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吉、凶に近し

作者: 綾稲ふじ子

 同じクラスの田中君の名字が玉井君になって、府中から調布へと引越していったのは、中学二年生になる直前のことだった。

「家庭の事情で引越すことになりました。今までお世話になりました」

 終業式の後のホームルームで、玉井君はクラスメイトに淡々と挨拶した。私は驚きのあまり、席から立ち上がりそうになった。

私は玉井君が好きだった。

成績もスポーツも普通で、どちらかといえば物静かだから、決して目立つ存在ではない。

だけど、誰に対しても、とても優しい。

日直の子が重たい教材を持つのを手伝ってあげたり、体育の授業中、転んだ子に大丈夫? って声をかけて、一緒に保健室に行ってあげたり。そんな彼をずっと見てきた。

それなのに玉井君は転校して、私達はこのさき、別々の道を歩くことになる。

そう思ったら信じられないくらいの勇気が湧いてきて、下校途中の玉井君に連絡先を聞くことができた。


 玉井君の家に遊びに行くことになったのはそれから数か月後、夏休みも中盤に差し掛かったころだ。

 玉井君は両親が離婚して、弟さんと一緒にお母さんに引き取られた。今は深大寺のそばにある、お母さんの実家に住んでいる。

 そんなことをメールとか、たまに掛け合う電話で知った。

電話だと、玉井君も私もよく喋れた。

「新しい家と学校にも慣れたよ。それに最近、うちで子猫が生まれたんだ。すごく可愛い」

 電話越しの玉井君の声は元気そうで、私はホッとした。

「へぇ、猫。いいなあ。私も飼いたいな」

「ほんと?じゃあ、うちの子猫は? とりあえず見に来れば。見てから考えてもいいし」

 玉井君が声を弾ませて言うから、私はつい、ウンって言ってしまった。

 そのあと必死に両親を説得して、なんとか子猫を飼う許可を得た。

 子猫を見に行く日は、とても暑かった。

待ち合わせは午後二時で、一番暑い時間帯だったから、いい香りのする制汗スプレーをしっかり吹き付けておいた。

バーゲンで買ってもらったミュールと、ノースリーブのワンピースをおろして、ちょっとクセっ毛だから一生懸命ヘアアイロンで伸ばして、お気に入りのリップグロスを塗った。

待ち合わせ場所の調布駅で久々に見る玉井君は日焼けしてて、背が伸びたようだった。

「久しぶり! 元気そうだね」

 そう言って笑いかけてくる玉井君を前にしたら緊張して、急に気恥ずかしくなった。

電話では普通に喋れたのに、顔を見たら頭が真っ白になって、言葉が出てこない。

「さ、行こっか。うち、ここからバスに乗らなきゃなんだ」

 なんにも言えない私に構わず、玉井君はスタスタ歩き出す。

 無愛想な子って思われたかな? 私はちょっと落ち込みながら、あとを付いていった。


 バスはほどよく冷房が効いていた。

体温とだいたい同じくらいの気温に早くも参っていた私は、ほっと一息ついた。

後部座席しか空いてなかったから、玉井君と並んで座る。

なんだかこれってデートみたい。

そう思ったらドキドキしてきた。

背の高い木々が立ち並ぶ道を、滑らかにバスは走る。窓越しにセミの鳴く声が聞こえた。

「深大寺って、けっこう大きなお寺なんだね」

 車内広告を見て何気なくそう言うと、玉井君も広告を見上げた。

「うん。隣にある神代植物園も、なかなかいいよ。休みの日、たまに家族で行ったりする。よかったら、ちょっと寄ってみる?」

「え?」

「深大寺。どうせ通り道だから」

 そうして立ち寄った深大寺の周辺は自然が豊かで、ちょっと旅行のような気分になった。

 小路の脇には清らかな水がせせらいでいて、数軒連なるお蕎麦屋さんのなかには、水車がゆったり回っているところもあった。

 どこか懐かしいような、のどかな小路を歩いていたら、少しずつ緊張がほぐれてきた。

それなのに、真夏の天気は意地悪だ。

 バスを降りたときは少し曇ってきたなってくらいだったのに、深大寺に着く直前に、ぱらぱらと雨が降ってきた。そしてそれは、あっという間にゲリラ豪雨へと変わった。


 深大寺の山門を入ってすぐのところに大きな木が生えていて、その下におみくじの箱がみっつ置かれている。

突然の雨に、お守りとかを売っていそうな建物から女性が飛び出てきて、おみくじの箱を手早く軒下に並べて置いた。そうしている間にも、雨は激しさを増していく。

「これは当分止まないかもね」

 とっさに駆け込んだ茅葺の山門の下で、玉井君は冷静に呟いた。

 私は、がんばって伸ばした髪が濡れてうねっていることとか、おろしたばかりのミュールとワンピースがびしょ濡れになっていることに絶望して、ほとんど泣きそうだった。

 せっかくおめかししてきたのに台無しだ。

 俯いて黙り込んだ私を気にしてか、玉井君も黙り込んだ。

 こんなはずじゃなかった。久しぶりに会ったらキレイになったって思って欲しかった。

 玉井君といっぱいお話ししたかった。

 それなのに、こんなんじゃ嫌われちゃう。

 どうしたらいいのかわからなくなって、私は小さなパニックに陥っていた。

「おみくじ引こうか」

 だから急にそう言われたとき、ちょっとポカンとしてしまった。

「おみくじ引かない? ここからおみくじの箱までなら、そんなに濡れないだろうし」

 重ねて言われて、ようやく理解する。

「ああ、おみくじ。うん。引こう引こう」

 確かに、今いる山門からおみくじ売場までは数歩で行ける。それに濡れる心配なんか、もうしなくていい。とっくにびしゃびしゃだ。

 おみくじは三種類で、ダルマが付いているやつと、押し花が付いているやつと、なんにも付いてないやつがあった。

 私は押し花が付いているおみくじに決めた。

玉井君はどのおみくじを引くかまだ迷っていたから、先に引くことにした。

 箱に二百円入れて、最初に指に触れたやつを引く。開いてみたら凶だった。

 十四年間生きてきて、凶を引いたのは初めてだ。なにかの間違いかと思って何度見直してみても、記されている文字は変わらない。

 凶!

 生まれて初めて、好きな人とお出かけしている最中に引いたおみくじが凶!

 あまりのことに愕然としていると、玉井君が横から覗きこんだ。

「おお。凶か」

 わざわざ言わなくたってわかってる。

 恨めしく玉井君を横目で見ると、玉井君は笑って言った。

「吉、凶に近しって知ってる?」

 私は首を振った。そんな言葉、聞いたことない。

「吉も凶も、たいして変わらないって意味。大まかに言えば」

「ええ! 吉と凶じゃ全く違うじゃん!」

 あんまりにもざっくりとした説に、私は思わず反論してしまった。

 言ってから、恐る恐る玉井君の顔を窺う。可愛くないって思われたかな?

玉井君は笑顔のままだった。

「まあ、確かに全然違うけど。要は気の持ちようって意味だと思うよ。どんな物事にも、必ずいいことはあるし」

 好きな人とうまく喋れず、おめかししても雨で台無しになって、挙句の果てに凶のおみくじを引いたのに、そんな風には思えない。

玉井君は静かに言葉を続けた。

「俺、前の中学校好きだったよ。引越すことになったのは仕方ないことだけど、辛かった」

 私が玉井君と離れがたかったように、玉井君も中学校から離れたくなんてなかったんだ。

そう思ったら、胸が痛くなった。

「だけどさ、こうやって会いに来てくれる人がいて、しかもそれが、ずっと気になってた子だった。それっていいことじゃない?」

 思いがけない言葉に、私は息を呑んだ。

 気になってた子って、私のこと?

 そんな問いかけが、ノドのあたりで突っかかる。声にはならない。

 玉井君は照れ臭そうに顔を反らして、思い出したように、なんにも付いてないおみくじを引いた。

 開いた直後、驚いたように目を見開いた。

「なにが出たの?」

 覗き込んだ私は、言葉を失った。

まさかの凶だった。

 こんな短いスパンで出るものなの、凶って。

「……さっきは偉そうなこと言ったけど、やっぱショックだな、凶。初めて引いたわ、俺」

 玉井君の嘆きに、ついつい笑ってしまう。

「私も初めてだよ、凶。おそろいだね」

 瞬きしてから、玉井君も小さく笑った。

「そっか、おそろいか。そんなら悪くない」

 そう言いながら、顔を上げた。

「お。空が明るくなってきた」

 私も空を見た。

「そうだね。雨も弱まってきたみたい」

 凶のおかげで、玉井君との距離が縮まった気がする。もしかしたらホントに、吉と凶は近いのかもしれない。

 濃厚な緑の香りがする蒸し暑い空気に包まれながら、私はそんなことを考えていた。


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