ぇ出すんじゃないわよ?そこのお姫様には優しーい王子様が居るんだから」
「優しいだけの王子なら、俺の方がイイかもよ。そう思わねぇ?」
「えっと…」
男から直接話しかけられ、ハルはようやく堂々と視線を向けられることにほっとしつつ顔を上げ、予想以上に近い距離に一瞬とまどった。そんなハルに頓着することなく、男はさらに距離を詰める。
「名前なんてーの?俺はこのマスターの古い知り合いでね、修吾っていうんだが」
「ハル!名乗んなくて良いからね」
「へぇ、ハルって言うのか。本名?俺もそうやって呼んで良い?」
「修吾!」
「あの、」
「うっせーなぁ、幸崎サンてば父親みてぇ。別に自己紹介くらい良いだろ」
「あの!」
いつまでたっても応えさせてくれない二人の応酬に、ハルは痺れを切らしたように声をあげた。
ぴたりと応酬を止め、アカネは苦笑い、修吾は意外そうに目を見張った。
第一印象で大人しく思われがちであるが、ハルは別に気が弱くもないし押しに弱いわけでもない。ただ、他人よりほんの少し感情が表れにくいだけなのだ。聞かれたことにくらい答えるし、聞かれたくないことには答えないことだってできる。印象と内面に落差があることをハルは自覚しているからこそ、このような場面でも大して気分を害されたりはしない。ただ、主張はする。
そんなハルを知っているからこそアカネは苦笑しており、第一印象が大人しかったからこそ男は少し驚いたのだとわかる。
「ン?」
「三加島ハル、三つ加える島に、ハルは片仮名。近くの大学の三年です」
「…へぇ、片仮名って珍しいな。普通の佐藤にわれおさめるで修吾だ。よろしくな」
最近は珍しい名前も増えてきているが、それでも比較的珍しい名前に一拍おいた反応は慣れている。
「よろしくお願いします」
「敬語はいらねぇ。でも名前にサン付けは歓迎だ」
「…よろしく、修吾さん」
「はは!素直なのは美徳だぜ、ハル」
笑うと幼くみえる表情は、男が一般的にとても魅力的な風貌をしていることをハルに気づかせた。
高い身長に完成された骨格と筋肉のバランスは、身に着けている高そうなスーツを綺麗に着こなすのに十分なものだ。短い黒髪は鋭角的な顔や首筋の輪郭を余すところなく見せつけるのにぴったりだったし、何より意志の強そうな眼差しがはっきりと相手に見えるのが攻撃的な魅力になっている。うすい唇が酷薄そうではあるものの、ゆったり笑んだ形には色気が滲んでいた。
しかし、身近に容姿端麗な人間がいるハルにとって、そのことは特に重要なものではなかったが。
「はぁ、どうも」
素っ気ない返事に、修吾は笑みを深めた。
ハルは人見知りをするわけではないが、愛想が良いわけでもない。よって、初対面にも関わらずここまで親しげに振舞われることは滅多になく、それがハルにとっては印象的だった。
ぽんぽんと頭上に感じる修吾の手に、ハルが戸惑うのも仕方がないことなのだ。
その手を拒否しようとも思っていなさそうな様子は、アカネからすればハルの方も修吾を気に入ったと考えてもいいくらいのものだったが。
ハルにその自覚があるかといわれれば、あるはずもないことはアカネもわかっていたとしても。
(あったかいひと。それにちょっと強引)
ハルが思っていることなど、この程度である。
それでも、押しつけられた名刺はなくさないように手帳へと挟んだ。
すでに、それを見とがめる気持ちはアカネにもない。少し、心配そうな視線を向けるだけである。
「またな」
このなんてことのない場面が、ハルにとって大きな転機となる佐藤修吾との出会いであった。
後になるに従って、思い返せば思い返すほど大きな転機だと思い知ることになる。
もちろん、この時は誰もそれに気づくことはなかったが。