6.動き始めた時間《とき》
堤が卒業し、俺はいつもの日常を繰り返しながら、いつの間にか3度目の春が過ぎていた。
堤も例に漏れず、卒業後は一度も俺に連絡をよこさない。
あの頃見つけたやりたい事に打ち込んでいるのか、大学生活を楽しんでいるのか、どっちにしろ踏みとどまって正解だったという事だろう。
それでも時々、あの頃抱いた想いと共に、堤の事を思い出す。彼女ほど強烈に印象に残る生徒は、後にも先にもいない。
そのせいか俺は未だに独身で、あの頃に比べて多少落ち着いたものの、相変わらず全校生徒の人気者だった。
校門での風紀検査を終えて職員室に戻ると、教頭先生が女性を従えて俺を待ち構えていた。先日話のあった教育実習生だろう。
我が校は時々、堤の進学した国立大学から、教育実習生がやって来る。大概は商業科目の実習生で、化学の実習生は珍しい。
「氷村先生はご存じですよね。あの堤さんですよ」
そう言って教頭先生から紹介された時は、声も出ないほど驚いた。
髪を伸ばして化粧をした堤は、面影はあるものの随分と大人びて、そして輝くほど綺麗に見えた。
挨拶を済ませ、教頭先生が立ち去ると、堤は俺の顔を見て小さく吹き出した。
「先生、そんなに驚いたの? 目と口、開きっぱなし」
堪えきれないといった様子で、堤はクスクス笑い始めた。その仕草も随分大人っぽい。
理系に進んだ事は聞いていた。それだけでも驚いたのに――。
俺もつられてクスリと笑う。
「まさかおまえが化学の教師を目指すとはな。おまえの高校時代の成績知ったら、生徒が不安になるぞ」
堤は少し眉を寄せて、俺を軽く睨む。
「そんな事ないわよ。あんな成績でも、頑張れば出来るんだって、励みになるでしょ?」
「そういう見方もあるか。でも、どうして教師になろうと思った?」
素朴な疑問をぶつけると、堤は淡く微笑んで俺を見つめた。
「最初はすごく不純な動機。先生の側にいられるには、どうしたらいいか考えたの。そして生徒でダメなら先生になればいいんじゃないかって思って。それに先生、いつもガッカリしてたって言うから、化学の苦手な子が化学の教師になるまで登りつめたら、最高に喜ばせる事が出来るんじゃないかって、単純な思いつきなの」
改めて言われてみると、俺は随分心ない事を堤に言っていたようだ。
「酷い事言ったんだな、俺。悪かったよ」
「いいの。感謝してるから。だって先生の言った通りだったもの。分かってみると化学っておもしろいから。――って、私と同じような子に知ってもらいたいの。今はそれが理由」
一途なひたむきさは、あの頃と変わらない。堤ならきっと、俺なんかより立派な教師になれるだろう。
突然堤がイタズラっぽい笑みを浮かべて、俺を上目遣いに見つめた。この表情は俺にとって、不測の事態を意味する。少し身構えると、堤が口を開いた。
「どうせなら、本来の目的も達成したいんだけど。先生の側、まだ空いてる?」
なんだ、そんな事かとホッとした途端、あの頃の想いが蘇る。蘇った想いは止めどなく溢れ出し、嬉しくて思わず頬が緩んだ。
「おまえのために、空けておいた」
おまえのせいで空きっぱなしだった、とは口が裂けても言ってやらない。
堤は一瞬、驚いたように目を見開いた。そしてすぐに、再びイタズラっぽく笑うと、
「私の本気、やっと分かってくれたのね」
そう言って、片目を閉じた。
かつての教え子のイタズラなウインクは、確実に俺の胸を撃ち抜いた。
(完)
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