北への散歩
*この作品は習作のために書いたものです。深い意味はないので軽い気持ちでお読みください。
まさか自分自身が散歩を始めるとは。
出勤時の車から毎朝かかさず夫婦で歩く年配の二人を見ていると、なんだか侘しい気持ちになっていた私であったが、ふと自分もしてみたくなってしまったのだから恐ろしいものである。
服装も何を着て行けばいいか分からない上に靴だって登山靴みたいなものしかもっていない。
それでも私は彼らのように歩いてみたい気持ちが急に湧き出してしまい、他の趣味を差し置いてでも最上位に位置してしまっている。
「あらどこいくの?」
「ちょっとそこまで」
妻には適当に伝えたが、これから1時間かけて歩いてみるつもりだが、はたしてなんと言われるだろう。
呆れた顔かそれとも驚く顔か。どちらにしても妻を驚かせてやりたい気持ちも湧きあがる。
「行ってきます」
必要のない車の鍵をポケットに忍ばせ、私は普段とかわらぬ何かわぬ顔で外へとでた。
日曜の午前8時を過ぎた青空のもと、私の一歩は踏み出された。
近所を歩くのでは面白みがないと考え、北へと向かうことにする。
知り合いに出会いそうにないなるべく狭い道を選び、大きな道路からは外れて進むのを自分の中でのルールとする。
例え知り合いにあっても長話はせず、軽く会釈をして進むのみ。
「よし」
再確認が終わり、私は歩きはじめた。
歩き始めて5分と経たずに体が暑くなってきた。
寒いかなと考えていたが杞憂に終わり、長袖を捲る。
手で顔を仰ぎながら日陰に入り、一人として通らない路地の左右を見つめる。
額に薄っすらと汗がにじみでるのを感じ、指先で拭いて確認した。
「ああ、タオル持ってくればよかったかな」
失敗したなあ、と少し悔しがるものの次回にいかせばいいと許す気持ちで臨む。
しかしながら――それなりに散歩をしているきもちがする。
まだ遠くに家が見えるが、5分歩くだけで景色が随分と変わる。
会社以外で歩くことなんてまず起きないし、私はインドアな人間なので尚更である。
足はまだ痛くないが今のうちだけだろう。
一つ深呼吸をし、大きく伸びをしたあと再び歩き始める。
10分も経てばもう私の知る道はなくなっていた。
無数に枝分かれした細い道はバイク一台が通れるぐらいで古い家々があちこちに点在し、隙間を田畑が
埋める街並みに変わった。
不用心に軒下などに洗濯物が干され、中には女性物の下着が風に煽られて揺れる姿に目がとまる。
住宅街とは大違いだな、と少し気になるその下着をなるべく見ないように路地を突き進んでいくと、シ
ルバーカーをゆったりと押しながら進む老婆が曲がり角から現れた。
既に路地は一人しか渡れない程に狭くなっていたため、私は慌てて来た道を引き返し、道幅が広くなる
場所まで戻る。
老婆も私の親切に気づいたらしく、横を通り過ぎたときに皺で垂れて半分隠れた瞳でこちらをみながら
会釈をしてくれた。
何気ないやり取りだというのに今日一番の幸せを噛みしめる。
老婆の曲がった背中を見送り、再び別の角を曲がり姿を消した所で私は散歩を再開した。
折り返しとなる30分頃、丁字の行き止まりで道はなくなっていた。
高さ3メートルくらいのコンクリートで施工された法面の向こうは雑草が生い茂り、ちょっとしたジャングルとなっている。
数歩後ろに下がり、雑草の先を見ると木々の姿が確認でき、そこから先よりずっと続いている。
察するに山なのだろうか。地元の地理は疎いので明確には把握できていないが、左右の道も同じような状態で家々が建っている様子はない。
喉の乾きも感じ始め、ここいらでゴールと考えていいだろう。
私は歩いてきた道を振り返った。
決して長い一本道ではなく、途中に曲がり角や大回りをしてここまでやって来た。
だが、不安になることは一度もなく知らぬ道を手探りで進む快感を得ることができた。
「そうか、こういうことだったのかもしれない」
仲睦まじく散歩をしていた夫婦たちも始めの一歩は今の私のようだったのかもしれない、と。
この達成感が忘れられずに続けているのではないか、と。
「また来週もやるか」
私は一人呟き、その場で軽く体操をした後、来た道を歩き始めた。
お読みいただき、ありがとうございました。