第二十三話 獄中の始まり
くすんだ石壁に付着する苔が辺りを湿らせ、一定の間隔で滴り落ちる血の音が死への恐怖を少しずつ和らげていく。風化しつつある牢屋は死を初めに意識させるには十分であるが、閉鎖的で変化のない空間が瀬戸際に至るまでの恐怖を麻痺させてしまっていた。
そんな中で椅子に縛られながら血を流す男は何も話さず、何も考えようとしない。ただそこで時間が過ぎるのを待つばかりであり、既にこうなる可能性を予見していたのかもしれない。
廊下の淀みを遮るような靴音が聞こえたかと思うと、暇そうに頬杖をついていた看守が誰が来たのかと一瞬だけ視線を走らせる。突然のダグラスの来訪に自分の眼を疑った看守は急いで立ち上がり制服がすれる程の敬礼をした。
「昨夜捕まった囚人はいるか?」
「え?は、はい、確かにこの場所に収監しております。」
「では、その囚人に今すぐ会わせて欲しい。私にはどうしても確認を取りたい事がある。」
すると、看守は思い出したかのように現在進行中である戴冠式の存在を頭に浮かべた。ダグラス程の貴族が戴冠式に参列しないとは考えづらく、看守として無意識に心に詰まった違和感の壁を彼は取り去る事ができなかった。
「失礼ながら、卿は戴冠式に出席なさらないのですか?。」
「そのつもりだったがな……。それで会えるのか、会えないのか?」
「勿論会えますが、やはり事前の許可がありませんから長時間という訳にはまいりません。」
「十分だよ。許可を得ていない割に融通を利かせてくれた君に感謝する。」
ダグラスは鍵を受け取ると再び看守は敬礼をし、不思議そうな表情で足早にその場を後にした。彼は渡された鍵で牢を開け、中に置いてある水入りのバケツを手に取り男に容赦なく浴びせる。
意識を覚醒した男は拷問の再開かと一度思ったが、すぐにそうではないと気が付いた。看守ではない見たことのある存在が眼前に憤然とした面持ちで立っていたのだ。
俯いた顔からダグラスを見上げ、賢明に視線を逸らすことなく男は枯れたような低い声で慎重に言葉を選び始める。止む気配のない拷問を受けていた時でさえ口を割らなかった彼が重い鎖を切り離すように初めて口を開いたのだ。
「なぁ公爵、神がいなくなった日というものを考えた事はあるか?人間をつくった後、神はお休みになられたと信者たちは語り継いできたんだがな。」
「残念ながら私のような俗物には信仰心など存在しない。つまりは、神がいなくても世界はなんら困らないという事だ。」
男のゆっくりとした口調とは正反対に、ダグラスは冷徹で異論の余地がないように咎める。それは相手を見下したものなのか、それとも裏切者を軽蔑したものなのかは判別し得ないが、そう感じる程に凍り付いた口調であることに違いはなかった。
相手を威嚇するダグラスの眼光を嘲笑うかのように彼はおどけたように肩をすくめた。ダグラスは眼前の男の真価を問いただそうと言葉を反芻する。
「そうさな、神がいなくて困るのは信心深い人間だけだ。自分たちが神の愛玩人形だと思い込む信者にとっては哀しいほどにな。神が人間を見捨てたという事に信者たちは誰も納得しやしない、だから安息日というまやかしに陶酔したんだ。」
「貴様の話に付き合う気はない。それよりも、私の願いは器がなければ叶えられないと聞いたんだが……返す言葉はあるのか?」
「その質問に一体何の意味があるというんだ?事実は変革する事を望まずに佇んでいるだけというのに。」
「私は貴様が、いや貴様らのような怪しげな連中が、この私を欺いたのかと聞いている!」
「そう焦るなよ、公爵。まだ始まってもいないのだから、ちょうど観客も待ちくたびれている頃だろうよ。物事を始めるっていうのは酷く簡単な事なんだ。人に与えられたのは生み出す事のできる力であって、最早神に限りなく近いという訳だ。」
男の言うように当時の人間の信仰とは非常に奇妙なものであった。実体のないものに存在を与えて神格化する、人間とはそれ故に恐ろしく、神に似通っていると言われる所以がそこにある。そのため、いつしかダグラスは男の言葉に蜃気楼を見せられている気分になっていたのだ。
戴冠の儀式の終わりを告げる夜の花火の音が際立って木霊し、この薄暗い牢屋とは別の煌びやかな世界では一人の女王が誕生した。女王の誕生を祝福するかの如く笑みを浮かべた男にダグラスは警戒を強めて続きを促すが、彼には男の話す内容が何一つとして理解し得なかった。
「知っているか?どんな事象の中でさえも等価交換は行え、存在が根底から崩れ去る事なんてあり得ない。それが魔術であろうと魔法であろうとな。つまり、公爵の望む永遠性も誰かの生命の代償という事になる。」
「貴様か……この私を謀ったのは。私の願いが叶えられないと知っていながら利用したのか!」
「失礼な事を言わないで欲しい。公爵の願いは器があれば叶うものだ、しかし悲運な事にそんなものは未だに存在していないというだけだ。運が良ければ公爵の死の間際に間に合うかもしれないぞ?」
「……もう十分だ、今となっては私の目的など貴様を殺す事の二の次でしかない。だが、貴様次第では最後に命乞いの機会を設けても構わない。貴様は一体何者だ?」
男の馬鹿にするような発言にかえって冷静になったダグラスは処断の意を新たに固める。そして彼は男に今わの際の泣き言を望もうと僅かな抵抗を見せたのだ。そんなダグラスの様子に高笑いを決め込んだ男は文字通り目の色を変えて簡単に答えた。
「いいだろう、特別に教えてやる。俺は人間を演じたいだけの単なる道化師さ。」
「貴様!」
粗い怒りの怨嗟に塗れたダグラスは男を塵一つ残さず滅ぼすための魔法を躊躇う事なく発動する。その刹那、男は待ち構えていたかのように舌を口から出し、隠していた魔術式の刻印そのものを瞬時に顕現させた。
終局的に錆びれた廊下を満たしたのは爆音でもなく砂塵でもない唯の眩しい光であり、周囲には古代文字の書かれた大量の黄ばんだ紙ばかりが散乱していた。そこに佇んだ勝者とは、牢を埋め尽くす紙に囲まれて床に伏したダグラスではなく、手に携えた魔導書を愛おしそうに撫でる男であったのだ。




