四十六話「獣王ベヒモス④」
「やった……やりましたね!」
「いや……」
「違う!」
気配が違った。
獣王の気配というものはまだ死んでいなかった。
喜ぶには早すぎる。
しかし鼠の蚤はそれに気が付いていなかった。
ネイキッドと、プラードは一切警戒心というものを緩めていなかった。
「違うってなに……」
その瞬間、鼠の蚤は胸から血を噴き出して倒れた。
「あ……」
びくびくと体を痙攣させて、鼠の蚤は震える。
眼が正気ではなくなっていた。
精神的にも不安定になっている様子が感じられた。
動揺が三人に走る。
みることができなかったのだ。
その攻撃を視認することはできなかった。
「!!?」
「構えろ!!!!」
プラードが大きく声を出す。
明確な焦りというものを持っていた。
獣王はあれほどのダメージを負っても倒れていなかった。
アンデットの恐ろしさというものを心底実感した。
胴体には、風穴があいている。
その身体には、多くの出血が伴っていた。
しかし彼は、まだ起きていた。
なにが。
一体なにが、彼の体をそこまで動かすのか。
執念か。
単なる反応か。
そこにいる三人には理解しがたいものであった。
「イグニス!鼠を頼む!」
「ああ!」
「ちくしょうが……」
プラードがイグニスに指示を出す。
イグニスは真っすぐ鼠の蚤の元へと急ぐ。
迅速に処置をしなければ命が危ないとわかっていた。
ネイキッドは、その攻撃に気が付けなかったことに対し悔しさを感じていた。
同時に怒りも持っていた。
「……がっ……あああ」
鼠の蚤の口から血が溢れ出す。
痛みで、その体は悶えていた。
鼠の蚤は、体を強く抑えていた。
しかし血は止まらない。
止まれ止まれと、鼠は願った。
だが脳の思考が段々と鈍っていくのを体が感じていた。
かなりの重傷だ。
じっくりと観測する必要がないほどに。
獣王は、あの場面で確実に命を奪える人物を選んでいた。
「大丈夫か!鼠さん……」
心配だった。
心が揺れていた。
この場面になって、鼠がやられるとは思っていなかったのだ。
気が緩んで魔法の制御も緩くなったか。
ともかく【認識】の魔法はほどかれていたのだろう。
「……イグニスさん。私の体は……」
鼠の蚤の意識というものは遠ざかっていた。
声が弱くなっている。
いまは話すので精いっぱいのはずだ。
「大丈夫だ。気を強く持て」
イグニスが怪我の様子を見ようとする。
だがその前に、イグニスは謝罪というものをしなければいけなかった。
「ごめん」
服を割いた。
そこには女性的なラインな胸と腰があった。
鼠の蚤は、男性ではなかったのだ。
しかしイグニスはそれを知っていた。
彼は、意識的に魔法を使い隠そうとしていた。
だがそれはイグニスにはわかるものだった。
「今……ばれ……ちゃうかあ……」
鼠の蚤は、ぼそっと呟いて笑っていた。
彼が、どんな感情でそれをつぶやいたのか。
それはイグニスには断言できるものではなかった。
「……そんなことは今関係ない」
「いや……それぐらい大事だったんですよ……」
茫然とただ淡々とつぶやく。
「大丈夫だ。お前は……」
その言葉の途中で、腕を掴まれた。
死にかけのはずなのに、とても力強さを感じた。
そこには熱があったのだ。
誰よりも強い願望が。
イグニスを焦がした。
イグニスのなかの何かを動かした。
「イグニスさん……あと少しなんです。お願いします。あと少しで……この国は……」
涙が漏れていた。
ただ静かに地面に垂れていた。
彼にはもう力はないはず。
しかし命の底から湧き出すような力があった。
イグニスはそれを強く握り返す。
「ああ、わかっている」
彼は力尽きるように目を閉じた。
きっと彼は、死の淵にいるのだろう。
このまま放置すれば、彼は死ぬ。
しかしイグニスは諦めきれなかった。
それは、自分しか知らない能力であった。
「せめて……せめてこれだけは私に貴方の手伝いをさせてくれ」
彼の周りに、ほのかな光が飛んでいる。
それは蛍のように優しい光だった。
イグニスはそれを明確に視認していた。
それは自身にしか見えないものであると知っていた。
「なあ……君たち手伝ってくれないか」
その言葉に、光たちは反応する。
はしゃぎまわる子供のように、楽しむように宙に舞っていた。
その光というものは明確な意思をもって喜びを表現していた。
「これは静かで、優しい祈りの力。【癒し】は貴方の元へ」
それは魔法ではなかった。
もっと原始的で、自然に近い力だった。
だがイグニスはその力の使いかたをよく知っていた。
いま自分にできることはこれしかない。
その力は、自分の深層にそう明確に教えてくれた。
光が鼠の蚤の体へと集まっていく。
プラードとネイキッドはその現象に全く気が付いていなかった。
「……せめて君が起きたとき。もう少し世界が明るくなっていますように」
鼠の蚤の、回復が終わった。
【天使】の能力を解除する。
思わず倒れそうになる。
魔力はもうわずかだった。
「私も……尽くしてくるよ」
剣を持ち、立ち上がった。
太ももが震えた。
イグニスは、獣王に挑むことを既に決めていた。
プラードとネイキッドは既に戦いを始めている。
「てめえ……ふざけんじゃねえ!!」
ネイキッドの怒りは最高潮に達していた。
獣王にそれを向ける。
【ギムレス・パシレウス】。
短剣は、標準を獣王に向けられていた。
しかし獣王はそれを弾く。
それは風の魔法であった。
風圧とネイキッドの短剣がぶつかり合う。
獣王に到達できなかった短剣は、地面にからんからんと金属的な音を立てて姿を消す。
「……なんで獣人のてめえがそれを使えるんだよ」
ネイキッドとしても、その現象は意外なものだった。
今この段階で使ってきたということは、獣王としてもその力は馴染んではいなかったのだろう。
「アンデット化の影響か……?」
「……ああ、いかにもアダムの好きそうなことだ」
「どういうことだ?」
多眼の竜も同じく風と土の魔法を使用していた。
アンデット化が高まると、魔法の才も強化されるのか。
加えてネイキッドはなにか知っていそうな雰囲気だ。
どのような原理でそれが起こっているのか。
そういった疑問を持つ。
しかし今はそんな余裕はない。
「くるぞ!」
獣王が爪を振る。
爪と同じ形で、風の魔法は二人を襲う。
地面を強く抉る。
続けて爪を振る。
それは二人を追う形で振るわれていた。
凄まじい速度であった。
「くそっ」
プラードは大きく息をする。
【王者の咆哮】を発しようとしたからだ。
しかし間に合うか。
「二人とも避けてくれ!!」
イグニスが二人に指示を出す。
二人は、その瞬間回避に移った。
後ろには剣を構えているイグニスがいた。
「【裂空】!!」
それは空を裂く剣の一撃。
風の魔法で形成されたそれは、獣王の爪の魔法とぶつかり合う。
風と風は互いにぶつかり合いそれを消滅させた。
「……俺の魔法と同等の威力だと」
これは、想定外だ。
自身の魔法のほうが上回ると考えていた。
しかし獣王の爪の魔法は、イグニスの風の魔法を打ち消す。
自身の【裂空】の威力はたとえ皮膚の頑丈な獣人ですら打ち破れるものだ。
魔力の低下でその威力が下がっているとはいえ、獣王の魔法は強すぎる。
この威力では、ここにいる全員あの火力に耐えることはできない。
一撃で死ぬことになる。
「あの近接戦の強さで、魔法も使えるとか化け物じゃねーか」
ネイキッドもこれには、苦虫を噛み潰したような顔を浮かべる。
「大丈夫だ。何かしらの勝機はあるはず」
プラードはまだ諦めていなかった。
その闘志は消えていない。
「だな」
「ああ、わかっている」
ネイキッドも、イグニスもそれに応えた。
体は震えている。
体力も、魔力も残り僅かだ。
アンデットと、獣人の耐久性。
持久戦を挑むには、不利だ。
プラードとネイキッドも同様の判断を下していた。
「全員の最大火力をここで出し切れ。そこにしか勝ちはない」
プラードは拳を強くにぎった。
魔力を込める。
頭の中には、愛すべき人物が浮かんでいた。
「アーテ……力を貸してくれ」
強く願った。
このアンデットを滅ぼすだけの力をくれと懇願した。
そして、自分が死んだときの未来も空想した。
そうはならぬように抗おうとした。
イグニスも剣を強く握った。
風を纏わせる。
風圧が、一秒二秒と秒数を重ねる度強くなるのを実感した。
しかしこれでもまだ足りない。
獣王の耐久性を決して侮ってはいなかった。
段々と、剣が破壊へと向かっていくのを感じた。
「ごめんな、耐えてくれ」
自身の今使用している剣は、イグニスの魔法に耐えることができていなかった。
次の一撃で粉砕されるだろう。
結局この戦いでも、マールの姿というものは見当たらなかった。
だがそれでも、ここで戦う意義というものは見つけた。
自覚できたのだ。
豊穣国にいるとき自分はただのイグニスでいられたことを。
だからこそいまは戦おう。
きっと【イグニス・アービル】ならそうするのだ。
「マール。もう少し待ってくれよ。私は、君を絶対に助ける」
ネイキッドも魔力をためる。
彼が何を考えこの場所に立っているのか。
二人には見当もつかなかった。
だが明確な意思があること。
それだけは察することができた。
だからこそ何も言わずにともに戦うことができた。
「……」
「死ぬ覚悟はできたか?」
「……できてるさ、とっくにな」
三者三様の覚悟ができた。
その瞬間、獣王の準備というものも完成していたのだ。
「【天恵】!!」
「【裂空】!」
「【ギムレス・パシレウス】!」
それぞれの最大。
体の末端から末端まで出し尽くした。
衝撃が広がる。
攻撃と攻撃がぶつかり合う。
血潮が、あふれ広がっていく。
プラードの拳で、胴体を穿った。
イグニスの剣で、腕を切り落とした。
ネイキッドの魔法で、多くの出血を与えた。
だが、耐えれなかった。
強烈な風圧を纏う、【王者の咆哮】。
魔法との両立。
鼓膜が破れそうだった。
身体の組織というものを殆ど破壊されたような刺激。
皮膚の表面すべてが軽く焼かれたような痛み。
それを耐えられるものはそこにはいなかった。
「……がっ……」
数秒だけ気を失っていた。
獣王のその体は半分以上が欠損していた。
まだ立っている。
再生も始まっていた。
ダメだった。
獣王という相手を殺しきることができなかったのだ。
眼はおぼろだった。
その場にたっているものはだれひとりとしていなかった。
獣王の勝ちだ。
彼は自分たちの攻撃に耐えきったのだ。
プラードは気を失っている。
先ほどの攻撃の時に盾になってくれたのだ。
彼の怪我は凄惨なものになっていた。
ネイキッドは、立ち上がろうとしていた。
自分より数秒早く覚醒していたのだ。
だがその腕に力はない。
「ここで……全滅かよ」
ぼそっと、ネイキッドがつぶやく。
最悪の結末が共通して想像される。
しかしそんなことを考えていても、目の前の現実というものは変わらない。
だが、まだそこにはいたのだ。
戦えるものが。
炎が獣王を包む。
獣王は、その炎に包まれた衝撃で喘鳴を挙げた。
命を懇願する生命の叫びだった。
「誰だっ!」
この炎をイグニスは見たことがあった。
「骨折りっ……」
見覚えのある人物がひとりポツンとたっていた。
そこには骨の仮面をつけているいつもの彼はいなかった。
兜がとれていたのだ。
四六時中呪いのようにつけていた仮面は綺麗に真ん中で割れて。
地面におちていた。
彼の顔が見えていたのだ。
その髪は短髪で、絹のような白髪を持っていた。
その眼は赤く血のような色を持っていた。
その美しさはまるで死神のようだと思ってしまうほどの厳格さを与えた。
イグニスはその時気が付いた。
その外見は、ある人物と酷似していた。
「……ミカエル……?」
脳の思考停止。
頭が真っ白になった。
しかしそんなイグニスの疑問に関係なく、戦闘は進んでいく。
骨折りはまず剣に炎を纏った。
何度も何度も炎で包んだ。
そのうち剣は、熱をもって赤くなり始めた。
「炎……」
その時イグニスは、初めて気が付いた。
骨折りの剣の太さの理由を。
なぜ太いのか。
腕力に耐えるためか。
違う。
その攻撃の威力をあげるためか。
違う。
理由はただひとつ。
その【業火】に耐えるためだ。
その火は祈り。
鎮魂のような炎であった。
静寂と神聖さを両立するような炎であった。
「綺麗だ……」
あの時、コ・ゾラの言っていた言葉の意味が理解できる。
その技には美しさがあり、魂がある。
骨折りのその技の美しさには、それが込められていた。
目にその火の光が反射する。
不思議と心があたたかくなった。
「【業火一閃】」
獣王の肉体が半分に裂かれる。
体は、再生しようとする。
しかしその端から炎は獣王の肉体を燃やした。
これで終わりのはず。
そのはずだった。
「!!?」
その時の光景は凄まじいものだった。
獣王は、その体を急速に再生させていたのだ。
今までの損傷など微塵も感じさせないほどに。
きっとこれで最後だ。
アンデットとしての力をすべて使うことでこの再生は行われている。
「……それが最後なのだろう」
骨折りもそれを理解していた。
「付き合ってやるよ」
獣王は、まず咆哮した。
その咆哮はまるで強者に挑むことを理解したときの獣人のようだった。
だがその振動は、骨折りの行動を制限することはできなかった。
そこには骨折りはいなかった。
「遅い」
骨折りは剣を振る。
その業火の剣。
一撃で自身を守ろうとした獣王の腕の骨を折る。
獣王は殴った。
折れていない逆の拳で。
「獣王よ。さらばだ」
拳と、剣はすれ違う。
獣王の肉体は膝をつく。
その体は、徐々に発火していく。
その一部は灰となり、宙にまう。
「俺の……いや俺らの勝ちだ。……じゃあな」
獣王ベヒモス。
その肉体は、静かに消えた。
灰となり、風によって運ばれたのだ。