わたくし、何もしておりませんわ!
「大変心苦しいのですけれど、わたくしには解除出来ませんわ」
「なぜだ!」
「先程から何度も申し上げていますように、わたくしは呪術を行ったことはありません。どうして行ってもいないものを解除できましょう?」
「言い訳は要らん!!!はやくエリーナを解放しろ!!!」
叫ぶヒューストン卿の目からは完全に冷静さが失われて、体から何やら黒いモヤが湧き出てきている。
ねっとりとした空気が肌に張り付いて気持ちが悪い。息がしづらい。何が起こっているのかわからない。
「エリック、さま、それ、は……」
「うるさいうるさいうるさいうるさい!!早くエリーナを治せ!!」
机を挟んで座っていた彼はガタリと大きな音を立てて椅子から立ち上がり、私の胸ぐらを掴んで自分の方へと引き寄せる。
「うっっ」
「はやく、はやくなおせ、はやく、はやくはやくはやく!!!」
明らかに様子がおかしい。普段の彼は短絡的なことはあっても、ここまで冷静さを失うような人ではなかったはずだ。
「エリック様!!おやめくださいまし!!!」
わたくしの胸ぐらを掴む腕をなんとかどかそうと叩いてみるが、ビクともしない。そうしているうちに黒いモヤはわたくしを飲み込もうとするかのように周りを取り巻いていく。
息が苦しい。
「エリック様!!!!」
一際大きな声で名前を呼んだその瞬間。
バキッと音がしたかと思うと、エリックは体勢を崩してその場に倒れた。
「…………エリックさま、?」
足元に転がったエリックの顔を伺うと、意識を失っているようだった。
どうやら机の脚が折れたようだ。そしてそのまま打ちどころが悪くて意識を失ってしまったのだろう。
先程まであった黒いモヤも息苦しさもおさまっていた。
どういたしましょう…!何が起こっているの…。
その時、ドタバタと誰かがこの部屋に近寄る足音がした。
「あっ、鍵、」
なんとか鍵が閉まっていることを思い出したわたくしは解錠するために動かない足を無理やり動かす。カチャリと鍵を開けるのと、勢いよく扉が開くのはほぼ同時だった。
目の前に広がるのは白銀。
それはすぐに通り過ぎて、先程倒れた元婚約者の元へと辿り着く。
「エリック様!エリック様!!」
「エリーナ嬢!……エリック様!!」
白銀の彼女に続いて、彼女の護衛らしき男も扉から現れる。彼女の奥に倒れる元婚約者の姿に気付き、彼の名前を呼んだ。
元婚約者の元へと駆け寄った彼女は、未だ倒れている元婚約者の頭を持ち上げて何かを呟いたあと、彼女と元婚約者の体が淡く光った。
「エリック様…」
彼女は大事そうに元婚約者の体を抱き締め、キッとわたくしを睨みあげた。
「ハンナ様!何をなさるんです、こんなことをするなんてなんて酷い!!」
目に涙をためながら、彼女はわたくしに向かってそう叫んだ。
そこで護衛らしき男が初めてわたくしに気付いたようで、ハッとこちらを見て、驚きつつも剣の柄に手をかけた。
「貴様、エリック様に何をした」
「きっと呪術を使ったんです!私の時のように!!」
「貴様ァァァ!!!」
わたくしが男の問に答える前に、白銀の彼女に答えられてしまった。
男はそんな彼女の言葉を鵜呑みにして、剣を抜いてわたくしに襲いかかってくる。
「わたくしッ、何もしておりませんわ!」
ひとまず弁明を試みながら男の剣を避けるが、男も弱くはない。すぐに次の一撃を振るおうと動く。
「聞く気が全くございませんのね!!」
ここは、逃げるしかない!!!
魔術式を描く暇も取り出す暇もない!とりあえず身の安全が確保できる場所に逃げないと!
そう思って扉からなんとか飛び出したが、もちろん男はわたくしを追いかけて廊下に出ようとする。
その時、急に扉近くの照明が割れ、ガラスの破片が飛び散った。部屋の中で悲鳴が微かに聞こえ、それに男の呻き声も重なる。どうやら、男の上にはもろに降りかかったようで、その場に立ち止まって振り払っている。わたくしの方には飛んでは来なかったが、危ないところだった。女の「血が…!」という言葉から察するに、恐らく破片が男に刺さったのだろう。
だが、そんなことを気にしている場合ではない。わたくしはこれ幸いとその部屋から離れ、違う空き教室に入るなり、転移の魔術式を取り出しそれを発動させた。
もういや、こんなところから早く離れたい、どこか安心のできる場所へ帰りたい!!
「転移!」
そんな想いがつい心の中に浮かんでしまったせいだろうか。
わたくしが転移した先は家ではなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「わ!!!!びっくりしたァ、ハンナ!いい加減にしな!!」
数日前と同じように急に現れたわたくしにロザリーが驚きつつ注意する。
この一週間幾度となく見た顔に安心して、つい弱々しい声が出てしまった。
「ロザリー……」
「なにがあったの」
憔悴しきったわたくしの顔と声からロザリーは何かを察して、わたくしに椅子を勧め、お茶をすぐさま用意してくれた。
そのお茶を幾度か口に含み、ゆっくりと喉を通り過ぎたのを感じてから今日の出来事をロザリーに話した。
元婚約者の様子がおかしかったことも、黒いモヤに包まれたことも、その後に元婚約者が倒れたことも、白銀の彼女が現れたことも、そして呪術の疑いをかけられたことも全て。
「あんた、それでここに逃げ帰ってきたの?家は?」
「だって家は安心できないのよぉ、お父様に知られたらきっとわたくしの言うことなど微塵も聞かずにわたくしを責めるのよ!きっとそれが嫌で無意識的にこちらに飛んでしまったんだわ……」
めそめそと泣き出しそうになるわたくしを見て哀れに思ったのか、わたくしの背をゆっくりと撫ぜてくれた。好き。
全て吐き出したおかげか、少し感情も落ち着いてきてこれからのことを考えられるようになった。
ろくに弁明も出来ずに学園をあとにしたから、きっとあの後わたくしの噂がまた学園に広まるのでしょう。でも、今から戻ったとしてもわたくしの立場が危うくなるだけだ。誰がわたくしの話を聞いてくれると言うのだろう。状況だけ見れば、わたくしが元婚約者に害を為したと思われてもおかしくないのだから。
とりあえずお母様に報告しないと。
素早くお母様に今日の報告と今後についての相談を書いて、転移で送る。
すぐに返事が来た。手紙には『しばらく身を隠せ。家には戻ってくるな』という内容だけが書かれていた。恐らく、白銀の彼女たちはわたくしの家を訪ねてわたくしの身柄を渡すように言うのでしょう。けれど、わたくしと彼女たちの間には身分の差がある。すぐには訪ねてくることも出来ず、わたくしの身柄を渡すことも出来ない。それに、わたくしが家にいなければ身柄を渡すことなど出来ないのだ。お母様なりにわたくしを守ろうとしている。その気持ちがわかって、じんと心の奥が温まる感覚がした。
ロザリーも、お母様もわたくしを信じてくれている。ここで泣き寝入りなんて出来ませんわね。
手紙を胸元でぎゅっと握りしめて、わたくしは決意を固めた。
いつか絶対に身の潔白を証明してやる。その強い心を持って、わたくしは一度学園から遠ざかり、身を隠すことにした。