物書きの老人
老人は積み上げられた無数の本に囲まれながら、黙って本を書いていた。私は頼まれたパンとスープを、部屋の入口近くにあるテーブルに乗せて声をかけた。
「おじいさん、お食事をお持ちしました」
「あぁ、ありがとう。感謝しているよ」
老人は一度手を止め、私に向かって頭を下げるとまた本を書き始めた。老人が手を動かすたび、小さな部屋いっぱいにシャカシャカと文字を書く音が溢れた。
朝起きると、手紙が届いている。朝はパンが食べたいだとか、夜はお腹いっぱい食べたいだとか、食事の要望が書かれている。私はそれを用意して、朝夕に老人の住む屋敷へ訪ねるだけ。五年間はこの仕事を続けている。一日に二度食事を届けるだけで、毎月生活に困らないだけのお金を送ってくれる。こんなに楽な仕事は無いので、私は欠かす事無く毎日屋敷へ食事を運んだ。
いつ屋敷を訪ねても、老人は本を書いていた。本はどんどんと溜まり、老人の手の届かない程まで積み上げるとその本をまとめて暖炉で燃やしてしまうのだ。その理由を尋ねても、「これも仕事なのだよ」と老人は笑うだけだった。
ある冬の日に老人の屋敷へ行くと、老人は暖炉のそばの椅子に座り、燃える本を眺めていた。
「おじいさん、スープをお持ちしましたよ」
「ありがとう、今書き終えたところでね。少し話を聞いてくれないか」
そんなことを言われたのは初めてだったので、私は大変驚いた。空いた椅子に座り老人の話に耳を傾けた。
「私は四十五年、本を書いている」
「長いですね、そんなに時間をかけて書いた本を何故焼いてしまうのです?」
「これはただ焼いているのではないんだ。私の本をね、神様へ送っているんだよ。」
老人はそう言って、火かき棒で暖炉の中の本を突いている。長年気になっていた質問に、ついに答えてくれたかと思えば神様だなんて、老人は熱心な宗教家なのだろうか。
「神様へですか。それは一体何故なんです?」
「私は神様から命を受けて、この本を書き続けているんだよ。書いた本を天国に居る神様の元へ届けるために、こうして灰にして空へ飛ばしているんだ。そうしろと言われたからね」
「それは何かのまじないなのですか?」
「いいや、違う。君は信じていないだろうが、これは本当の事なんだよ」
老人はそう言うと、いつも本を書いている机の引き出しから一冊の本を取り出した。その本にはタイトルだけが書かれているようで、これから執筆をするという様子だった。その本を私へ差し出して、老人は言った。
「このタイトルに見覚えはあるかな」
「女の子の名前ですね、どこにでも居るような。そういえばこの間、同じ名前の子供が近くの家で産まれたところです」
「その子の本だよ」
理解の追い付かない私を見ながら、老人は話し続けた。
「人生というのは神様が決めているものだったのだが、世界に人が溢れてしまってね、ある時から神様は何人かの人間に声をかけて人の人生を決める仕事を割り振ったんだ。私はこの街の周辺を担当しているというわけだ」
「待ってください、ということはおじいさんがこの街の人たちの人生を決めているということですか?」
「大体はそうだ。人生を本として書く仕事なのだけれど、風呂に入っただの犬の散歩をしただのと、日常を書く必要はないんだ。特別な内容を書いてやればその間の事は皆が勝手に過ごすんだ。」
「驚いた……。しかし何故、こんな特別な話を僕に話すのですか」
「私は年老いた。もう書けないんだ。それで神様と相談をしてね、この街の周辺の担当を君に引き継ごうと思ったんだ」
私はまた驚いて、「ええっ」と大きな声を上げた。体の中で鼓動が早くなっていくのを感じる。
「そんなに難しい仕事ではないよ、君なら大丈夫」
「無理です! 第一とつぜん過ぎます。それに、僕には物を書く才能なんてありません。ドラマチックなストーリーを書く事は出来ないんです」
「人生にドラマチックな展開なんて必要無いんだよ」
老人はそう言って立ち上がると、部屋の壁にずっとかけていたコートを羽織り、入口のドアを開けた。
「あと、前々から伝えていたら君は断るだろう? 僕なら断るからね」
老人は部屋を出た。渡し損ねたスープは手のひらの中ですっかり冷めてしまっていた。作業机の上には一冊の本が開いたまま置いてあり、まだ執筆の途中の様だった。最後の行を読むと、「少年へ仕事を託した後、屋敷へ食事を運ぶ若い青年を探しに街へ出る」と書かれていた。