第十九話 夜空を駆けた二人組
暑さの峠を越えた午後の夕焼けの中で汗を流しながら路地裏の壁に何かをマリアンヌは書きつけていた。白いチョークで建物の壁は上書きされ、記された文字の羅列がまるで幼児の悪戯を思わせる。
彼女は書き終わったことを示すように最後にチョークの先を壁に当て、納得した顔で床に敷いた地図を確認する。地図には何か所にも渡って赤いバツ印がつけられており、意味ありげな計算式が傍に添えられていた。
「はー、やっと終わった。ねぇリズ、これで全てよね?見落としはないといいんだけど。」
「ええ、これで西地区はお終いよ。夜に間に合って良かったわね、ここだけ綺麗な街並みで本当に大助かりってところかしら。」
リズは整備された西地区の貴族街を見回し、この都の配置図を不思議に思っていた。通常ならば城を円状に貴族街が取り囲み、それ以降は富裕層、貧困層といった庶民の家が広がっているはずである。しかしながら、この都は西地区に貴族街があり、他の地区に庶民の家があるというように異なっていたのだ。
西地区には貴族のような爵位持ちや王族、加えて教会関係者だけが利用できる十字列車の駅が設置されている。更には王都の西地区は豪勢な建物で溢れ、金回りもよいという現状が容易に見て取れる。
それに対して他の地区は何処にも舗装された形跡がない。つまり、他の地区は庶民が住むにふさわしい生活感満載の汚れた景色で充たされているわけである。これだけの格差を助長させる行為に何の意味があるのかと彼女は引っ掛かりを覚えた。
「どうしたの、リズ?大丈夫?」
「問題ないわ、もう連絡を飛ばすわよ。こんな場所に長居して誰かにでも見られたら面倒ですもの。」
事前に用意していた暗号の記された一枚の紙をリズは懐から取り出し、それに優しく彼女は息を吹きかけた。すると、紙に貼り付いていたはずの暗号が一文字一文字と順番に剥がれていき空中に四散していったのだ。
風に流され空を漂う文字の様子を見ていたマリアンヌは感心したような表情を浮かべる。文字を何かに書き付けて発動させる魔術形式のマリアンヌとは違って、リズは大きな予備動作をしないで発現させていたのだ。それはさも彼女の脳内に刻まれた魔術を目で転写しているようであった。
「リズの魔術って便利よねー、それも転移?」
「そうよ、けど制限が多くて使い勝手が悪いわ。移動するにも座標を特定しなくてはいけないし、さっきだって貼り付いた存在を剥がすのに一手間かかるのよ。私にとってはマリーの方が便利だと思うけれど。」
「私なんて全然、消されたらなくなっちゃうし。どれだけ威力が高くても文字を書く時間がいるし、近接戦では不利かな。まぁ、そのために盾役としてリズがついてるわけなんだけど。」
リズはマリアンヌがいつも戦闘前に罠の仕掛けをしていたことを知っていたが、戦闘中の魔術構成を目撃したことはない。差し迫った時は詠唱を行うことはあるが、それも宝石を使った短縮型ばかりであった。
それもそのはず、二人一組の彼女たちの仕事は前線に出ることではなく裏工作が常である。故にリズの魔術はマリアンヌの盾のためにあり、それ以上でもそれ以下でもない。自身の役割を再確認したリズは納得したように頷く。
「それもそうね。」
その時、戴冠式の始まりを知らせる鐘が王都全体にけたたましく重苦しく鳴り響いた。そんな鐘の音と示し合わせたかのように茜色に染まっていた空の色が薄らいでいき、夕日が王都を取り巻く山の端に沈んでいった。
上空を旋回していた黒い鳥たちの群れが夜の絵に同化していき、仕舞いにはその姿までもが失われていく。そんな景色の中にあっても尚、大通りの建物や屋台の灯りは消えることなく暗闇に道を示し続けていたのだ。
城内で催されるこの国の姫君の戴冠式が終わり次第、女王となった彼女が民草に冒頭演説を行うという段取りになっている。そのため、大多数が未だに大通りの屋台や飲食店に居座り日が暮れても待ち続けていたのだ。
「全く、向こうでは夜とは思えない明るさね。ここはもう随分と足元が覚束無くなってきたというのに……。」
「きっとお姫様の登場が待ち遠しいんだよ、でも私たちにとって好都合じゃない?」
「ん?城内への侵入が容易って事かしら?」
「違う違う、そうじゃなくて……私たちは今どこにいるでしょうか。」
マリアンヌの意図を掴みかねているリズは地図で現在地を確認すると、どうも外壁寄りの端まで来ていたようで中央までは歩くにも時間がかかるのが明らかであった。一般人の乗車可能な馬車が通ることができるのは西地区以外の三つの地区の門だけであるため、この西地区には個人で所有している馬車以外は現れることはない。
加えて、既に貴族の馬車は城に到着しており戴冠式に参列している。つまり、この西地区では貴族街らしく騒音のない品のある静寂を保っていたのだ。お祭り騒ぎの他の地区とは別世界であり、勿論屋台等といった庶民らしさは一片もない。
「本当に端まで来ていたのね、移動は転移ばかりであまり気づかなかったわ。それでどうするのかしら?戴冠式で城内の警備が一部手薄になっている今が狙い時だけど。」
「そこはほら、リズの魔術で転移をすれば……。」
堪えきれずに大笑いしながら自分の言ったことの馬鹿馬鹿しさを喜ぶマリアンヌとは異なり、リズは冷めた目でそっぽを向いた。ある意味でマリアンヌの言い分は正しくはあるがそんな事をすればどうなるのかと、リズは過去の苦い経験を引きずり出して反対する。
「絶対に嫌!城内の部屋模様には当たりをつけてるけど、付近の様子は知らないもの。もし空に転移したり、最悪地面にめり込んだら笑えないわよ。」
「あははははは、そうだよね、うん、そうだった。城には結界が貼ってあるから直接の転移は無理と言う事ね。」
「で、どうするのよ?いくら温厚な私でもいい加減笑うのを止めないと頬を抓るわよ、マリー。」
「心配ないって、ここから城まで近道を通ればすぐだから。」
そんなリズの背中を軽く叩いたマリアンヌは何かを思いついたようで、腰に付けているポーチに手を入れて弄り始めた。取り出した翡翠色の宝石を彼女はリズに見せつけるように手でほんの少し遊ばせる。
「あれ?こんなところに近道なんてなかったはずだけど……マリー、なんで今宝石なんか持っているのかしら?」
半ば返答が予想できる質問を呆れながらリズはマリアンヌに確かめた。その言葉を待っていたらしく、マリアンヌはリズに笑顔を向ける。
「なんでって、今から使うからよ。空中に文字を書くには特殊な風の魔力が必要でしょ?」
壁に立てかけてあった縦長の黒いケースをマリアンヌは背負い、慌ててリズは残りの荷物を鞄に詰め込んだ。マリアンヌは宝石を握りながら、その手の人差し指で空中に文字を綴っていく。空中に残り続ける文字列は完結を待ち遠しそうにしながら翡翠色に輝いていた。
全てを綴り終わった頃には宝石は粉々に砕け、ただの色を失った水晶の欠片のようになっていた。彼女はリズの手を握ってから完成された文章に触れると、二人の体に翡翠色をした文字列が纏わりついていく。すると二人の身体を未知の魔力が駆け巡り、命令をしてもいないのに身体が勝手に動き出したのだった。
「えっ、ちょっと足が!」
「さぁ、空を駆けるわよ。一応、風による姿のまやかしもつけておいたから大丈夫!」
徐々に浮き上がりつつある足に驚いたリズとは違ってマリアンヌは楽しそうに彼女の手を引っ張る。地面を、大地を走るのではなく、彼女たちは空を、天を走る。踏み込む一歩は獣の如く軽く、進みゆく速さは翼をも凌駕する。そんな彼女たちにとって城までの距離はどうということはなく、ほんの少しの疲れを感じることもなく付近に溶け込むように降り立った。




