彼
僕が助けられずに、屋上から落下した彼女は死んでしまった。僕は気が動転してしまい、警察にも届けないまま、家に帰ってしまった。
翌日。彼女の遺体が発見された。警察の調査によると、彼女の部屋から遺書が見つかったそうだ。
僕が普段見ていた彼女の様子は、いつも影が薄くて、どことなく暗い雰囲気の子だった。
しかしクラスではトラブルも見受けられず、自殺を考えていたなんて僕は思いもしなかった。
だが見つかった遺書によると、どうやら家庭内でかなりのトラブルを抱えていることが分かった。特に彼女の父親は暴力的な人のようで、毎日暴言や暴力を行っていたらしい。またそういった形跡が、遺体からも確認したそうだ。
そういった事情により彼女の家庭は滅茶苦茶な状態で、葬式は未だに執り行われていない。
また遺書には、自分の存在に意義を見出せないという旨が記載されていた。
確かに、彼女はクラスでトラブルはなかったものの、一方で影が薄い子であった。また暗い雰囲気の子で、友達もいなかったようだ。
そんな彼女の事情を知った僕は、酷く彼女に共感してしまった。
というのも、僕の家庭内事情は彼女と全く同じだ。父が暴力的な人で、僕と母はそれに毎日苛まれている。それに加えて、僕は他クラスの男子生徒から虐めを受けていた。
学校でも家でも、僕の心は休まらない。本当に辛くて、もうどうしようもなかった。
だからあの時、僕は自殺をしようと屋上に行った。そしたら彼女がいたのだ。
「生きているうちに彼女と話していれば、もっと楽に生きられたのかな」
僕は呟く。僕たちは似た境遇で、独りぼっちだった。そんな僕たちなら、お互いを分かり合えて、少しでも心の負担を軽くできたかも知れない。でも、彼女はもう死んでしまった。僕は変わらず独りぼっちで、辛いままだ。
だからこそ、僕はまた自殺をすることに決めた。階段を上り、屋上に続くドアの前に立つ。
そういえば、屋上の幽霊の噂があった。今はすっかり、死んだ彼女の幽霊に置き換わってしまったようだ。
僕はドアの取っ手に手を掛けながら、そんなことを思い出した。
――ガチャリ。
ドアを開けると、飛び込んできた景色に息が止まる。
フェンスの近くに、彼女が居た。長い黒髪。目元は前髪で完全に隠れていて、学校の制服を着ている。
彼女はひどく猫背で、前髪も相まって表情がまったく見えない。
どう見たって普通ではないし、どう考えても幽霊だ。
そう考えると、僕は金縛りになっているかのように、身体が硬直する。一歩も踏み出せないし、この場から逃げることもできない。
彼女の長い前髪の間から、ギョロリとした目が見えた。猫背で、俯いていて、しかし彼女は、しっかりと僕を見ている。
彼女と目が合って、ゾワりと悪寒が全身を駆け巡る。
「……見つけた」
そんな声が聞こえて、僕は鳥肌が立った。幽霊が自分のことを探していたという事実は、こんなにも恐ろしい。
彼女は一歩ずつ僕に近寄ってくる。距離が近づくにつれて、彼女のことがはっきりと見えてくる。目は依然として僕を捉えて、逸らされることはない。口元は、よく見たらニッコリと笑っている。こめかみの方からはポタポタと血のような液体が垂れている。
僕をどうにかしようとしているのは、明らかだ。
やっぱり、僕を恨んでいるのか。それもそうか。多分あの時、彼女は僕のせいで生きたいと思って、でも死んでしまったのだ。生きたいという未練がありながら死んでしまった彼女は、そりゃあ幽霊にでもなってしまうだろう。
「ようやく、会えたね」
彼女との距離がかなり近くなると、彼女がボソボソとそう呟いていたことに僕は気付いた。やはり目はギョロリと僕を捉えていて、口はニッコリと笑っている。
目の前まで来ると、彼女は両手を伸ばして、僕の右手をそっと掴んだ。ゾワゾワと嫌悪感が駆け巡る。
いよいよ何かされると思い、僕は恐怖のあまり両目を閉じた。
「……っ……っ……」
彼女の声のようなものが聞こえてきた。聞いてはならない。
「……ぃっ……きっ……」
まだ聞こえる。それどころか、徐々に声が大きくなっている気がする。僕は目を瞑っているから分からないが、多分、顔を近づけているのだろう。
「……きっ……きっ……」
聞いてはならない。でも、僕は気になってしまい、耳を澄ましてしまう。
「……きっ……好きっ!」
「えっ?」
彼女の言葉があまりに予想外だったので、僕は閉じていた両目を見開いた。
そこには、あの日あの時に目が合った時の彼女がいた。目に涙を溜めて、何ともいえない表情をしていた。
それは安堵の表情にも見えるし、発した言葉からきた恥ずかしさを堪える表情にも見える。
「聞こえた! 聞こえたんだね!」
嬉しそうに彼女は言った。僕がずっと反応しなかったから、声が届いていないと思っていたのだろうか。
「好きって、言ったの?」
僕は思わず聞き返した。
「そう! そうだよ!」
彼女は嬉しそうに肯定した。聞き間違えではなかったらしい。
「あの日。私を助けようとしてくれたあなたの事が、好きになりました!」
とても信じられないことだった。この僕が、女子に告白されているなんて。
「どうして。あの一瞬で、僕のことが好きになるの?」
僕は訊いた。
「だって私、初めてだったから。私のために、あそこまで頑張ってくれて、助けようとしてくれたのは初めてだったから」
それを聞いて僕は、彼女の境遇のことを思い出した。彼女はずっと独りぼっちで、辛い日々を送って、自殺まで決意した。
だからこそ、僕の行動に彼女は救われたのかも知れない。
「ずっと心配だった。こんな場所に来るなんて、どうせ私みたいな人しか来ないに決まっているんだから」
彼女は僕の右手を両手で包み込んで、自分の胸元に持っていく。
「あの日、初めて生きたいと思えました。あなたのおかげです。だから、あなたには死んで欲しくなかった。ずっと生きていて欲しかった。死んじゃった私の分まで、生きていて欲しかった」
彼女はそう言い終えた後、ダムが決壊したかのようにボロボロと泣き始めた。
「あなたがまだ生きてて、良かったぁ」
そして、ため息をつくように、そう呟いた。
じゃあ、僕は良かったんだ。ずっと僕は彼女に余計なことをしてしまったのだとばかり思ってた。死のうとしていた彼女に、無駄に希望を持たせてしまって、でも死なせてしまった。
なんて残酷なことをしてしまったのだろう、と僕は後悔に苛まれた。でも違ったんだ。
あの時、あの一瞬。彼女はようやく、救われたんだ。僕は救えなかったと思っていたけど、ちゃんと救えたんだ。
「だからお願いです。生きてください。私の人生はずっと不幸だったけど、初めて好きになった人には、せめて生きていて欲しいから」
ああ、だから彼女は幽霊になったのだ。多分、彼女は優しい人だった。自分が好きな人が、今にも自殺しそうだったから。彼女はそれが気がかりで、僕を探していたのだ。
きっと彼女は、野良猫が車に引かれそうになっても、助けようとするような優しい人なのだろう。
でも、彼女の期待には応えられない。だって僕の抱える問題は、何も解決していない。
僕はいつも通り、学校で虐められて、家では父親に暴力を振るわれる。ここで死ななかったら、そんな日々を過ごすだけだ。
虫の音が聞こえる。田舎の匂いがする。風が吹いて、少し肌寒い。星空は綺麗。
そんな世界は今もなお、僕に厳しい。
そして僕は彼女を見る。幽霊だからといって、もはや彼女に対して恐怖心はない。むしろ不安げに僕を見る彼女は、可愛らしくも思える。
僕のことを好きだと言ってくれて、僕のことが心配で幽霊になってまで自殺を止めようとしてくれている。そんな彼女に対して、僕も何だか彼女のことが特別に思えてきた。
もっと早く彼女と、こうして話をすることが出来れば、この人生はまた変わったのかも知れない。虐めに合っても、暴力をされても、二人で慰め合っていけば大丈夫だったのではないか。
でも彼女は死んでしまった。もう、一緒にはいられないのか。こうして話をすることも、叶わないのか。
「ごめん。死ぬのを辞めたところで、僕が辛いのは変わらないんだ」
僕の言葉に、彼女は目を見開いた。
「だから、君はこれから僕の傍にいてほしい。君と話していると、生きるのが楽になるから」
僕は、彼女の手を握り返す。
死ぬことを辞めたところで、辛い日々は変わらない。だから僕は、彼女と一緒に生きることを選んだ。
多分、僕たちと同じ境遇の人たちは沢山いて、それでも死を選ばずに生きている人だって沢山いる。
僕たちはそれに耐え切れなかったけど、二人一緒なら耐え切れるかも知れない。
「一緒にいてくれないなら、僕はまた死を選んじゃうかも」
彼女は僕が自殺しないようにと、目の前に現れた。この世界がどこまで融通が利くのか分からないが、僕が依然として自殺してしまう可能性がある以上、彼女は消えないかもしれない。
そんな僕の願いが込められた軽口に、彼女は可愛いらしく笑った。そして握り合っているお互いの両手を、大事そうに胸元へ寄せた。
助けられなかったあの時、お互いに手を伸ばして、指先を掠めただけで届かなかった、あの瞬間を思い出す。
今度はしっかりと捕まえてやった。
もう二度と、離してやるものか。




