第八話 微睡み
真空それ自体は何も包含し得ないが、それはまるで微睡みの世界であると誰しもが語った。うつらうつらと遠のく現実から自分自身がどこに行くのかは定かではない。ただそれが、その消えかかった瞬間が真空への入り口であると、現実の境界であるとされている。
そんな誰もが微睡みに至る夜半の時間帯に警笛音が鳴り響き、城内を眠そうに見回っていた衛兵達が何事かと意識を覚醒させる。警笛のもたらした信号から城への侵入者が現れた事をすぐに察知した兵たちは訓練通りに動き出した。
廊下を駆けずり回る兵達の足音にようやく目を覚ました者達は突然の事態に当然ながら理由を求めた。返ってくる答えに戸惑い、あるいは恐怖する者たちであっても自らの主人を守ろうと各々が剣を取り、弓を取り、盾を取る。
そんな事態に城の主の系譜に連なる面々も冷水を浴びせられたかのように起き上がった。部屋の外を守護している兵達に扉越しから声をかけて事態の把握に努めない愚か者は誰一人としていなかったのである。
「何事ですか?」
「姫殿下、賊が入り込みました。決して外に出ないようにお願いします。」
部屋の外に待機していた兵達は深夜の襲撃をアレクシアに伝える。彼女は予期していた可能性の一つが現実となった事に何ら驚かなかった。
アレクシアは念のためにと自室の寝台に立て掛けておいた剣を掴み、部屋の蝋燭に明かりを灯す。不意打ちを避ける為に出来る限りの準備を整えると、急に静かになった外の様子がかえって彼女の不安を掻き立てた。
「こんな夜更けに賊とは……戴冠前の私を殺しに来たのか、それとも狙いは柩か。」
呼吸音一つ聞こえなくなった外の気配に疑念を抱いたアレクシアは、誰も部屋に入って来ない点に納得のいく説明を欲した。部屋を出る事に対する危険を上回る程の直感が彼女を蝕んでいったのだ。
「変ね、もしかして私を誘っているのかしら?」
部屋の扉を少しずつ開けて廊下の様子を探ると、案の定どこにも人影らしきものはなかった。アレクシアはゆっくりと部屋の外に足を踏み出し、鞘に収まっている剣をいつでも抜けるような姿勢を崩さずに周囲を警戒する。
「誰も……いないわよね。」
前方に意識を集中させるアレクシアは耳を研ぎ澄ましながら進み出そうとしたその刹那、自身の首の真横に何者かの剣の切っ先がある事に気がついた。
誰かに背後を取られた事よりも、先程まで誰もいなかったはずの空間にいかにして現れたのかという不可解さが彼女を襲う。血の気の引く感覚とは対照的に体内の鼓動音が激しく骨を軋ませていった。
「ダメではありませんか、こんな夜更けに部屋から出るなんて。誰かに襲われても文句は言えませんよ?」
聞いたことのある声の人物を思い浮かべたアレクシアは一時とはいえ安堵した。限界まで達した緊張の糸は解かれ、未だに脈動を続ける全身を抑え込むように大きく深呼吸をする。
「はぁ、心臓に悪いわ。その剣を下げなさい、グレン。」
「声で分かるなんて、さすが姫様ですね。」
グレンと呼ばれた男は素直に剣を下ろしてアレクシアの次の行動を伺った。急な彼の来訪に驚きはしたものの、一先ずは全ての疑問を解決できる答えが得られた事に彼女は心底ほっとしたのだ。
「一体貴方はどれ程の人間の精神に干渉できるのかしら?」
「それについては姫様であっても秘密です。」
アレクシアはグレンとの邂逅を重ねる事で何となくではあるが彼の能力の全貌に迫っていた。そのため突然背後から現れた彼を錯覚と片付け、彼女は記憶の欠損という認識で蓋をする事にしたのだ。
自分の身体が操られていた事実に気づかせない辺りにグレンの末恐ろしさを感じたアレクシアではあるが、グレンが今になって現れた経緯を考えながら後ろを振り向くことなく問いかけた。
「この騒ぎの原因って貴方じゃないでしょうね?」
「まさか、私の場合は誰にも気づかせませんよ。むしろ賊の侵入を衛兵達に教えてあげた事に感謝して欲しいですね。」
「その隙に無断で私に謁見するなんて全く不届き者ね。どうせ賊が自分にとって都合が悪かったくらいの理由でしょう?」
グレンは自分が信用ならない相手であると思われている事に高笑いを決め込み、アレクシアに対して親しみを覚えた。信用のおけない人間と危険な橋を渡ろうとする彼女のあり方に面白さを感じ、彼は王の器というものを思い知ったのだ。
「これは手厳しい。ですが、ここに来たのは他でもない柩の話をするためです。その事で私に会いたかったのでしょう?」
「……ええ、その通りよ。柩の封印が四つあるらしいわ、どこかの嘘吐きからは三つと聞いていたから困っていたのよね。」
「では、その嘘吐きからの訂正です。四つ目の条件は生贄の血筋でした、これで封印は解けるかと。」
「生贄の血筋?そんなのどうやって見つけるのよ。」
新しい封印の解除条件の内容がまるで掴めないアレクシアはグレンに更なる説明を求めた。彼女は予定した刻限までに条件を揃えられるのかという焦燥感に駆られていたのだ。
「ご心配なさらずとも既に目星は付いています。あとは姫様の元に時期よく私が連れて来るだけですから、お約束致しますよ?」
そんな心中を察するようにグレンはアレクシアの耳元で怪しげに囁いた。グレンとの契約の際に決して顔を見てはならないという条項を守る為、振り向きたい気持ちをアレクシアは必死に我慢する。
グレンと交わした契約は絶対であり、反故にすればきっと自分の命は容易く終わりを告げる事をアレクシアは強く認識していた。一方で、たとえ彼が信用できない人間であっても、契約を守り続ける限りは決して裏切らないという実感が不思議と彼女に根付いていたのだ。
「そろそろ衛兵達が賊を捕らえた報告をする頃でしょう。私はこれにて失礼させていただきます。」
グレンはそう言うと後ろの暗闇に紛れて姿を眩ました。足音がまるで聞こえない様子から察するに、きっと自分が振り向いた時には誰も居なくなった廊下が見えるだけだろうとアレクシアは予想する。既に身体が操られた後であるという実感はないが、それでも確たる証拠が背後の何十もの足音から現れたのだ。
「姫殿下、ご無事でしたか。賊は既に捕らえて地下牢に入れました、安心して眠られますように。我々は再び城内の警備に戻ります。」
「分かったわ、ご苦労様。」
頼もしい衛兵達の報告を受けたアレクシアはようやく後ろを振り返る。当たり前のようにそこにグレンの姿はなく、職務に忠実な兵達がいるだけであった。
記憶と異なる現実の曖昧さをアレクシアはグレンに会う度に呪ってしまう。物事の境界の不安定さは日常の隣に潜んでおり、常に非日常という脅威に晒されている感覚を彼女は受け入れつつあったのだ。




