重力レンズ
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(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)
(1)
「そういえば、引っ越すの? いまの家」
ネタの打ち合わせ用に借りていた事務所の会議室を出て、エレベーターに乗り込んだタイミングで、中浜力太は木村重幸にそう尋ねた。
「まあ、そうなるかなあ」
重幸はのんびりとそう答え、「めんどくさーい」と冗談交じりに言い、へらへらと笑った。派手顔の美形である重幸がそんなふうに笑うと、なんだか軽薄そうな印象を受ける。
力太と重幸は、「重力レンズ」というコンビで芸人をしている。力太が、大学の同級生だった重幸を誘うかたちで結成したコンビだ。ふたりは学生時代に同じお笑いサークルに所属していた。当時は、特別仲がよかったわけではない。そもそも学生時代は、お互い別々のコンビを組んでいた。力太は以前から芸人を目指しており、大学を卒業したら養成所に入ろうとアルバイトをして入学金などの費用を貯めていたのだが、大学を卒業するにあたり、当時の相方は就職を選んだ。その時点でコンビは解散となり、ひとりになった力太が、迷わず声をかけたのが重幸だった。重幸のコンビも、卒業に際して解散が決まっていた。チャンスだと思った。力太は、自分の顔立ちが地味すぎるほど地味だと自覚していた。ひとことで言うと、華がない。誰かの印象に残ることの少ない地味で平凡な背格好に顔立ち。反対に、重幸には華があった。全体のパーツが大振りで派手だが整っている。身長も高い。重幸は、そこにいるだけでぱっと人目を引く容姿をしていた。実際、初めて重幸と会ったときから、力太は重幸の姿をたびたび目で追ってしまっていた。重幸は、自分にはないものを持っている。力太はそう思っていた。
「どうしたんだよ、中浜。突然ファミレスなんかに呼び出して」
「コントの導入台詞かよ」
いつかの日曜日の朝、力太は重幸をファミレスに呼び出した。重幸の棒読み然とした言葉に機械的にツッコミを入れながら、
「なあ、木村」
力太は、重幸に呼びかけた。
「うん」
「俺とコンビ組んでほしい。いっしょに芸人になってほしい」
さっき水を飲んだばかりのくせに、からからに渇いたのどで唾を飲み込み、テーブルをはさんで向かいに座る重幸に力太は言った。
「いっしょに漫才しよ」
そのとき、自分でも驚くほどに緊張したことを、力太はいまでも覚えている。重幸とちがい、力太はプロポーズの経験なんてなかったが、まるでプロポーズをするときみたいに緊張していた。それに対し、重幸は、力太の申し出をあっさりと受けた。「いいよー」という軽い言葉と、軽薄そうな笑顔で。断られても、重幸が頷くまで口説き落とそうを息巻いていた力太は拍子抜けした。
「養成所とかどうする? なんか考えてる?」
重幸は軽い口調で未来の話をし始めた。
「キイロカンパニー入りたいから、養成所もそこのにしようかと……」
力太の言葉に、
「おっけー。やっぱ、劇場持ってるとこがいいもんね」
重幸はあっさりと頷いた。
「木村、お金あんの? 入学金とか」
少し心配になり尋ねると、
「もともと養成所行こうと思って、貯めてたから」
「あ、そうなんだ。よかった」
こうして、ふたりの未来はあっさりと決まり、現在にいたる。しかし、その道のりは「あっさり」とはいかず、鳴かず飛ばずのまま、今年、ふたりはもうすぐ三十歳になる。三十歳という年齢に特に意味があるわけではない。単に区切りのいい数字として身構えてしまっているだけだ。三十歳を過ぎてから売れ始める芸人だって多くいる。しかし、三十歳を過ぎても売れない芸人は、その何倍もいる。そもそも分母が大きいのだ。売れる芸人なんてほんの一握りというのが現実だろう。そんな考えても仕方のないことを考えて、力太は暗い気持ちになった。
エレベーターが一階に到着し、裏口から表へ出る。いっしょに帰ろうなどと言葉にはしないが、なんとなく並んで歩いた。
「もう花粉飛んでる」
「おまえがそれ言うと、春って感じするわ」
重幸の言葉に、力太はあたり障りのない返しをし、あまりのあたり障りのなさに少し笑った。
「目がかゆい」
そう言って、重幸は目を擦った。続けて、
「去年、ラフコン決勝行きたかったなあ」
ぽつりと言う。ちょうどスクランブル交差点の大型ビジョンに、昨年度のラフコン決勝に進出した芸人たちを起用したCMが流れていたのだ。
「一回戦一位通過したときは、絶対イケるって思ったけどな」
ラフコンというのは、毎年末に開催される漫才の賞レースだ。各地の劇場で行われる一回戦、二回戦、三回戦、準々決勝、そして準決勝を勝ち上がると、決勝は地上波で放送される。ラフコンは、普段あまりお笑いに興味がない層も多く視聴するという、ビッグイベントとなっている。昨年のラフコンで、重力レンズは準々決勝で敗退した。
「もし、ラフコン決勝行けてたら、おまえ離婚してなかったかも」
力太がぽつりと言う。言ってから、余計なことを言ってしまったと後悔したが、力太は半ば本気でそう思っていた。自分たちがいつまでも不甲斐ないから、重幸の奥さんは重幸を諦めたのではないか。
「チカちゃん、またそれ言ってんの。自分で言うのも悲しいけど、準決にも行けなかったのに」
重幸はあきれたようにそう返す。
「決勝行けてたら、おまえの仕事も増えて奥さん安心できたかも」
「確かにラフコンは悔しかったけど、離婚は俺の甲斐性が原因じゃないんだって。単純に方向性のちがいだって」
「バンドの解散理由じゃん」
このツッコミも、もうベタすぎて恥ずかしいな、などと思いながら力太は応じる。
「でも、そうとしか言いようがないんだよね。実際、解散みたいな感じだったし」
重幸が高校生のころから付き合っていたらしい彼女と結婚したのは三年前、離婚したのは、先月の話だ。
重幸から離婚することになったと報告を受けたとき、力太は、自分の中に生まれた感情に戸惑った。友人が離婚することになって残念だ。そういう感情も確かにあった。しかし、それに交じって、心の奥底から真っ黒な異物のように生まれた感情があった。それは、確かに「歓喜」だった。
「そういえば、俺の離婚、ネットでも全然ニュースになんなかったなあ」
重幸は愚痴とも冗談ともいえないことを言う。
「なるわけないじゃん。知名度ゼロ芸人の離婚なんて誰も興味ないよ。それに、なんないほうがいいだろ、そんなネガティブな出来事」
「そんなことない。円満離婚だから」
「円満なら、そもそも離婚しないんだよ」
駅に到着し、「じゃあな」と力太が電車に乗り込むと、重幸も同じ電車に乗り込んできた。
「おまえ、この電車じゃないだろ」
「うん」
「また、うちくんの?」
「うん」
「自分ち帰れよ」
「やだ。帰ってもどうせひとりだし、つまんないじゃん」
力太は諦め、空いている席に座る。重幸は、当然のように力太のとなりに座った。
「コンビでとなりに座る芸人なんていないって」
「ここにいますー」
重幸が笑い、力太も力なく笑う。
「おまえ連れて帰んの、やなんだよな」
「なんでよ」
「みんなのいる家に相方連れて帰るって、なんかダサいじゃん」
「本当だ。改めて考えたら結構ダサい。友だちいないやつみたい」
力太は、芸人仲間三人と古い一軒家を借りてルームシェアをしている。離婚してから、重幸はたびたび力太の家にきて、泊まっていくようになった。
「今日、バイトは?」
「入れてない」
「俺、夜シフトだから、夜中いないよ」
「いいよ、誰かしらいるでしょ」
そう言って、重幸は少し黙ったあと再び口を開いた。
「チカタ、いっしょに住まない?」
「え、うちもう部屋いっぱいだよ」
シェアハウスに入れてくれと言われているのだと思い、力太が答えると、
「そうじゃなくて」
重幸は少し躊躇うように、続けた。
「俺の引っ越しのタイミングで、チカタ、あのシェアハウス出てさ、ふたりでいっしょに住も」
「やだよ」
考える前に即答してしまっていた。
「なんだ。結構、勇気出して言ったのに」
重幸が不満そうに呟いた。
「なあ、あの話聞きたい。奥さんが、動物園でカピバラに服食われた話」
力太は、話題を変えたくてエピソードトークをねだる。
「お。なかなかにデリカシーのないお願いだね、チカちゃん。俺、離婚したばっかだよ」
その言葉とは裏腹に、重幸の口調は楽しそうだ。重幸は、いつのころからか力太のことを「チカタ」や「チカちゃん」と下の名前で呼ぶ。そういうふうに親しげに呼ばれるたびに、力太の心臓の動きは少し早くなる。学生時代は、名字で呼ばれていた。なぜ呼びかたを変えたのか尋ねると、重幸は、「リキタじゃなくて、チカタだって覚えてもらえるでしょ」と軽く言っていた。それだけの理由だとわかっていても、どうしても身構えてしまう自分が、痛々しくて苦しい。
「だって、好きなんだもん。おまえの話す奥さんの話」
「元ね。元奥さんね」
そう言いながら重幸は軽薄そうに笑うが、軽薄そうに見えるだけで、重幸は決して軽薄な人間ではない。そうは見えないが、実は真面目だし、寂しがりで人好きだ。なので、さっきの「いっしょに住もう」発言もきっと、真面目に言ったものだったのだろう。力太は、自分の雑な対応を後悔し始めていた。
生真面目に、元奥さんと動物園に行った話をぼそぼそと話し始めた、となりの重幸をちらりと見る。何度もねだってしてもらっている話なので、重幸の語りが自然と上達していることを含めておもしろい。重幸の口から語られる話は、夫婦の楽しい思い出で、それゆえ愛にあふれていた。チカタは、そういう話を聞くのが好きだった。その愛は自分に向けられたものではなかったけれど、重幸の感じる幸せを、力太は重幸の口から語られるエピソードトークで確認していた。そして、そのたびに、重幸が幸せそうでよかった、と思うのだ。重幸が幸せそうだと、力太は安心した。
「奥さんが大丈夫? って言うから、大丈夫大丈夫って言いながら振り返ったら、カピバラが奥さんの服かじってて……」
重幸のぼそぼそ声を聞き、いつもと同じところで声を殺して笑いながら、力太は、現在の重幸が幸せなのかどうかを考えていた。
ふたりで笑いながら電車を降り、駅を出ると、空はすっかりオレンジ色になっていた。
駅から家までの間のコンビニで買いものをし、夕暮れどきの住宅街の匂いを嗅ぎながら歩く。
「カレー」
「煮物」
「たぶん、なんか肉。焼肉」
匂いに対して口々に言いながら歩き、力太は唾を飲み込み、口を開く。
「おまえが結婚するって言ったとき、口ではおめでとうって言いながら、頭ん中じゃ、芸人やめて就職するって言われたらどうしようってめちゃくちゃ不安だった」
「え、急にどうしたの」
重幸が戸惑ったように言う。あと少し歩いたら、もうすぐ家に到着する。
「おまえが離婚するって言ったとき、残念だなって言いながら、ちょっとだけうれしかった」
「チカタ?」
おめでとうの気持ちも、残念だなの気持ちも、どちらも本当に本当だったけど。その言葉を唾といっしょに飲み込んで、力太は言う。
「だから、俺はおまえとは住めないよ」
となりに立つ重幸の顔を見る。重幸はあっけにとられたような表情をしていた。力太は玄関の引き戸を開ける。ガラガラという古風な音と同時に力太の発した「ただいまー」という声に反応し、灯りの点いた奥の部屋から返事が聞こえた。
(2)
「どうも。重力レンズ、中浜力太です」
「木村重幸です」
「最近はどうですか。なんかあった?」
「実は私、木村重幸……離婚しまして」
力太の導入の問いかけに、重幸がたっぷりの溜めと共に神妙な声色を吐き出す。
「それ、先月から毎週ずっと聞いてるな」
「寂しいんで、チカタにいっしょに暮らそうって言ったら断られまして」
「それもずっと聞いてる。再放送かなって思われちゃう」
「現在進行形で断られ続けてまして」
「いいかげん諦めろよ。それでは参りましょう、重力レンズの『反省クラブ』」
力太は口調を改め、タイトルコールをする。
現在の重力レンズの芸人としての仕事は、劇場の出番を除けば、週一回のネットラジオだ。音声配信アプリの会社からの依頼を受けて、そのアプリで三十分のラジオ番組を配信させてもらっている。経費が潤沢にあるわけではないので、収録はスタジオやラジオブースなどではなく事務所の会議室を借りて行っている。仕事とは別に自発的にネットラジオを配信している芸人も多いなか、それを仕事として配信させてもらえるのはありがたいし、アプリの会社からディレクター兼作家が一人、現場に出向いてくれているので、仕事をしているという実感もわく。
「最新トピックの更新しろよ。最新がずっと同じニュースなんだよ」
「チカタが俺との同居を断り続ける限り、最新トピックはずっとそれよ」
「どんだけなにもない生活なんだよ」
「なにもないよ。だって、離婚したもん」
「逆だよ。なにもないから離婚ネタ引っ張ってんだろ」
収録を終え、ディレクター兼作家が帰るのを見送って、
「おまえさ、本当に離婚の話、もう引っ張んのやめたら」
会議室にふたりきりになったタイミングで力太はそう切り出した。
「えー、なんで。話題性があるうちはしゃぶりつくすよ」
パイプ椅子に座り、へらへらと笑いながら重幸はペットボトルの水を飲んでいる。この軽薄そうに見える笑顔のせいで、重幸の感情はわかりづらい。「いっしょに住もう」という重幸の誘いを力太が自分なりに真面目に断ったあの日のことも、まるで何事もなかったかのように、重幸は普通だ。普通にへらへらしながら、だけど、「いっしょに住もう」と度々口にするようになった。力太は変わらず、断り続けている。
「しんどくないの?」
「どういうこと?」
力太の質問に、重幸はきょとんとした表情をして見せた。
「そういうの、ネタにして、おまえはしんどくなんないの?」
「ああ、そういうこと。ネタにして笑ってもらったほうがいいんだって」
重幸は再びへらりと笑う。
「本当に?」
「うん、本当。チカちゃんは繊細だよね」
重幸は笑顔を引っ込めて言った。重幸の口にした「繊細」という言葉が、いい意味で遣われたのか悪い意味で遣われたのか、力太にはわからなかった。力太は、自分ががさつでデリカシーがないということを自覚している。なので、重幸の言ったそれは、もしかしたら皮肉なのかもしれなかった。重幸は表情を崩さず、
「まあ、そろそろ飽きられてるだろうから、やめるね」
元来の生真面目さを感じさせる返答をした。
「うん」
頷きながら、力太は少しほっとする。
「あのね、本当に円満離婚だったから、精神的にはダメージ少ないんだよ」
本当に? と、再び尋ね返そうかと思ったが、しつこいと思われたくなくて、力太は黙っていた。
「心配してくれてありがとね」
重幸が、ちょっと照れたように笑ったので、力太はなぜか怯んでしまう。べつに心配していたわけじゃない、と一瞬思ったが、やはり心配していたのかもしれない、と思い直す。重幸には、「いや……」と曖昧な返事をし、力太は帰り仕度をする。
事務所を出たところで、
「じゃあ。俺、今日はこっち」
重幸は、駅とは別の方向を示す。
「あ、バイト?」
「そう。また夜、家行くから」
「こなくていいって」
「本当に、もういっしょに住んじゃおうよ」
「だから、やだって」
苦笑いを返しながら、重幸と別れ、少し歩いて力太は振り返る。重幸の後姿をじっと眺めて、力太は昔のことを思い出す。学生時代、よく重幸の姿を目で追っていた。最初のころは、重幸が目立つからだと思っていたが、すぐにちがうと気づいた。重幸の容貌が目立つのは本当だが、単純に、力太が自発的に重幸の姿をさがしていただけだ。ずっと見ていたくて、さがしていただけだ。
自分のこの気持ちが報われることなんてない。だから、力太は重幸を誘い、コンビを組んだ。芸人になりたかった。漫才をしたかった。そして、重幸といっしょにいたかった。なにより、その容姿を含め、自分とは正反対の重幸は相方として理想的だった。重幸に、コンビを組んでほしいと伝えたあのとき、まるでプロポーズみたいに緊張した。まるで、じゃない。あれは、確かにプロポーズだった。
あの日、重幸が頷いてくれてよかった。しかし、重幸はどうだろう。重幸は、いまでも鳴かず飛ばずのままのこのコンビを、後悔したりしていないだろうか。たとえ後悔していたとしても、力太は重幸を手放す気はない。だから、重幸が自分とは無関係なところで幸せそうにしている様子を知ると安心した。
自分は欲張りだ、と力太は思う。芸人にはなれた。漫才も、ほぼ毎日できている。重幸といっしょに。そんなふうに、いままで自分本位に願いを叶えてきた。力太は思う。俺は、自分のことしか考えていない、最低野郎だ。
(3)
「ウィキペディアの『重力レンズ』項目に、曖昧さ回避のページができてほしい」
「あー、できてほしいね」
「ラフコン決勝行きたい」
「うん、行きたい」
「決勝行ってテレビ出たい。売れたい」
「うん、売れよう」
「忙しいって言いたい。会う人会う人、寝る暇ないでしょうって言われたい」
「はは、うん」
「単独ライブやりたい」
「やりたい」
「ラフコン対策ってわけじゃないけど、単純にやりたい」
「うん、やろう」
「ちっちゃい劇場、どっか借りれるよね」
「うん。新ネタ下ろしたい。できれば十本くらい」
「十本かあ。大変そう、でも楽しそう」
シェアハウスの力太の個室で、うとうとしながら重幸とそんな話をした。力太は布団に、重幸は寝袋に入っている。重幸は力太の部屋に置き寝袋をしているのだ。
「企画書作んないと」
力太が言ったが、返事がない。重幸は眠ってしまったらしい。今日はテレビ番組のオーディションを受けたので、お互いへとへとに疲れていた。
ここ最近、重幸は寝る前に他愛のないことをつらつらと話す。今夜のそれは主に「やりたいこと」だった。重幸の言葉に相槌を打っていると、いつの間にかどちらかが眠ってしまう。
重力レンズの所属している事務所、キイロカンパニーは劇場を多く持っていて、週の何回かはその劇場のいずれかのステージに立たせてもらえる。売れていない芸人の劇場出演のギャラなんてほんの少しだが、もらえるだけありがたいし、人前で漫才を披露できる機会が日常的にあるということも単純にありがたい。単独ライブは、そういう劇場の仕事とはまた少しちがい、それでギャラが発生することはない。黒字が出た場合のみ、それがギャラの代わりとなる。他事務所はどうなのか知らないが、キイロカンパニーの芸人が単独ライブを行うには、事務所に企画書を提出して許可を取る必要がある。それが少し面倒だが、許可さえ下りれば自由度の高いライブができる。足を運んでくれるお客さんもその芸人が目当てなので、客席の空気もあたたかい。以前、先輩芸人の単独ライブを手伝ったときに、力太が感じたことだ。
単独ライブは本当にやりたい、と、ぼんやりとした頭で力太は考える。重幸と漫才をするのは楽しい。ネタはふたりで作るので、ときどき喧嘩のように言い合いをしたりもするが、そうしてでき上がった漫才を劇場のステージに立って披露しているときは、シンプルに「よかったな」と思う。重幸とコンビを組んでよかったな、と思うのだ。
うつぶせになった力太から見て右どなりに重幸の寝袋がある。寝袋から、重幸の顔と右手が覗いている。力太は重幸の顔を見つめる。閉じたまぶたと濃い睫毛を、力太はじっと見つめる。いまさら、顔を見ただけでドキドキしたりはしない。だが、腹の奥が少しきゅっと縮んだような心地になる。力太は、重幸の右手に自分の右手をそっと重ねた。重幸のてのひらの温度を感じた瞬間、重幸が力太の手をぎゅっと握ってきた。起きてたのか、という言葉が脳内で分解されてしまったみたいに上手く出てこない。
「起きたんだよ」
力太の脳内を読んだかのように重幸がひそひそ声で言い、力太が引っ込めようとした手を、逃げられないようにさらに強く握ってくる。
「はなせよ」
「チカちゃんから握ってきたんだから、いいじゃん」
重幸は真顔で力太の顔を見つめ返す。
「チカタといっしょに住みたい」
「住めないって言ったじゃん」
「そんで、部屋に多肉植物いっぱい置いたり、猫飼ってかわいがったりしたい」
「動物や植物はだめだよ。もし仕事増えたら世話できなくなる」
そんなにすぐに仕事が増えれば苦労はないな、などと思いながら力太は答える。
「じゃあ、猫は諦める。でも、ふたりで酒飲みながらテレビ観たり映画観たりしたい」
「俺、酒飲めない」
「知ってる。だから、俺が酒飲んで酔っぱらってくとこを見ててよ」
「俺は奥さんの代わりにはなれないよ」
「代わりなんかじゃないよ」
真顔のままで、重幸は淡々と教え諭すように話す。
「元奥さんの代わりはいないし、チカタの代わりだっていない。誰も、誰かの代わりにはなれないよ。チカタはチカタで、俺は、チカタとそういうことをしたいんだよ」
重幸が、どういうつもりでこんなことを言うのか、力太にはわからない。なので、力太は返すべき言葉がわからない。ただ確かに、重幸の代わりだっていないもんな、と力太は思った。その瞬間、力太の目から意図せず涙がこぼれた。
「それ、どういう感情なの?」
重幸が驚いたように、だがボリュームを抑えて声を上げた。
「わかんない」
力太は正直に言い、
「奥さんがカピバラに服食われた話聞きたい」
重幸にエピソードトークをねだる。
「えー、やだよ」
「おまえのせいで眠れなくなった。おはなしして俺を寝かしつけるくらいしてほしい」
「チカちゃん、なんで、この話そんなに好きなの?」
重幸はあきれたように言いながら、それでも、生真面目にその話をしてくれる。その日、ふたりは手を繋いだまま眠ってしまった。
(4)
重力レンズ(じゅうりょくレンズ、英: gravitational lens)とは、恒星や銀河などが発する光が、途中にある天体などの重力によって曲げられたり、その結果として複数の経路を通過する光が集まるために明るく見えたりする現象である。――ウィキペディアより抜粋
「なに見てんの? なんかおもしろいやつ?」
劇場の出番までのあいだ、大部屋の控室でスマートフォンの画面を見ていると、同期の芸人が力太に話しかけてきた。
「ウィキで『重力レンズ』のページができてないか調べてる」
「え、あんの? ないだろ」
パイプ椅子に座る力太の後ろから彼はスマートフォンを覗き込んできた。
「ないよ。本来の意味のページしかない」
「おれらもコンビのページないわ。ウィキにコンビ名の項目できんの夢よね」
彼はにこやかに言い、仲のよい先輩芸人に呼ばれて行ってしまう。入れ替わりに、重幸がトイレから戻ってきた。パイプ椅子を持ってきて、力太のとなりに座る。
「はじめて会ったときのこと、覚えてる?」
唐突に重幸が言った。
「覚えてるよ」
力太は答える。
「なに。急に思い出話?」
「初心に戻ってもらおうと思って」
「なんだよ、それ」
「サークルのボックスでさ、チカタが俺に声かけてきたんだよね。もう誰かとコンビ組んでますかって」
「うん」
話し始めた重幸に、力太は頷く。
「あのとき、チカタまだ敬語で、かわいかった」
「うざ。やめろよ」
「でも俺もう、同じ高校のやつとコンビ組む約束してたから、そのときはコンビ成立とはいかなかったけど……」
「それが初めてじゃないよ」
ぎこちなく思い出話をする重幸の様子がなんとなくおかしくなって、力太は半笑いで重幸の言葉を遮る。
「え、うそ!」
重幸が、驚きの声を上げた。
「うそじゃない。本当」
「うそ。こんな基本的な部分でコンビの記憶に齟齬が生じるなんてあるの」
「その何日か前に、学食で会ってる」
「うそ」
重幸はなおもそう繰り返す。
「まあ、俺が覚えてるだけだから」
「なんで俺は覚えてないの?」
重幸がショックを受けたように呟く。
「しょうがないよ。俺、印象薄いもん」
「そんなことないはずなんだけど」
「毎日顔見てるから麻痺してんじゃないの」
実際、その出会いも劇的なものでもなんでもない。学食で食券を買うときに、同時に買おうとしていた重幸に、「お先にどうぞ」と順番を譲ってもらったというだけだ。格好よくて感じのいい人だ、と力太は思い、さらに、こういう人とコンビを組めば、自分の欠点もカバーしてもらえるかもしれないとも思ったので、強く印象に残っている。入ろうと決めていたお笑いサークルのボックスで重幸の姿を見つけたとき、これは運命だと思った。思っただけで、実際には運命なんかではなかったけれど。
「そろそろ出番、待機しとこ」
短く言って、力太は立ち上がり、舞台袖に向かう。
そのステージで、重幸はネタを飛ばした。言葉が出てこなくなったようだ。アドリブでなんとか軌道修正できたが、もう何度もかけているネタで、いままでこんなことはなかった。
「ごめん」
袖に戻ると、開口一番、重幸が言った。
「ごめん、本当に」
「それはいいけど、いや、よくはないんだけど。どうしたんだよ、おまえ」
力太は、控室の前を通り過ぎ、廊下の端に重幸を連れて行く。
「いやあ、言ったら、チカタ絶対怒るよ」
重幸が言った。
「俺が怒るような理由なんだな」
力太は言い、「怒るかもしんないけど、言ってみて」と促す。
「初めて会ったときのこと、覚えてないの、どうしても気になって」
重幸は諦めたように言った。
「そんな。そんなくだらないことに気をとられてたのか」
「くだらなくはない。けど、ネタを飛ばしたのは本当に申し訳ない」
「俺も、失敗しちゃうことあるし、もうそれはいい。次からはちゃんとしよう。お互いに」
「うん」
重幸は神妙に頷き、「でさ、チカタが俺に初めて会ったときのこと、ちゃんと教えて」と、打って変わって軽い口調でそんなことを言う。
「なんでそんなこと気になるんだよ。俺がおまえに、学食で食券買う順番譲ってもらっただけだよ。それだけのことだって」
「覚えてないのが悔しい」
「些細なことなんだから、普通だよ。別にいいじゃん。なにも悔しいことなんてないよ」
「だって……」
重幸は言いかけ、「目がかゆい」と、ぐりぐりと目を擦る。そして、
「後日改めて言う」
あからさまに言葉を濁した。
「今度は俺が気になるじゃんか」
力太は憤然と言い、重幸はその様子を見て真っ赤な目で笑う。
(5)
企画書が通り、単独ライブの許可が下りた。ふたりは少しずつ準備を進めている。最近は、劇場の出番後に事務所の会議室を借りて、ふたりでネタを考えながら雑談をするというのが常になっていた。
「人間の細胞は約七年ほどでほとんど全部生まれ変わるんだって。だから、それ以上前の学生時代の俺といまの俺は、別人と言ってもいい」
重幸が言う。
「うん」
力太は気のない返事をする。頭の中では、漫才のパンチラインとなるいいフレーズがないかぐるぐると考えていた。
「チカちゃんとの出会いを記憶してなかったあのころの俺と、いまの俺は全然別人だから」
「え、びっくりした。それ、まだ気にしてんの?」
重幸が、そんな些細なことにこだわっていることが、力太には不思議だった。
「気にしてんのよ。自分でもびっくりするほど」
「俺が気にしてないんだから、気にしなくていいのに」
言いながら、力太は七年前のことを考えてみる。七年前の自分というと、ちょうど大学を卒業したころだ。そうなると、重幸の発言によれば、そのもっと以前の力太は、力太とは別人ということになる。
「そっか、別人か」
呟きながら、力太はぼうっと考える。別人のはずなのに、重幸に対する感情だけが変わらないんだな、と。まるで呪いみたいだ。ため息を吐きそうになってこらえる。
力太は、ふと無意識に頭の中で計算し、さらに無意識に、
「そっか。じゃあ、離婚したときのおまえといまのおまえはまだ別人じゃないのか……」
などと声に出してしまっていた。しまった、失言だ、と思い重幸を見ると、
「チカちゃんは、俺に対して繊細だよね」
重幸はなぜか微笑んでそう言った。
「いや、ごめん。いまのは普通にがさつで無神経だったと反省してるところなんだけど」
「チカタ、ずっと気にしてるみたいだから、俺の結婚と離婚のこと少しだけ話そう」
重幸がそう言い、力太は黙って聞く体勢に入る。
「もちろん、元奥さんのことは好きだと思ってたから結婚したんだよ。高校のころからずっと付き合ってたし、女性のなかではいちばん好きだったから、結婚してそのままずっといっしょにいるもんだと思ってた」
「女性のなかではってなに」
力太の問いに、へらりと笑みを浮かべるだけで重幸は答えない。
「だけど、ふたりでちゃんと生活していくうちに、お互い思っちゃったんだよね。なんかちがうなって。ずっとこの人と生活していくのは、なんかちがう気がするって。だから話し合って離婚することにしたんだよ。喧嘩したとか、きらいになったとかじゃないからさ、いまも普通に友だち、というか知り合いみたいな感じではあるんだけど。なんかこう、淡々とした親しい知り合いみたいな」
「なんか、俺の理解を超える関係だね」
「そういう関係もあんのよ」
軽口を叩くように重幸は言い、「ずっと思ってたんだけど、俺は、いちいちタイミングが悪くてさ」と続ける。
「チカタに出会ったとき、もう彼女がいて、相方もいる状態だったでしょ」
「ん? うん……」
重幸の言うそのタイミングというのがそんなに重要だろうか、と力太は考える。学生時代にコンビを組むことは叶わなかったが、最終的に、ふたりは現在コンビを組んでいる。彼女云々のほうは、なんだか生々しく感じてしまいあえて考えないようにして思考の外に追い出した。
「だから、あのころの俺はその状態をそのまま維持しちゃったんだけど、べつに途中でやめたってよかったんだ。彼女と別れて、そのときのコンビも解消して、チカタと組み直したってよかった。もしあのときそうしてたら、チカタともっとたくさんいっしょにいられたかもしれない。各方面を傷つけたり迷惑がかかっちゃったかもしれないけど……うーん、まあ、過ぎたこと言っても、もうしょうがないんだけどさ」
重幸は、つらつらとそんなことを言う。「うん」と頷きながら、力太は本当のところ、重幸の言いたいことがよくわかっていなかった。なので、
「あのさ、俺はたぶん、おまえが思ってるよりも馬鹿だよ」
力太は一応そう親告した。
「いま、俺らコンビ組んでるし、いっしょに漫才もできてるんだからいいじゃん、それで」
なにが不満なんだ、そう言おうとして、はたと気づく。満足しているのは力太だけなのだ。自分本位に願いをすべて叶えてきたのだから、力太が満足しているのは当たり前だが、きっと重幸はそうではないのだろう。そう思うと、力太は急に不安な気持ちになった。
「だから、チカちゃん。一度いっしょに暮らしてみようよ」
「だからの意味がわからない。話の繋がりが見えない」
力太は疑問を素直に口に出す。
「だって俺ら、ずっといっしょでしょ?」
重幸の言葉に、力太は不意を突かれ絶句する。
「一生、いっしょにいる予定でしょ?」
続けてそう言われ、そうなのだろうか、と考えてみる。「そっか」と、口に出して言ってみた。
「そっか、俺ら一生いっしょなのか」
「そうだよ。だから、それ以外でもっといっしょにいようと思ったら、もういっしょに住むしかないじゃん」
「なんでもっといっしょにいなくちゃいけないんだよ」
「大学んとき、チカタとあんまいっしょにいられなかったから、その時間を取り戻したい」
重幸は、真顔でそんなことを言った。
「いっしょにいなくちゃいけないんじゃなくて、いっしょにいたいんだよね」
力太は驚いてしまい、言葉が出てこない。
「本当はあんま言葉にはしたくなかったんだけど」
もう三十にもなるのに恥ずかしいじゃん、と重幸は言う。
「ねえ、チカタ。いっしょに住も」
「保留」
「なにそれ」
「俺は、ずっと自分勝手な願いを叶え続けてきたから、本当はおまえの願いくらい簡単に叶えなくちゃいけないんだけど、そうすると俺の願いも叶っちゃうから」
力太は一気に言い、「だから、保留」と、言い放つ。
「なに言ってるかわかんない。俺だって、チカちゃんが思ってるより馬鹿だよ」
重幸はそう言って、パイプ椅子に座ったままぐっと伸びをした。
「まあ、いっか。時間はまだまだたくさんあるもんね」
「なんせ、俺らずっといっしょだから」
力太の言葉に、うん、と小さく頷いて、「かゆい」と言いながら重幸は目を擦り、
「いまじゃなくても、じいさんになってからいっしょに住んでもいいし」
などと気の長いことを言った。
「でも、単独までの時間はあんまない。がんばってネタ考えるぞ」
「うん、そうだね」
力太の不安は、いつの間にか消えていた。重幸がへらりと笑い、力太は腹の奥がきゅっと縮んだような心地になる。重幸の顔が、いつもよりも明るく見えた。
「そういえば、ウィキ、『重力レンズ』のページできてたよ」
「うそ、早く言えよ」
「誰かがつくってくれたんだね。うれしい」
「うん、うれしい」
こんなふうに些細な出来事を少しずつ積み重ねながら日常は続く。劇場のステージにふたりで立って漫才をして、ウケたらよろこんで、スベったら落ち込む。テレビ番組のオーディションではどこかの会議室で漫才をしてだいたい落ちて、時々受かってよろこんだりする。ふたりでネタを考えて合わせながら、ラフコンの準備をする。そして、たまに単独ライブをやる。そんな毎日を繰り返しながら、日常は続く。アルバイトをしなくても余裕で暮らしていける収入を得られるのはいつのことになるのだろう。それを考えると気が遠くなる。きっと、しんどいことのほうが多い。だけど、いつでも重幸がとなりにいるので、
「まあ、大丈夫だね」
力太は呟く。
了
ありがとうございました。