第二十二話 戴冠式
夜空を照らす淡白い月が二つの人影を床に貼り付け、多くの絵画で埋められ調度品の置かれた長く豪勢な廊下を歩かせる。その二つの影を作り出したアレクシアとセバスが舞台劇場の扉の前で立ち止まり静かに呼吸を整えた。
頭上にある藍色の水晶でできた照明が綺羅を飾ったアレクシアと執事服のセバスを露にし、主人と従僕の関係すらも醸し出していく。
「お嬢様、準備はよろしいでしょうか?」
「勿論よ、セバス。この時のために多くの時間を積み重ねてきたのだから。さぁ、開けて頂戴。」
「かしこまりました。」
深々と頭を下げたセバスは、その言葉を最後に扉に手を掛けアレクシアを絢爛な世界へと送り出す。そんな彼は堂々と歩く彼女の後ろ姿に亡き王妃の幻覚を見ている気分に囚われ言葉を失った。しかし、その一瞬の懐かしい回顧は扉の閉鎖音とともに幕が引かれてしまったのであった。
戴冠式が始まってからというものの現国王の祝辞や儀式的な段取りが多く、主催者側に回ってばかりでいたクレアは久々の参列に酷く退屈な思いで一杯であった。そのため彼女は倦怠感に襲われたまま椅子に深くもたれ、ようやく登場したアレクシアに何一つ感慨を抱く余力はなかった。
「やっとお姫様の登場よ、あの耄碌爺の話は退屈だったわ。」
「少し黙っていて下さい、クレア様。あんな美人を拝める機会なんてそうないんです、しかもお姫様ですよ、お姫様!」
「美人なお姫様ならここにもいるわよ。宿に戻って元気になったら覚えてなさい、生まれてきた事を後悔させてやるわ。」
「ではその時に後悔するので、今は静かにしていて下さい。」
怒る気力もない程に疲れていたクレアは舌打ちをするのが彼女に出来た唯一の抵抗であり、目を爛々と輝かせているレオナルドに恨みがましい視線を向けていた。レオナルドに限らず、整えられた髪型と礼装ともいえる衣装がアレクシアの潜在的な美しさを引き出し多くの視線を一手に引き受けていたのだ。
色鮮やかに着飾る賓客を前にしても臆することなく彼女は進み続け、自国の貴族や周辺諸国の王族に対して自身の存在を克明に印象付けていく。彼女が階段の上で佇む現国王に近づくにつれて、貴族たちの話し声は徐々に薄れていった。
穏やかな足取りで真っ赤な絨毯の上を歩き、階段の手前で彼女は跪く。それを待っていたかのように現国王は階段を一段ずつ踏みしめるように降り、実の娘である彼女との距離を縮めていった。立派に成長した娘の姿に打ち震えながら彼は自身の頭にある王冠に手をかける。
「アレクシア、良き王になるのだぞ。」
「はい、お父様。このアレクシアは只今より王としての善政をここに誓います。」
膝をつき頭を垂れるアレクシアの頭上に現国王から王冠が授けられ、参列した者たちによる拍手でもって女王の誕生を祝福した。かつての国王は側近らに支えられ、時折咳込みながらその場から立ち去っていく。
彼女は父親が扉から出ていくのを確認してから立ち上がり、眼前の階段をゆっくりと上り始めた。周囲の賓客一同は息を呑みながら新たな女王の発言を待つ。ある者は期待を浮かべ、ある者は怯えた顔を見せ、誰しもがアレクシアとの繋がりを振り返っていた。
その様子は面々に異なり、城外で女王の誕生を単に喜ぶ国民の方が遥かに心から祝福を祈っていたのだ。階段を上り終えた彼女はこの場所に集まった一同を大ぶりな所作で見回す。そして、凍てつく視線をそれぞれに配りながら高らかに宣言する。
「我が名はアレクシア=ウェルズリーである。それは、これよりこの国の支配者として、為政者として君臨する者の名である。腐敗した政治などするつもりは毛頭ない、今まで無辜の民を食い物にしてきた輩は一人残らず祭り上げようぞ。その事をゆめゆめ忘れるな!」
声高に叫ぶ彼女にかつての優しい姫の姿は一切なく、純粋な王としての貫禄と威圧が現れていた。彼女を侮っていた貴族や各国の王族らは肝を冷やし、自らの計略を一から立て直すことを彼女は余儀なくさせたのだった。
「へ~、だいぶ強気に出たわね。あそこまで言い切るという事は、やはり何か裏にありそうね。レオナルドもそう思わないかしら?」
「あの優しく綺麗なお姫様が、そんな……これは夢だ、きっとそうだ……。」
「当分は護衛として役に立ちそうにないわね。」
その時、背後の扉が軽く叩かれ入室の許可を請う女性の声が聞こえてくる。その声に聞き覚えのあったクレアはすぐに声の主がここまで案内してくれた侍女であると気が付いた。
「どうぞ。」
「失礼します。クレア殿下の……。」
式典の終了間際に都合よく現れた侍女はレオナルドの魂が抜けたような放心した様子に目を丸くして動きを止めてしまった。咄嗟の事態に対応できていない若輩の侍女にクレアは笑いながら助け舟を出す。
「彼の事は放っておいていいわよ。それで、続きは何かしら?」
「あっ、はい。クレア殿下のお迎えに上がりました、貴賓室にご案内します。」
「そう、時間を貰えて丁度良かったわ。」
今朝の同封された手紙にある通りの接待を受けたクレアはレオナルドを引きずりながら侍女についていった。未だに元に戻る素振りもない彼を雑に扱い、何かが起こるまでに回復する事を彼女は切に願っていたのだった。
アレクシアの宣誓が終わるや否や舞台劇場の入り口であった壮大な扉が音を立てて開かれていき、戴冠式の終了を告げる管楽器の音色が全体に響き渡る。集められた貴族一同は軽い小言を各々に吐きながら忙しく去っていった。
壇上後方の扉からから出たアレクシアは隠れながらその馬鹿げた様子を冷めた目で見届けており、広すぎる空間に自身の虚しさを顧みる。一直線に自身の下に向かうセバスの存在にアレクシアは寂しさを助長され、彼一人を除いて誰もいない事実に改めて自己嫌悪に駆られたのだ。
「セバス、もう始まってしまうのね……。」
「はい、刻限はすぐそこまで迫っております。その時が来ましたら、一段と深くなった宵に輝く光は何一つございません。」
「そう。私の業が今だけ照らされないなんて、幸運の極みかしら。……それじゃあ、いくわよ。」
「はい、陛下の御心のままに。」
二人は固く結んだ決意を胸に足早と城の地下に向かっていく。後悔はしないと誓う二人の背中はまるで死地に向かう兵士そのものであった。哀愁も懺悔もそこにはなく、罪を背負った人間の儚い命の灯だけが揺らめいていたのだった。




