九話「名前をくれた人」
「……どうしよう」
それは彼なりの思案であった。
その感情というものは迷いであった。
自分の今後の命運をわけるもの。
その結果というものを彼は恐れていた。
どちらを選ぶべきか。
その単純な二択に彼は心を奪われていた。
だが決断というものは、早い方がいい。
そう理解していたからこそ、彼は迷いというものを持っていた。
「……どうしたんだ?」
「わあっ」
そのとき後ろから声をかけるものがいた。
彼は唐突に声をかけられたことで驚く。
その場に少し倒れてしまった。
「セーリスクさん……でしたか」
「……大丈夫ですか?」
彼は心配そうな顔でこちらを見る。
彼の顔をみた瞬間なぜか心がほっとした。
反乱軍の面々ではなくてよかったという部分もあった。
だが彼でよかったという想いも確かに存在したのだ。
あの時の戦いを思い出す。
王城に侵入した後、多くのメンバーは閉じ込められた。
そのなかで、【獣殺し】と出会った。
彼は、【獣殺し】と戦ったそうだ。
角牛もその場所にいた。
あの戦いを生き残った彼は優しそうな眼差しでこちらを見ていた。
今見ても信じることができない。
このような彼が、自分以上の戦士であること。
角牛たちと肩を並べるほどの強者であることに。
どうみても彼は、ただのお人よしなのだ。
それとも自分の眼は、彼に一定の好感というものを持ってしまっているのだろうか。
そう考えると、顔が少し熱くなるような気分を覚えた。
「……恥ずかしいところみせてしまいましたね」
「手を貸しますよ」
そんな自分は、驚きすぎてその場に腰を落としていた。
考え事に集中しすぎてしまった。
彼にこんな場面を、見せるとは思っていなかった。
大丈夫だろうか。
違和感は持たれていないだろうか。
恥ずかしさで顔が更に少し火照る感じがした。
大丈夫、ばれていない。
幸い今の服は肌の露出がすくない。
動揺はバレないはずだ。
「はい」
彼に手を向ける。
彼は優しく自分を引っ張ってくれた。
これが、男性の力なのだろうか。
優しく自分を気遣ってくれるその加減にまた動揺が生まれる。
「……ありがとうございます」
「それであんなところでなにをしていたんですか?」
彼は自分に対し質問をむける。
それも当然だろう。
まあ、怪しいことだ。
「少し考え事をしていて……」
「考え事ですか」
ふむと彼は、頭の中で思案する。
一体何を考えているのかと鼠の蚤は思った。
そうしてセーリスクはあることを口にした。
「……それは相談できるものですか」
「……えっと」
この際だ。
話してしまおうか。
そう思った。
しかしまた迷う。
彼にこういった相談をしてもいいのかと。
だが優しい彼ならば、真摯に考えてくれるだろう。
「実は私……豊穣国に行こうかなと考えていて」
「……それは」
セーリスクはその言葉の意味を少し考える。
てっきり彼は、このまま獣王国にいるものだと。
そう考えていた。
「……ここでの戦いが無意味になるのかななんて考えてしまったんです」
自分はこの国で自由になるために戦った。
人を殺したこともあった。
阻害するためいろんな準備を行った。
そして最後に獣王を殺すというその目的は果たされた。
自らの願望というものはついに叶ったのだ。
そして燃え尽きた。
だからこそ思ったのだ。
もういいのかと。
自分はこの国にいる意味はあるのかと。
「そんなことは……ないとは思います」
「はい。なにかしら結果を残せたと……私もそう思います」
セーリスクは断言はできなかった。
彼としては歴史に残るような偉大な結果を残した。
そう思えた。
だが鼠の蚤にとっては違うのだろう。
そう思ったのだ。
鼠の蚤は、言葉を詰まらせながら次の言葉を発する。
「実は……昔から豊穣国に憧れはあったんです。でも……行けなかった」
「……」
「私には家族がいました」
「それは」
「……はい」
いましたと、彼は言った。
もういないのだろうか。
そう聞くことはできなかった。
恐らくもうとそう思ったのだ。
彼は悲し気な表情を浮かべた。
「せめてなにかの手掛かりを……と思って反乱軍に入ったんです。ずっとここにいる理由もそれです」
「家族は……」
「ええ。見つかりませんでした。もうきっと無理でしょう。全員死んでいます」
「……」
セーリスクは何も言うことができなかった。
彼の悲しみに触れることができなかった。
鼠の蚤はそう淡々と語る。
悲しみなどもう枯れてしまった。
腐敗した感情が、自分を覆っていた。
「もういいんです。私の後悔は全て終わった」
その言葉は酷く重かった。
彼の苦しみは既に終わった。
獣王は死に、この国は変わる。
だからこそもう燃え尽きてしまった。
今の自分にはもうなにもない。
今の鼠の蚤にはもう何もない。
復讐心も、期待も。
そして願望というものも。
角牛や飛鷹たちは違うかもしれない。
彼らは獣王国の未来を切り開けることに期待をもっている。
期待や、願望や希望というものを大事に抱えている。
そういったものをきっと明るい未来とでもいうのだろう。
でも自分は違った。
もう【私】にはなにもない。
復讐はもう終わった。
今の自分にはもう何もない。
「そんなことを言わないでください」
「……なんでですか」
「……終わってないんでしょう。貴方のなかでは。だから今も生きて……」
言葉を言い終わる前に、鼠の蚤は静かに言葉を発していた。
「やめてください」
彼は涙を流していた。
自覚していないかのように、涙を流しながらこちらを真っすぐに見ていた。
「……!」
涙を拭かずに、じっとセーリスクを見つめ語り掛ける。
「もうっ!私は生きてるだなんて言えないんです!あの日から私はもう死んでいるんだ……!」
この感情は。
この記憶はここで終わっている。
途切れているのだ。
当然だった。
涙はでるはずもない。
これは終わったことだ。
そう思っているのに、涙が止まらなかった。
幼さなど。
純潔さなど。
そこで捨てた。
自分でも忘れていた。
消していた。
そう思っていたはずなのに。
涙はこぼれていた。
感情はあふれていた。
セーリスクはその言葉が自分にも共通するような気がした。
カウェアが死んだとき。
コ・ゾラと戦った時。
ネイキッドと命を競い合った時。
あの時の自分はその瞬間死んだ。
狂気に飲まれた瞬間。
狂気を受け入れた瞬間。
刹那で何かが終わるような気持ちになった。
恐らく彼はそれ以上の絶望をまだ味わっている。
自分は、甘かったのだ。
他人の苦しみを理解できるほどにまだ自分はもがいていなかった。
それを実感する。
「あなたには……獣王を殺してからが始まりだと教えてもらった。だからまた教えてくださいよ」
「……」
なにをだ。
何を自分は教えることができる。
こんな空っぽで歪で歪んでしまった自分には何も教えることなどできない。
愛している人にですら自分の本心というものは打ち明けていないのに。
空虚であるはずなのに。
「私はこの先なにを目的に生きればいい?」
「……っ」
「教えてくれよ!」
彼の眼は生きるための目的を求めていた。
濁りは、清さを求めていた。
なにかのために生きたい。
その渇望を彼はセーリスクに求めていた。
彼は暗闇のなかを歩くための寂光を願っていた。
「ただ惰性を貪るように生きればいいのか!それとも誰かを救えばいいのか!?それすらわからない……っ」
言葉に詰まる。
ああ、自分はこの言葉を語るだけの経験を。
語るだけの行動などもっていなかった。
だが納得させたかった。
目の前にいる一人の迷子を。
彼はきっと止まっているのだ。
絶望を知った日から。
その日からずっと迷子なのだ。
体は大人だ。
だが心は泣きじゃくった子供のままなのだと。
セーリスクはそう察した。
「……鼠さん」
「……なんですか」
「僕と一緒に豊穣国へ行きましょう。貴方の居場所を一緒に探しましょう」
「…………」
及第点なんてものではない。
赤点にすら満たない言葉に彼は、満足した。
只言葉が、ほしかった。
誠実で。
真っすぐで。
疑うことのできない言葉を。
手を優しく包んだ。
まるで幼い少女を引っ張るかのように。
迷子に優しく語り掛けるように彼は、真っすぐその眼を見てあげた。
無言が続いた。
そうして彼は、涙を拭き。
無理やりに笑顔をこちらに向けた。
「……行きます。貴方の元へ」
ただ、建前だけでない。
そう知ることのできる言葉であれば、彼女は満足であったのだ。
「だから……私と一緒に探してくれませんか。その生きる目的を」
「……勿論」
彼はまた笑った。
彼と接した時間はまだ少ない。
だが今後一生の親友ができたような気持ちになった。
ともかく二人の間にはそれに近しい絆というものが生まれていた。
セーリスクは彼の求めている答えを出すことができて安堵した。
しかし次に出た言葉も、セーリスクを困らせるものであった。
「もし……よかったら私に新しい名前をくれませんか」
「名前……?」
「ええ、ほしいんです。獣王国の鼠の蚤はもういない。だから私は豊穣国で生きるための名前が欲しい」
まさかこの流れで、命名をすることになるとは思っていなかった。
ただ彼は優しく笑う。
まるで女性のような優しく柔らかい笑顔で。
「えっと……少し待ってくれないか」
「今欲しいな」
「待って……」
「素敵な名前を考えてくださいね」
なんだ。
何か圧が凄い。
ここを失敗するととても後悔しそうだ。
「……別に特別な名前じゃなくてもいいんです。貴方がつけてくれた名前が欲しいんです」
ぼそっと彼はそういう。
だが、迷うものは迷う。
だがここまで言われたらここで決めないのもダメだなと思えてしまう。
「……それじゃあ、フォルトゥナというのはどうでしょう」
「フォルトゥナ……うん……いいですね」
彼女は、そういって納得のいく顔をして頷いた。
その眼には、光が宿っていた。
そして、彼女はこう言った。
「私の名前は、フォルトゥナです。よろしくお願いしますね」
フォルトゥナはそういって笑った。
彼の名付けてくれた名前を何度も反芻するように、その名前を告げた。
「……みんなになんと説明しよう」
「豊穣国に行きたいといったあとに、説明しますよ。あともう敬語はやめてください」
「なんでですか」
「名前をつけてくれた人に敬語なんて使われたくはありませんよ」
それもそうかと納得する。
しかしあまりなれない。
自分が敬語を使わない相手なんてごく少数なのだが。
ライラックやペトラぐらいだろうか。
そういえば、自分が人とかかわりあうのが苦ではなくなり始めたのはライラックからだろうか。
カウェアさんのことも一番最初は苦手だった。
でも、自分の思いを打ち明けたのは彼女が最初だった。
「わかったよ。フォル」
自分も人と関わり合うことを恐れずに生きよう。
愛している人を考えるとそう思うのだ。
セーリスクは、フォルに対して笑顔を見せる。
それは友情からくるものであった。
彼は、フォルのことを既に深い友人として認めていたのだ。
そしてその表情をみたフォルは、胸の疼きというものを覚えた。
この感情を自覚して、フォルはセーリスクにある質問を向けたのだった。
「あの……セーリスクさんは、豊穣国に待たせているかたはいるんですか」
率直に聞いてしまおう。
この方が後悔が少なくて済む。
そう思った。
一瞬時が止まったような感覚を覚える。
「え?」
彼は間の抜けた顔でこちらを見る。
突然の質問で戸惑っていた。
「それは……」
「いえ、別にいいんですよっ。ちょっと興味がわいたというか……なんというか……」
「うん。いるんだ」
「っ」
その答えは、聞きたくなかった。
でもわかっていた。
この人には恋人と呼べる存在がいると。
豊穣国には、ペトラという女性もいた。
だが彼女がセーリスクの恋人ではないことはわかっていた。
「とても弱い子なんだ。触れてしまえば散ってしまいそうだ。そう思えるぐらいに」
彼が語れば、語るほど胸に何かの楔が撃ち込まれているような衝撃を覚えた。
なぜだ。
なぜ自分はこんなにも衝撃というものを受けている。
もうそういった感情は忘れたはずなのに。
絶望とはもうわすれたはずなのに。
初めてだったのだ。
浮かれていた。
このような感情をきっと恋というのだと。
覚えていたかった。
彼は、笑っていた。
頬は少し赤くなっていた。
照れているその笑顔はとてもかわいくて。
目の前にいる彼をなぜそんな表情にできるのか。
見たことのない貴方に嫉妬を覚えた。
その日は雨が降っていた。
そんなことすら忘れていた。
夜のなか、降る雨というのはとても寒くて。
体は冷えていた。
「それなら……早く帰ってあげないといけませんね」
「ああ」
そのあとの言葉を紡ぐことができなかった。
ただ彼に対して、笑顔を見せることしかできなかった。
彼も笑顔で笑っていた。
「私も行きますから、先に戻ってください」
「わかった。早めに戻るんだぞ」
彼は自分を疑うことなく、部屋の中に入っていた。
背を向けて部屋に入る彼に、思わず手を伸ばしていた。
だけど届かなかった。
彼は後ろを振り返りもしなかった。
手が震える。
そのまま、倒れるようにおろした。
私は、その場にうずくまった。
震えて震えて、嗚咽を漏らした。
「そうか……そうだよなあ」
知っていたよ。
わかってたよ。
でもいいじゃんか。
一瞬ぐらい。
「馬鹿だなあ。私は……」
何を自分は舞い上がっていたのだろうか。
自分が彼から好意を向けられていないのなんてわかっていた。
自分の思い上がりがひどく醜く見えた。
「もう……なんで今さら」
理想を持ち、強さを持ち。
そして汚れを持ちながらも、清さというものを捨てきれていない彼に幻想をもった。
彼となんて、長い時間いたわけでもない。
深い話をしたわけでもない。
でも気になったのだ。
異なる考えを持つことのできる彼のことが。
いままで関わりあってきた人のなかで、彼だけが空気が違う。
あれは、戦場というものに飲まれ切っていない人だ。
だからこそ自分は彼に惹かれたのかもしれない。
でも。
それでも。
涙というものは止まらなかった。
「くそっ……くそっ。なんでだよお」
寂しかった。
寒かった。
温もりが欲しかったのだ。
彼はもう既にそれを知っている。
それが、羨ましくて。
それが、悔しくて。
涙を流した。
もっと早く彼と出会えてたら。
もしももっと早く自分が豊穣国にいけてたら。
そんなもしもを自分は深く考えた。
そんなものは既に自分には存在しないのに。
欲深く考えた。
そんな【普通】の人生を。
「お兄ちゃん……お兄ちゃん……会いたいよお」
名前を付けてくれたのに。
名前を付けてもらったのに、自分はまだ過去を捨てきることなんてできなかった。
過去はまだ自分に残っていたのだ。