第35話:リリーさん、悩みます。
強烈な吐き気と共に目が覚める。真っ暗だった視界にパッと光が入り、ここは現実なんだと気がついた。指先の布団の感覚を何度も確かめる。
自分でも息が上がっているのがわかる。呼吸をするのがやっとで、額から悪い汗がだらだらと流れ、布団を掴む手のひらにポツリと一筋落ちた。
目を大きく開き、今にも胃の中のものを全て吐き出してしまいそうな自分自身を抑える。こんな感覚は生まれて初めてだ。
悪い夢を見た。
しばらくその状態が続いて、ようやく息が落ち着いてきて私は辺りを見渡した。
夥しい数のベッドが冷たい茶色の板のような床に並べられ、天井には鉄筋が見える。ここは見たところ、ラクシュの人々が利用するホール。もっと言えば、第二ホールだ。
私はベッドから体を起こし、そのままの格好でフラフラとした足取りで外へ向かう。体に痛みはなかった。それどころか床に足をつけた時、冷たいという感覚すらなかった。
運命とはどれほど恐ろしく、巡り巡ってくるものなのだろうか。それを強く感じたと同時に、畏怖や一種の尊敬のような感情すら芽生えた。
自分にしたことはいつか返ってくる、とはよく言ったものだが、そんなチープな言葉では表しきれないほどの天罰を受けた。
シンシアの夢を見た。どれくらい休んだか分からないし今日が何日なのかすら皆目見当もつかないがあの日見た白髪になったあのシンシアの顔が、きめ細かな肌が、瞳が、夢の中でもはっきりと見えた。
私はあの時、何も出来なかった。アランが必死になって戦っている中、私は意識が朦朧として、息が苦しくなっていた。
自分自身がしたことの代償であるはずなのに、だ。私は彼女と戦い、向き合うべきであるという使命をアランたちに委ねてしまったのだ。
完全に、役立たずだった。
シンシアはあの日から、私が彼女をぶったあの日からずっと私のことを恨んでいたんだ。凍てつくような瞳は私の肌を突き刺し、全身の毛穴が閉じるような感覚を覚えたのを今でも忘れていない。
そしてその感覚をもう一度思い出した時、シンシアのあの言葉が脳裏をよぎった。彼女は私を殺しに来たと言った。間違いなく。
「あなたを殺しにきたのよ」
ズキッ、と頭を鋭いもので刺されるような感覚を覚え、一瞬視界が眩んだせいで転びそうになった。頭を抑えて体勢を立て直す。
私が見た夢とはこういうものだった。私は小箱のような器に入れられていた。昔部屋にあったおもちゃ箱のような、安作りな素材で作られた箱。見た目はそうだったが、触ると冷たいコンクリートのようだったのを覚えている。
真っ暗で先が見えず、箱が一体どこまで続いているのかはわからない。空中には黒い靄のようなものが浮いており、足元に目をやると、ゴチャゴチャと瓦礫のような石の破片のようなものが粗雑に散らかっている。大きさはさほどなく、果物のアプリル程度の大きさだった。
光がないかと辺りを歩き回る。コツン、コツンと歩くごとに音がなる。靴を履いているのに足が冷たく、心臓の方まで冷えてしまいそうだ。私は少しずつ、早歩きになる。
すると、ひとつの瓦礫に躓く。大きさは他の瓦礫と大して変わらず、何の変哲も無い、と表現するのが妥当だった。
足が痛い、と思いながらもう一度その瓦礫に目をやると、先ほどまで白い瓦礫だったはずのそれはモザイクの塊になっていた。あの、モザイクだ。その正体はなんだかわからなかったが、私には何故かそれが凄く醜いと感じた。
醜悪で、恐ろしくて、何よりグロテスクなまでのリアリティがあった。心の底から嫌悪感を抱いた。気持ちが悪い。
目をそらそうと思い自分の足に目をやると、モザイクは触れた私の足にもくっついていた。私は狂ったようにそれを引き剥がそうとした。足を地面に擦り付け、手で払い、足を切り落とそうとまで思った。
しかし、いくら剥がそうとしてもそれは取れないどころか、どんどんと増殖し、私を蝕むしばむ。
少しずつ、少しずつと私を侵食していく。足から、腰へ。腰から、腕へ。腕から、肩へ。肩から、顔へ。
モザイクはとうとう私のほとんどを埋め尽くし、口が飲み込まれた時には言葉を発することすら出来なくなってしまった。
そして、最後にはシンシアの呟きが耳元で聞こえる。
「あなたを殺しにきたのよ。」
心臓に握りつぶされるような恐怖とともに、目が醒める。
思い出すだけでも、また吐き気が増してきた。それほどまでにリアルな夢だった。シンシアの呟きはあの時聞いたものがもう一度再生したかのようなほどだった。体がブルブルと震えた。
何だったんだ、あの夢は。あの夢は私の何を意味しているんだ。あの部屋は、瓦礫は、モザイクは。今までもたくさん怖い夢を見て、忘れてきたが、こんなに恐ろしい思いをしたのは初めてだし、忘れることもなかった。
……もしかしてあれは現実だったのでは無いか?
私はあの夢を詳細に覚えている。ひとつひとつを脳内でもう一度再現できるほど。パーツのひとつひとつでさえも。もしかしてあれは現実で、今見ている世界が夢なのでは無いだろうか。
シンシアからの報いを受けて、あの箱で哀れに、虚しく朽ちゆく私が最期に見ている空虚な妄想が、この世界なのでは無いだろうか。
……ここまで考えてやめた。そんなわけがないし、そもそもこのことを考えるとまた吐き気が増してくる。私は一度忘れることにした。
「貴殿がリリアーヌ・オーリエンか。」
外に出て少し歩いていると、後ろから女性の声が私の名前を呼ぶ。
振り返ると、黒髪で剣を腰に携えた私と同い年くらいの女性が立っていた。
「私はラクシュの勇者、アリシア・アクストールだ。」
……ラクシュの勇者?
聞いたことのない単語が耳に入る。
「……なんだ、知らんのか?」
目の前の女性は首を傾げた。