三十二話「一つの別れ」
「では、友よ。また戦場で会おう。幸運を祈るぞ。死と共に」
凍り付き動かない左腕をぶらりとさげる。
もう片方の腕で致命的な傷を負った腹を抑えたゾラはその場を去っていくのだった。
濃い鉄の匂い、そして火薬。
獣人から排出された甘い毒の匂いがその場に残った。
辺りは煙で満ちており、攻められた痕跡はありありと浮かんでいた。
敵の姿はそこにはなくなっており、ただ酷い惨状だけがその場に残る。
「くそ……!」
あと少しで仇を追い詰められたのにセーリスクは悔しがる。
あと一歩、自分に少しでも戦闘に関する能力があれば
その獣人の片腕だけでも持って行けた。
そうすれば、イグニスの攻撃であの獣人は死んでいたことだろう。
しかしイグニスは、悔しがるセーリスクを窘める。
「いや、あれでよかったんだ。あいつとこのまま殺しあってもその被害でまた死人がでる。俺らはあくまで攻められた側なんだ。あちらも失っていい戦力しか投下していない」
感情で動くと更なる被害が生まれる。
あの獣人は、あそこでひかせるのが正解だったのだ。
あれ以上長引けば、多くの市民を巻き込み死ぬだろう。
そうなると、単純な足し算では測れない事態となる。
自身の持っている渇望を最大限いかし戦争に望んでいるのだ。
それぐらいのことはしてくるだろう。
ぼろぼろの体となりながらも、イグニスは冷静に現状を把握する。
「それより、先輩!」
疲労感があふれ出した体で、セーリスクは自身の先輩の元へと走りだす。
それは、カウェアの現状がスポリと頭から抜けているようでもあった。
いやむしろ現実を受け入れていないのだろう。
「だめだ……セーリスク。その人はもう」
イグニスは苦し紛れの声で止めようとするが止めることはできなかった。
言える訳がない。
その人はもう死んでいるだなんて。
カウェアの鎧は、変形しており一部は溶けていた。
そして肌も一部だけ変色していたのだ。
つまりは毒だ。
これは、ゾラという獣人が毒という武器をあつかっていることによって起きている。
戦闘時も、周囲にまき散らしていた毒は、
今もイグニスと、セーリスクをむしばんでいた。
同じように致命的な拳の一撃によって弱った体は、毒によって死に至るだろう。
しかし幸か不幸か。
カウェアはぎりぎりのところで保っていた。
「先輩!」
セーリスクに声をかけられたことにより、カウェアは意識を取り戻していた。
目をあけ、セーリスクの声に応じていた。
恐らく肋骨は折れており、その骨が突き刺さった
肺からは空気が漏れているような音がした。
その目は既にもう朧で、光が入っていなかった。
「まだ生きていたんですね!僕が医務室に急いで運びますから!」
しかしそれを否定するかのようにカウェアは首を振る。
ただセーリスクを納得させるために気を取り戻したかのようだ。
セーリスクは涙を流しながら頷き返事をする。
その死を受け入れるかのように。
「わかりました」
セーリスクは、涙を流しながらカウェアの発言に素直に応じる。
「もういいんですよ……休んでください」
カウェアは目を閉じる。
それは眠りにつくかのような自然さだった。
もういいのだろうか。
私はやり遂げたのだろうか。
自覚できない思いが淡々と溢れていく。
まだやらなければいけないことはあったはずなのに。
そのことは微塵もおもいだすことができない。
この手負いの体は、鉛のように一歩も動かない。
青年の涙が自身の顔に落ちていく。
だがその顔は全くみえない。
愛していた妻の顔すらも記憶の淵から落ちていくのを感じる。
ああ、これが死なのかと。
一歩一歩自身がそれに近づくのを感じる。
そうか……そうか残念だ。
空が曇り、雨が降る。
それは、戦いで傷ついた者たちの体を優しく慰めていくのだった。
ただ一つ、雨は兵士の死体を冷たく冷やしていた。