2.放課後の個人授業
放課後、化学準備室で薬品の点検をしていると、突然入口の扉が開いた。
「氷村先生ーっ! いた!」
姿を見なくても誰だか分かる。俺は礼儀に厳しい学校の教師として、一応注意してみる。
「こら。ノックと挨拶は?」
堤は首をすくめて「失礼しまーす」と言いながら扉を後ろ手で閉め、笑顔で駆け寄ってきた。
「走るな。ここは劇薬もいっぱいあるんだぞ」
両手を腰に当て、堤は胸を張って言う。
「愛があれば劇薬なんて怖くないのよ」
何が愛だ。思わずため息が漏れる。
いつも化学は赤点追試組だった堤が、覚えているのか気になったので、ちょっと実験してみる事にした。
「劇薬が怖くないなら、おもしろいものを見せてやろう」
俺は薬品棚から、二つの薬ビンを取り出して堤に見せた。
「塩酸と水酸化ナトリウム、どちらも劇薬だ。知ってるな?」
「うん」
「この二つを混ぜ合わせたら、何が出来るかわかるか?」
「うーん」
堤は薬ビンを見つめたまま、うなった。少しして得意げに答える。
「劇薬と劇薬で超劇薬」
思わず吹き出しそうになる。まさかとは思ったが、やはり覚えていないようだ。結構インパクトのある実験なんだが……。
「じゃあ、実際に混ぜてみよう。ここじゃ危ないから、向こうに行こう。戸を開けてくれないか」
「うん」
堤に戸を開けてもらい、二つの薬ビンを持って隣の化学実験室へ移動する。
机の上に薬ビンを置き、ビーカーを三つ並べると、二つのビーカーにそれぞれの薬品を10mlずつ注いだ。
堤は机を挟んで正面の椅子に座り、珍しそうにその様子を眺めている。
「混ぜるぞ。よく見てろ」
「煙とか出たりしない?」
堤は身を引いて口を両手で塞ぐ。
「有毒ガスは発生しない。いくぞ」
二つのビーカーから真ん中に置いたビーカーへ、同時に薬品を注ぎ込む。どちらの薬品も混合液も無色透明なので、見た目に変化は現れない。
少しの間混合液をガラス棒でかき混ぜ、俺は笑顔でビーカーを堤の前に差し出した。
「超劇薬が出来たぞ。舐めてみろ」
堤は顔をしかめて、のけぞる。
「絶対、イヤーッ!」
「大丈夫だ」
俺が更にビーカーを差し出すと、堤はゆっくりと身を乗り出して、ビーカーを覗き込んだ。そして、上目遣いに俺を見つめる。
「指が溶けたりしない?」
「しない」
堤は人差し指を素早くチョンと液につけ、恐る恐る舌先に乗せた。
次の瞬間、彼女の目は一気に見開かれた。
「しょっぱい! 何、これ。塩水?」
予想通りの反応に、思わず頬が緩む。
「おもしろいだろう?」
「劇薬と劇薬で、なんで塩水?」
「塩酸は酸性で、水酸化ナトリウムはアルカリ性。化学反応で中和されたんだ。化学反応式を見たら一目瞭然だぞ」
俺は黒板に化学反応式を書く。
HCl + NaCH → NaCl + H2O
(塩酸 + 水酸化ナトリウム → 塩化ナトリウム + 水)
式を見ても堤はピンと来ていない。俺は各元素記号を丸で囲み、矢印で繋いで見せた。
「ほら。Hが二つ。Clがここ。Naがここ。Oがここにある。それぞれの薬品の元素がバラバラになって、別の組み合わせに変わったんだ」
「あ、ホントだ」
堤が納得したのを確認して、俺は黒板を消した。
「実験終了。用がないなら、さっさと帰れ」
ビーカーを片付けながらそう言うと、堤は椅子を蹴って立ち上がった。
「用ならあるよ!」
「なんだ?」
手を休める事なく、片手間に問いかける。目が合うと、堤は少し逡巡した後、小声でつぶやいた。
「先生と二人きりで話がしたかったの」
「じゃあ、もう気が済んだだろう。ほら、片付けるから外へ出ろ」
薬ビンを持って促すと、堤は真顔で叫んだ。
「あたし、先生が好きなの!」
あまりに真剣な表情に一瞬ドキリとしたが、この手の告白は本気にしてはいけない。以前にも何人かそんな生徒はいたが、のらりくらりと躱している内に卒業し、それきり音沙汰がない。
極めて冷静に対処する。
「知ってるよ」
堤は一瞬驚いたように目を見開くと、すぐに嬉しそうな、はにかんだ笑顔を見せた。
「知ってたんだ」
「あぁ。だっておまえ、毎日、挨拶代わりに言ってるじゃないか」
途端に堤はふくれっ面になる。分かりやすい子だ。
「そうだけど……本気なの!」
それは勘違いだ。
堤は再び、真剣な眼差しを俺に注ぐ。
「先生は? 答を聞かせて」
俺の答なんて、聞かなくても分かるだろうに。堤は生徒で、俺は教師だ。俺が彼女に対して、恋愛感情は元より、好き嫌いの感情を抱いてはならない。
俺は少し笑みを浮かべると、意地悪く堤に言う。
「いいよ。俺の出す問題に答えられたらね」
堤は不服そうにわめく。
「えーっ、またぁ? 先生、そればっかり」
そればっかりって、去年に一回しかやってないと思うが――。
「授業を聞いていれば分かる簡単な問題だ。とりあえず、こいつを片付けさせてくれ。劇薬を持ったままじゃ、俺も落ち着かない」
薬ビンを掲げてみせると、堤はブツブツ言いながら、出口へ向かった。
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