第26話:元奴隷ニーナさん、振り返ります。
「***は優しい子」
心地の良い春風とママの柔らかい手が私の頭を優しく撫でた。
私はセネギア大陸の一国、ネルディ王国で生まれ、五歳までパパとママの愛情を受けて育った。
自分の名前はとっくに忘れてしまった。
それでも、家族で過ごした記憶は決して無くなることはなかった。
あパパは黒髪で目が細い科学者さん。
「周りの人にはムスッとするなって怒られるんだけどね」
パパは白衣を着て私に笑いながらよく言った。パパは偉い科学者さんらしく、仕事の仲間がよく家に招かれていた。
ママは銀髪で、目の色も私と同じピンク。
怒ると怖いけど、寝る前は私に本を読んでくれたり、色々なことを私に教えてくれた。
確かあれは四歳の頃の夜のこと。
「お母さん、私、正義の味方になりたい!」
「正義の味方?」
「うん!」
それを聞くとママはいつもの優しい顔でニッコリと笑った。
「どんな正義の味方?」
「えっとねー、悪い人から皆を守るの!」
「そっか、凄いね」
そう言うとママは無表情に戻った。
「じゃあ、正義の味方さん。ひとりと五人だったらどっちを助ける?」
「……五人?」
「じゃあ、私ひとりと、知らない人五人だったら?」
「……ママを助ける」
私は混乱した。さっきまでは五人を助けると言っていたのに、今度はママひとりを助けることになってしまった。
「答えはないのよ。あなたが生きていくうちに見つけ出せばそれでいいの」
「私は皆助けたい」
私がそう言うと、ママはプッと吹き出し、声に出してアハハと笑い出した。
馬鹿にされたと思い、私が頬を膨らませ怒ると、ママは笑いながらごめんごめんと言った。
「***は優しいね」
そう言ってママはいつものように私の頭を撫でた。
*
そして五歳になると、パパとママは喧嘩をすることが多くなった。パパはだんだん家に帰ることが少なくなっていったし、帰ってきても喧嘩ばかりするようになってしまった。
パパとママが何の話をしているのかはよく分からなかった。ただ私はふたりが喧嘩している間、黙って冷たいフローリングの床に座っているだけだった。
事件が起こったのは、ある日の事だった。
*
冬の寒い季節、冷たい北風が吹き、空はこの上なく綺麗な日だった。
私は久しぶりにママと散歩に行くことになって、心を踊らせながらコートを羽織った。
「ママ! 準備できたよ」
「……そっか。じゃあ行こう」
ママと私は散歩に出かけた。今思えばその時のママの浮かない顔はおかしかった。
「少し此処で待っててね」
これがママとの最後の会話だった。
私は一本の街灯の元にひとり、ママに待つように言われた。何故それに納得したのかは、覚えていない。結局、何時間待ってもママは戻ってくることはなかった。
外は暗くなり、手は凍るように冷たくなってしまった。手を暖めようと吐いた息はママの肌のように白く、吐くたびに体のどこかが冷たくなるのを感じた。
「ママ……」
私はあまりの寂しさに座り込んだ。街灯に照らされて私の影が動く。もう暗くて家に帰ることは出来ないと悟っていた。
寒さと空腹で意識が朦朧とする。
「こんにちは」
声の方向を見ると、仮面を付けた黒い服の男が立っていた。パパと同じくらいの背丈で、鳥顔のような仮面だった。
「君のママに言われて君をお迎えに来たんだ」
怪しい、と肌で感じた。知らない人には着いて行ってはいけないと聞いていたため、警戒したが、既に体力は限界が来ていた。
そこからの記憶は、ない。
*
ゴロゴロという馬車の音で目が覚める。私はボロボロの服を着て、首と足にチェーンを付けて馬車の中で座っていた。
大きな馬車だった。木で作られたその車の中には同じような服装の、私と同じくらいの年の子供たちが下を向いて黙って座っていた。
いわゆる、奴隷というやつらしかった。
目的地に到着して、馬車から降りた時に皆が全てを話された。
私たちは親から捨てられたこと。これから仕事をたくさんするということ。将来は男は貴族の奴隷になったり、女は愛のない結婚をするということ。
あまりの衝撃に泣き出す子や言葉を失って座り込む子がいた。そういう子どもには容赦なく鞭が振るわれた。
私は、ただ黙って立ちすくんでいた。
私が捨てられた? パパに? ママに? 理解が追いつかなかった。涙は一滴も流れない。そこにはただ漠然と、自分を客観視している自分がいた。
中にはその場で発狂する者や、パニックになって舌を噛み切ろうとする者もいた。
それから、私の27番としての生活が始まった。
朝は早くから肉体労働をし、日が落ちたらすぐに眠る。食事は一日二回。団結防止のために喋ることは禁じられていた。
そしてとりわけ私は、彼らの中でも愚図であったらしい。
「モタモタするな!」
男の怒号と鞭が地面を跳ねる音がする。ジリジリと熱い日差しが私を焼き殺す。
自然が、人が、世界が、私を嫌っている。
ママに会いたい。
もしかしたら何か事情があって私は捨てられただけなのかもしれない。実は何かの手違いで、仕方なく、パパとの諍いの結果で。
私が戻ってくれば、ママは私をギュッともう一度私のこと頭を優しく撫でてくれるかもしれない。
不思議と、私はママの名前も忘れてしまったのに、あの服の、花のような香りを思い出した。
「ママ……」
私は汚い寝床で小さくつぶやいた。
「***は優しい子」
記憶の中のママの声を聞いて、眠りについた。
12歳の夜のことだった。




