4.見せつけられた本気、気付かされた本音
翌日の放課後、化学準備室の椅子に座って待ち構える俺の元に、堤はやって来た。
彼女は俺の前まで歩み寄ると、真っ直ぐに見つめて口を開いた。
「先生、周期表、覚えてきました」
「そうか。先に一つ訊いておきたい。おまえは俺の答を聞いて、どうするつもりだ?」
「何も。先生の気持ちが知りたいだけ」
「分かった。間違ったまま先に進んだり、3秒以上止まった時は、そこで終了だ。準備が出来たら始めて」
堤はひとつ大きく息を吸い込んで、中空を見つめたまま周期表の暗唱を始めた。
「水素、ヘリウム、リチウム、ベリリウム……」
俺は目を閉じ、頭の中の周期表を、堤の声に合わせて辿る。
まるでリズムを刻むように、規則正しく淡々と、彼女のよく通る澄んだ声が、午後の静かな教室に響き渡る。
やがて周期表が終盤に近付いて来た。ここまで堤は一度も言い淀むことなく、淡々と暗唱を続けてきた。このまま間違えずに、最後まで言って欲しい。そう思うと、自分の事のように鼓動が早くなる。
たとえその後、彼女を傷つける事になっても、堤の本気を見てみたかった。
あと4つ。
「……ラドン、フランシウム、ラジウム、アクチノイド」
暗唱が終わり、室内に静寂が訪れた。俺は目を閉じたまま、しばらく余韻に浸る。
どれだけ一生懸命に努力したんだろう。堤の化学の成績からすれば、昨日帰ってから初めて覚えようとしたはずだ。宿題があったかもしれない。他の授業だってある。時間はそれほどなかっただろう。
堤の努力と成果に、抱きしめて祝福してやりたい衝動に駆られる。だが俺は、これから彼女に、心ない答を告げなければならない。
今分かった。自分が何のために、堤に難題を突きつけたのか。俺は堤に抱いてはならない感情を抱き始めている。
堤が他の生徒と同じように、疑似恋愛を楽しんでいるだけなら、自分を制して今まで通りに接する事が出来るだろう。しかし堤の本気が確認できたら、俺から遠ざけようと思ったのだ。俺がマチガイを犯さないように。
目を閉じたまま黙り込む俺に、堤が不安そうに声をかけた。
「先生? どこか間違ってた?」
俺は目を開き、堤を見据える。
「いや。完璧だったよ。よく頑張ったな」
そう言って少し微笑むと、堤も嬉しそうに笑った。そして早速、対価を要求する。
「じゃあ、先生の答を聞かせて」
「あぁ。はっきり言おう。俺はおまえの想いに応える事は出来ない」
堤から笑顔が消えた。
「あたしが生徒だから? じゃあ、生徒じゃなかったら?」
「仮定の話をしても意味がないだろう。実際におまえはこの学校の生徒だ。おまえが俺に何か期待しているなら、諦めた方がいい。俺は教職を棒に振るつもりはない」
再び室内に静寂が訪れ、互いに見つめ合ったまま少しの時間が流れた。
俺が帰るように促そうと口を開きかけた時、いきなり堤が抱きついてきた。そして俺の唇に自分の唇を押しつけた。
すぐさま俺は、堤の両肩を掴んで突き放し、椅子から立ち上がった。
「やめろ! 何考えてるんだ!」
堤は縋るような目で俺を見つめる。
「どうしたら、先生の側にいられるの?」
「もう、俺の側に来ない方がいい。帰りなさい」
冷たく言い放つと、堤は俺の手を振りほどいて、駆けだして行った。
開け放たれた出入口を見つめ、俺は力なく椅子に座った。
堤の触れた唇に手を当てる。キスと呼ぶには、あまりに幼くて不器用な口づけを思い出し、クスリと笑いが漏れた。
「下手くそ……キスも知らないのか」
精一杯背伸びをしている堤が、かわいくて、おかしくて、笑いが止まらなくなった。
堤の屈託のない笑顔、物怖じしない真っ直ぐな好意、そして今見せつけられた一途なひたむきさが、俺に向けられる事は、もう二度とないのだろう。
あの眩しい笑顔が、俺と共に秘密を抱えて、かげるのを見たくはなかった。
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