3.交換条件
扉に手を伸ばしかけて、堤はふいに振り向いた。
立ち止まった俺を見つめて、イタズラっぽい笑みを浮かべる。そして俺の首に腕を回して、いきなり抱きついた。俺は慌てて、両手に持った薬ビンを堤の身体から遠ざける。
「こら、危ない。薬品がこぼれたらどうする」
「劇薬なんて怖くないもん」
「俺は怖いんだ。離れなさい!」
「ちぇ」
俺が強く言うと、堤は渋々身体を離した。
ひとの両手が塞がっているのをいい事に何をする。堤を襲うつもりはないが、女に襲われるのは男として不本意だ。
二人で化学準備室に戻り、薬ビンを片付けると、俺は堤と向き合い反撃に出た。
「じゃあ、問題。軽く炎色反応から」
「何、それ。全然軽くない」
堤がふてくされて、吐き捨てるように言う。俺はかまわず問題を出した。
「燃やして緑色の炎を出す元素は何だ?」
「わかんない」
即答せずに少しは考えろよ。俺は軽く嘆息して、おまけでもう一問出題してみる。
「じゃあ、水の化学反応式は?」
「H2O」
さすがに水がH2Oだという事は知っているようだ。だが残念ながら不正解。
「それは化学式だ。化学反応式は、さっき俺が書いたようなヤツ。何と何が反応して、何が出来るのかを表す式の事だ」
堤はふてくされたまま、俯いて投げやりに言う。
「H+O=H2O」
「元素の数が合ってないぞ」
「H+2+O=H2O」
「2って何だ、2って」
堤は俯いたまま、黙り込んだ。見事に頭から抜け落ちている事に、落胆を禁じ得ない。俺は再びため息をついて、正解を教えた。
「2H2+O2=2H2Oだ。燃やして緑色になるのは銅。全部授業でやっただろう」
突然堤が顔を上げて怒鳴った。
「そんなのどうだっていい! 化学なんか分かったって、何の役にも立たないじゃない!」
教えている身としては、これは結構痛い。二年生の一年間だけじゃ時間が足りなくて、どうしても実験をやる時間がほとんどない。
実験をして自分の目で確かめるから、化学は楽しいと思える。教科書の写真と講義だけじゃ、おもしろくないのは俺も同感だ。
「堤、花火は好きか?」
「え?」
突然脈絡のない事を訊かれたと思ったのか、堤は面食らった表情で目をしばたたいた。
「いろんな色の炎がきれいだろう? 花火の色は炎色反応を利用してるんだぞ。赤はストロンチウム、黄色はナトリウム、紫はカリウム、オレンジ色はカルシウムだ。化学は自分自身で日常に役立てる事は、ないかもしれない。だけど日常の様々な事に化学は応用されている。化学が分かると、日常のいろんな事が違った風に見えてきて、楽しいと思わないか? 俺は、そうなんだけどな」
堤は再び俯くと、小声でつぶやいた。
「……ごめんなさい。先生」
「謝らなくていい。大半の人は堤と同じ事、思ってるよ。どうしても苦手な教科ってのはあるしな」
素直に謝る堤がかわいく思えて、つい頭をクシャクシャと撫でた。
不思議そうに見上げる堤と目が合い、慌てて手を引っ込める。生徒は女の子だ。うかつに触れてはならないと律していたのに。
「用は済んだな? もう帰りなさい」
少し気まずくて背を向けると、背後で堤が問いかけた。
「先生、あたしの気持ち、迷惑?」
「そんな事はない。俺も男だからね。女の子に好かれるのは、純粋に嬉しいよ」
精一杯の笑顔で振り返る。だが堤は笑っていなかった。真顔で俺を真っ直ぐ見据え、見透かしたような事を言う。
「ウソ。先生はあたしの事、本気で相手にしてないよ。迷惑でないなら一度くらい本音を聞かせて」
俺は笑顔を消し腕を組むと、挑むように堤を見つめ返した。
「いいよ。ただし条件がある」
「また化学の問題?」
俺の言葉を遮って、堤は小馬鹿にしたように笑う。少しムッとしながらも言葉を続けた。
「当たり前じゃないか。俺の方こそ、おまえが本気で相手にしているように見えない。俺は教師だ。何をすれば俺を喜ばせる事が出来るかくらい容易に想像がつくだろう? かろうじて落第を免れて、ホッとさせてくれる事はあったが、おまえは喜ばせるどころか、いつもガッカリさせてくれた」
堤は悔しそうに唇を噛んで俺を睨む。
「化学の教科書は、もう捨てたか?」
「持ってる」
「意外だな」
思わず本音がポロリと口をついて出た。大嫌いな化学の教科書なんか、用済みになった途端捨てたものと思っていた。
「授業中に先生と目が合った数を書いてあるから」
今度は思わずため息が漏れた。真面目にこちらに注目している割に成績が悪いと思ったら、そういう事だったのか。
「だったら猶予を与えよう。教科書の表紙裏にある元素の周期表、1番から89番まで順番に全部言えたら、俺も本音でおまえの質問に答えるよ。ランタノイドとアクチノイドはひとまとめでいい」
「へ?」
堤の頭の上に?マークがたくさん浮かんで見えたような気がしたが、気にせず続ける。
「周期表を見れば分かる。試験問題に出た事があるだろう? 一度は覚えようとした事があるはずだ。チャンスは1回。明日の放課後、ここで、おまえの本気を証明して見せて欲しい」
「わかった」
堤は短く答えて背を向けると、今度はちゃんと挨拶をして教室を出て行った。
堤を見送った後、俺は力が抜けたように椅子に腰掛けた。額に手を当て、目を閉じる。
自分がいったい何をしたいのか、よくわからない。
堤が本気で化学に取り組んでいる姿は見た事がない。だから周期表を覚えられるかどうかなんて、わからない。覚えられないと思っているわけでもない。
たとえ堤が完璧に覚えてきたとしても、彼女が望む答を与える事は出来ないのに。
嫌な事を強いた上に、傷つけてしまう。これではイジメと変わらない。
堤はどうして明確な答を欲しがるのだろう。どうせ卒業と共に想いが消えてしまうのなら、俺の答を聞いて、わざわざ嫌な思いをしなくてもいいのに。
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