第二十一話 偽りの所在
夜空に浮かぶ月が唯一の明かりとなって暗闇に染まる廊下に確かな道標を築いていた。迷うことはなく、予め用意してきた経路を全力で駆け抜ける足音だけが存在していた。城内を警備しているはずの衛兵の姿は誰一人となく、それこそが廊下に異様さを与え続ける。
「マリー、あとどれくらいで結界が消えるのかしら?」
「もって五分が限界よ。少なくとも魔術師相手に三分は耐えるはず。」
「もしもその時間を過ぎたら脱出するわよ。」
顔の下半分を仮面で覆うマリアンヌはリズの指示に従う事を目で合図する。リズもまた顔の左半分を仮面で覆っており、夜に溶け込む双方の黒い衣装は暗殺者のような残忍さをみせていた。
絶えず後ろに視線を巡らしながら状況を確認し、マリアンヌが瞬時に書き上げた足止めの魔術が次々と突破されていく様に二人はじわじわと追い込まれていく。
「見えた!リズは離れていて、そのまま防壁を破壊するわよ。」
目的の部屋を見つけたマリアンヌは急いで懐から白いチョークを取り出し、乱雑に堅牢な防壁に向かって書き殴る。成立した魔術により文字の羅列が発光し始め、マリアンヌは横にすかさず避けると防壁は爆音とともに弾け飛んだ。
粉塵の中に二人は飛び込み、当初の使命のままに急いで柩を探し始める。追われるように部屋中を見回し、彼女らは視界の邪魔になっているものを全て棚から床へと引きずり落とす。
「リズ、こっちにはないわ。そっちは?」
「こっちも見当たらないわよ……ということはハズレね、きっと誰かが他の部屋に移したのよ。偽の情報を掴まされたのか、それとも不幸な偶然なのか。」
「魔力の残滓は?リズの感知ならできるでしょ。」
「無茶言わないで!残り二、三分でできる芸当じゃないわ。」
繊細な作業を要する魔力感知を考えなしに要求したマリアンヌにリズは思わず苛立ちをぶつける。為す術もなく部屋の中から遠目に廊下の先を見つめたマリアンヌは、自身の仕掛けた結界に大きな歪みが入った事態に焦りを感じた。
そんな中、ふと肩にかけている黒い縦長のケースの中身に彼女は呼ばれている気がしてならなかった。時間稼ぎの為に相手の魔術師に対してそれを用いるべきかと真剣に悩むが、生者に墓守の力を向けてはいけないと最初に預言者から釘を刺された事を思い出す。
それでも自分たちが柩を諦めた結果としてもたらされる悲劇を彼女は受け入れられずにいたのだ。彼女にとって、救える命の数と重さを容易に捨てる決断などできるはずもなかった。
「マリーの所為ではないわよ、どんな聖人にだって救える命には限りがあるもの。」
今のマリアンヌの気持ちを汲み取ったリズは溜息とともにそう告げた。救いを求める声の大きさに対して理不尽な程に救われる可能性というものは少ない。その事を当たり前のようにリズは言い含めたのだ。
「けど……。」
「たった一人でも聖人の力を使って殺めれば、呪いはマリーだけでは済まないわよ。それに罪人であろうと命の重みは変わらないわ。」
「その判断が多くの罪もない人を犠牲にしても?」
「犠牲になんてなってないわ。そもそも、誰かを救えるなんてのはマリーの思い上がりよ。人にはそれぞれ運命がある、それは避けられないしがらみなのだから。」
リズは純朴な瞳でマリアンヌを見つめ、その瞳の中にいた自身の悲しげな顔をマリアンヌは自嘲気味に笑う。最早一刻の猶予もない事態に観念し、彼女は無言で言葉を待つリズに伝えた。
「諦めるしかない……わね。」
「ええ、それが賢明かしら。座標を城外の西地区の大通りにするわ、そこで連絡を飛ばしましょう。大丈夫よ、きっと混乱に乗じて柩を奪える機会が再び巡ってくるはずだから。」
任務失敗の悲壮感を漂わせるマリアンヌをリズは手を握りながら慰めるように諭した。今回の事は二人の責任であるとリズは彼女に強く認識させ、迫り来る脅威から尾を引かないために気持ちを切り替えさせる。
「さぁ、脱出するわよ!」
リズは頭の中に転移術式を書き上げ、空間の座標を現在地から西地区の大通りの一点に特定させていく。術式の処理が終わるとすぐに魔術が発動し、二人を薄紫色の光が包み込んだかと思うと彼女たちの姿は霞のように消えていったのだ。そしてそれは結界の破壊と同時にされた絶妙な転移であり、危機からの瀬戸際の脱出でもあった。
「おや?逃げましたか。全く人の獲物を掠め取ろうなどと、なんて卑しい存在でしょう。しかし、お陰様で待つばかりの退屈は紛れましたが……いやはや、我が同胞もそろそろ地下牢から這い出す頃ですかな?」
砕け散った結界に満足した男は逃げた二人組に興味を失い後ろを振り返る。そこには数多くの衛兵たちが血を流して倒れており、その姿は見るも無残に引き裂かれた肉塊であった。誰にも気づかせない隠密的な方法を取るマリアンヌやリズとは違い、その男は障害となり得る存在全てに静寂を与えていたのだ。
「少し床を汚してしまいましたか。数刻の後にはここ以外の場所も汚れるわけですが、聊か芸術を語るには惜しい光景ですね。物語の始まる前に舞台を傷つけては申し訳ない、我が同胞との邂逅まで掃除でも致しましょう。」
そう言うと男は嵌めていた黒い手袋を脱ぎ去り、手の甲に刻まれた魔術式の一種である刻印を露にする。魔力を通した彼の手の平からは勢いよく青白い炎が現れ、近くに転がる肉塊に彼は蔑むような視線を向けた。
視界に入る全ての汚れた存在を浄化していくように彼は一片残らず丁寧に燃やし始める。その肉塊は灰にすらなることを許されず、その血は蒸発して大気に同化することすら許されない。彼は人間であった存在をその悪魔の如き炎でもって消し去っていったのだ。
「それにしても仮面をかけているという事は教会の、しかも預言者の使いのはずですが……あの文字使いをどこかで見たような。」
あまりに彼は過去に人を殺め過ぎており、残像のような記憶から正確な人物を描写できないでいた。それでも、魔術の中で異彩を放つ具現化の起源を持った文字使いは彼に深い印象を与えていたのだった。
人に関する記憶は曖昧であっても戦闘の記憶は身体に染み付いている。綴った文字を何でも具現化する相手にかなり手を焼いた覚えがあるが、それは先程追っていた相手よりも遥かに化け物じみていたために彼が再考する機会は巡っては来なかった。




