三十話「二回目の出立」
「……骨折りさんはどこ?」
「えっとなあ……」
人間の少女アラギは尋ねる。
それは骨折りの安否。
骨折りの居場所がどこにいるのか不安だったのだ。
しかしイグニスは答えに困る。
返答に困ったのだ。
居場所は、獣王国なのだが彼女に伝えてもわかるものなのか。
そもそも彼女が獣王国のことを知っていたとしても、その場所でひどい目にあったという彼女は、より一層の不安に襲われるかもしれない。
「遠い場所にいったんだよ」
「遠い場所?」
「うん。遠い場所」
ふと外をながめていた。
その方向には、獣王国がある。
遠い遠いその場所は、視認するということが難しかった。
しかし頭の片隅にはどこか浮かんでくる。
それは自身の経験からくるものであった。
イグニスは、獣王国にいったことがある。
マールと訪れたその国は、あまりいい印象を持っていなかった。
あの国はなにか違和感を感じた。
何かに常に苦しめられているような。
そんな閉塞感や圧迫感を感じた。
少なくとももう一度行こうとは思わないだろう。
それに亜人である自分ですらあの圧迫感を感じたのだから、半獣であるマールなどとてもあの国にいることはできないだろう。
遠い場所ときいたアラギはぼそりとつぶやく。
「そっか……帰ってくるかな?」
それは骨折りの安否の心配であった。
彼女の骨折りに対する信頼はかなり大きいものだ。
「うん、大丈夫だよ」
「なんで」
「俺が迎えに行くんだよ」
獣王国には、新たな戦いが待っている。
それは骨折りですら厳しいと思うほどの厳しいものだろう。
自分はその戦いで骨折りと共闘することになる。
どのような結果になるのだろうか。
「骨折りさんのことよろしくね」
少しアラギと話していてふと考えたことがある。
それはほんの少しの考察のようなもの。
人間の少女であるアラギはアダムに狙われている。
いやいたというべきなのか。
アダムのアラギに関する関心は、正直どの程度のものなのか図ることができていない。
そして多眼の竜の予言では、「人間の少女」のアラギと「異物の少女」マール。
この二人には何かしらの運命がある。
そしてその二人にかかわる形で、「人造の子」アダム。
この三すくみ。
情報も足りず、マールも攫われた。
そして予言の元である、多眼の竜もアンデット化の末にミカエルや骨折り、プラードの三人によって殺害された。
それによって、多眼の竜による予言の情報は二度と得ることはできない。
アダムも自分たちが最も頼るであろう場所を狙ったのだろう。
情けない限りだ。
自分だけがなにも知らない。
法王国のメンバーであるウリエルとラグエルは何か知っているのだろうか。
しかしいま現状での接触は避けたい。
アダムがマールを狙った理由は定かではない。
少なくとも彼女にアダムが求めるような価値があるとは、イグニス自身は思っていなかった。
しかしマールは攫われた。
それは多眼の竜に関係しているのか。
それとも、アラギという少女がこれから先にこの人間を憎む世界で何かを成すのだろうか。
その中にマールが必要なのだろうか。
例えそうだとしても。
そんなことはどうでもよかった。
自分とマールにはなんの関係もないだろう。
自分たち二人は、旅をつづけることができればそれでよかった。
マールと旅をしたのは単純な理由だった。
自分とマールのことを誰も知らないような。
そんな場所を求めた。
そして豊穣国にたどり着いた。
ここならやっと自由になれるとそう思った。
シャリテとの出会い、セーリスクやライラックとの関わり合い。
それは自分にとって有意義なものだった。
しかし現実は違った。
アダムは、半獣としての彼女を求めて。
天使であるラグエルとウリエルは、天使としての自分を求めた。
記憶や関わり合いという鎖から解放されたつもりでいた。
飛べたつもりでいた。
しかし実際のところそれは違った。
自分とマールの二人は結局は、檻の中にいたのだ。
広くて空が見えるような広い檻。
それを自由だと勘違いをした。
その勘違いは過ちだった。
自由だと思った。
だがまだ自分は檻の中にいたのだ。
笑えるだろう。
そんな卑屈な思いにとらわれているとある感情が湧いてくる。
なぜおまえじゃなくてマールだったのだろう。
お前はずっと獣王国にいれば、アダムはそれで満足をした。
なんで骨折りに助けられたんだ。
きっとマールに意識を向けることなんてなかったのに。
お前だったら。
泥のようなまとわりつくような後悔。
その後悔が体に触れる。
なぜか心が鋭くなった気がした。
「おねえさん?どうしたの?」
「っは……なんでもないよ」
この子のことを見ているとマールのことを思い出す。
年齢と性別は近い。
そして亜人にも獣人にも属さない【例外】。
まるで鏡写しのようだ。
骨折りが救えた【アラギ】。
イグニスが救えなかった【マール】。
なんの皮肉だ。
なんでここにはマールがいないのだ。
アラギに気づかれないように奥歯を噛んだ。
もしアダムとの戦いでマールだけ取り換えすことができたのなら。
真っ先にこの国を抜け出そう。
もうどうでもいい。
マールと自分だけでいい。
骨折りはなぜこの国から抜け出さないのだろう。
マールと自分のように。
骨折りとアラギは深くつながっている。
それは絆とか、繋がりといった風に形容できるもので。
自分たちと同じように言葉で説明できないもので構成されている。
きっと、記憶と関わりという鎖に繋がれていない自分たち。
それがアラギと骨折りなのだ。
そういう風にイグニスは比較をしていた。
「骨折りのことどう思っている?」
「なんで?」
「なんでって……仲がいいなと思って」
「骨折りさんはとてもやさしいんだ」
「……そうか」
「わからないんだ私」
「わからないって?」
その声は、普段の彼女ではなかった。
精神が後退しているような彼女ではなかった。
年相応かそれ以上の知性を持っていた。
「骨折りさんが私に優しくする理由が」
「……」
「私は今でも外が怖いのに」
骨折りは彼女に対してだけより強い感情を抱いている。
それは、生きものとしてのやさしさというか。
親子の情というか。
そういったものではない。
ともかく普段の傭兵としての彼としてはあまり見せないものであった。
その様子を、豊穣国の面々はかなり意外そうに眺めていた。
セーリスクや自分に対する態度とは違うなにか。
使命感のような強いもの。
そういったものを骨折りから感じ取れた。
彼には、なにをアラギに感じているのだろうか。
ともかく多眼竜との戦闘以降。
それを強く感じる。
彼は、きっとこれからもアラギのことを強く守ろうとするだろう。
自分と違って。
彼女が外を怖がる理由。
それは外に出ることができないというものあるが、獣王国での彼女の処刑が関係しているのだろう。
骨折りから聞いた話だが、彼女は人たちによる強い殺意にあてられたという。
ただでさえ幽閉されていたのに、そんな強い精神的な負担が当てられたら精神は不安定になる。
「アラギはさ」
「うん」
「この世界のことをどう思っているんだ」
人間を憎むようにできたこの世界。
あらゆる情報が、あらゆる生み出したものが人間を憎んでいる。
そんな中、彼女はたったひとりこの世界に存在した。
同族もとうの昔に滅んでいる。
共感も理解も誰にもできない。
彼女はどんな感情を抱いているのか。
それにただ単に興味を持った。
「……わかんないや」
「わかんない?」
「私はね、この世界のことをよく知らない。ひとりでこの世界にいる理由も」
「うん」
「だからこそそういったものに答えを出すのは、まだ早い気がするんだ」
「ああ……そうか」
「答えはまだない。それが私の答え」
それは到底この年の子から生み出されるような思考ではないものであった。
しかしとても納得した。
得心を得たとでもいうのか。
自分より遥かに幼く、未熟で経験も足りない。
稚拙な存在になぜか一種の敬意を抱いた。
そうだ。
まだ早い。
答えを生み出すにはまだ早い。
うん、その言葉が何故か自分に馴染んだ。
「イグニス。そろそろ時間だよ」
「ああ、ペトラ。今行くよ」
そんなことを考えていると、ペトラから声がかかった。
どうやら獣王国に行くための馬車に乗る時間が近いようだ。
「……何を話していたんだい」
ペトラが、少しの警戒心を持ちながらも軽くイグニスに質問をする。
アラギの過去に関するものではないのだからそこまで警戒しなくてもよいのに。
「マールのことさ」
予言と関係なく、いつか彼女とマールを会わせてみたい。
単純にそう感じた。
「あ、そうだ。ペトラ」
「なんだい?」
「ひとつ立ち寄りたい場所があるんだが、いいかな」
「手短にね」
「ああ、もちろん」
その場所は、いつもの食事処だった。
雰囲気は、あまり変わらない。
少し前に立ち寄ったばかりの雰囲気と同じであった。
店の前には、ある人物が立っていた。
セーリスクだ。
「おい、セーリスク」
「イグニスさんじゃないですか」
「ずっとそんなところに立ってどうした?」
「……あなたはわかっているじゃないですか」
そうだ、ここで働いているライラックとセーリスクは喧嘩をしている。
ライラックは、そこまでセーリスクのことを責めていない様子であったが肝心のセーリスク自身が納得してはいないらしい。
少なくとも、前回の会話で彼女を泣かしたことを酷く後悔していた。
そのせいか、彼は獣王国に行く前の別れの挨拶というものをすることをかなり躊躇していた。
セーリスクにそのことを指摘するとからかっていることがわかったのか嫌そうな顔をする。
からかい甲斐のあるやつだ。
「……別に俺はいいんだけどさ。挨拶しないと絶対後悔するよ?」
そうだ、獣王国の戦いは当然だが厳しいものだろう。
そんななかにセーリスクは旅立つのだ。
当然重傷は負うだろうし、最悪死ぬかも知れない。
少なくとも、挨拶しないということが自分の中にある優しさが許してくれなかった。
「……!わかってますよ。そんなこと」
「ならとっとと入れ!」
「ええ!!?」
「酷くない?」
なぜこんなにも彼は不器用なのだろうか。
面倒くさいものだ。
しかしライラックは、そんな彼のひどく不器用なところを愛しているのだろう。
自分がそこに文句をいうわけにはいかない。
自分は、優しく背中を押すだけだ。
強く背中を蹴り倒した。
威力は強めだが、それはほんの少しのスパイスだ。
強打と、優しさのハーモニー。
その様子をみていたペトラが、ドン引きをしていた。
「うわ!!」
セーリスクが、転びそうになる。
その勢いで、店内に侵入した。
中で食事していた人物達は、突然入ってきたセーリスクに目を丸くさせ視線を向ける。
「あんた……」
店主が、ぼそりと言葉をつぶやく。
セーリスクがここに来たことに驚いている様子であった。
「セーリスク君……」
ライラックもまた、セーリスクがここにきていることに驚いている様子であった。
しかし高揚感からか、その顔は赤くなっていた。
少なくとも、彼がここにいることへの拒絶感、拒否感などはない様子であった。
嫌悪感など微塵も沸いていない。
そこにいたのは、久々に好きな人物にあうことができて喜ぶ一人の少女であった。
「ライラック……久しぶり」
照れくさそうに、彼は笑う。
その笑顔に、心が震えたような気がした。
彼の独特のにおいが、鼻孔をくすぐる。
聴覚と視覚と嗅覚。
五感で彼を実感する。
彼女の心は、確実にセーリスクに会えたことに喜びを感じていた。
セーリスクの後ろを見たらイグニスが立っていた。
きっと彼女がセーリスクをここに入れてくれたのだろうと推測できた。
彼がいきなりこの店に突撃してきたのには驚きだが、イグニスには感謝をすることができた。
きっと真面目で優柔不断なセーリスクならこの店に入ることさえ躊躇していただろうから。
「うん、セーリスク君久しぶり」
前回の泣いてしまったことに対する申し訳なさを感じながらも、彼の言葉にしっかりと受け答えをする。
ここで逃げてはいけない。
しっかりとセーリスクと話をしなくては。
彼の眼をじっと見る。
彼は息を深く吸っていた。
「ライラック……少し僕の話を聞いてくれないか?」
「……うんいいよ」
この時だけは、お互いが次に発する言葉を即座に理解できた気がする。
想い合っていたのだ。
「ライラック、聞いてくれ」
「なに……?」
「僕が獣王国から帰ってきたら」
「……うん」
「結婚を前提に付き合ってくれないか」
「狡いよ……」
先ほどまで緊張して無表情だった彼女は、涙を零す。
しかしその頬は赤く染まっていた。
「ごめんね」
セーリスクは、彼女に対して謝った。
誠意を間違ったのではないか。
そんな思いに包まれた。
しかしここで、彼女との関係をあやふやにしたまま獣王国にいったのなら。
二度と豊穣国に帰れないような。
そんな気配を感じた。
残念ながら、自分のこういうときの勘は当たってしまうらしい。
胸の奥に、炎が燻り焦げるような感触がした。
自分には倒さなければいけない相手がある。
「私さ……待ってるからね。絶対に死なないでね」
「ああ」
彼は、ライラックを優しく抱きしめた。
せめて彼女と話している瞬間だけは、【普通】というものを実感したかった。
彼女となら幸せになれる気がした。
「嘘つきにならないでね……」
「大丈夫。僕は死なないよ」
彼女は、ぼそりとつぶやいた。
それは、ひそやかな。
心を押しつぶしたようなつぶやき。
彼女のたったひとつの淡い願望。
その約束は、守ることができるのだろうか。