第十話 懐かしい匂い
森の中に隠れるように置かれたレンガ造りの質素な家が一軒。周りには集落などはなく、自給自足できるように畑があり、側には薪の山がある。
そんな家の地下で先ほど目覚めた少女がいた。暗い地下室でいつも出会うはずの顔はなく、リズは寝床であった柩を片付けてから辺りを見回す。
「ロゼリア?いないの?」
地上の床を開けるための取っ手を見つけ、それを所定の場所に嵌めてから反時計回りに淡々と回していく。開かれた床からは光が徐々に漏れ出し、彼女は眩しさに目を細めて地下室の一帯を確認する。
リズは石段を上り、家主を探すために一部屋ずつ扉を開けていく。開かれた窓から差し込む真昼の陽光に加え、小鳥の軽やかなさえずりが微かに聞こえてくる。何も変わらぬ日常の一幕に、起きたばかりのリズは白昼夢を見せられている気分になった。
「誰もいないのかしら?」
リズは台所に向かうと、料理途中と見られる食材の切り置きに加え、まな板の上の包丁も片付けられることなくそのまま放置された光景を目にする。
家主が先ほどまでいたかのような状況から、急ぎの所要があったのではないかとリズには容易に想像がついた。しかし、彼女には納得のいかない事が一つだけあった。
「変ね、ロゼリアはそんなにそそっかしくはないのだけれど。」
開けっ放しの玄関から流れ込む緑の風に、雲のような柔らかい黒髪を靡かせながらリズは外を見る。優しく生真面目な家主の事を思い浮かべ、確かに彼女に抜けた所はあるが、それでも料理途中に玄関の扉を放り出すほどの底抜けという訳ではない。
「鳥に食べられたらどうするのかしらね?」
外に出る際に扉を閉めたリズは地面にいくつかの足跡がある事に気が付いた。このような森に複数人が訪れるなんて滅多にない事を彼女は珍しがる。
足跡を追ってみるに、それらは森を抜けた先の街に続いている事が予想できた。彼女は家主の「街に出てはいけない」という言いつけを守るために、街を見下ろすことのできる高台を目指す。
「少しぐらい、いいわよね。きっとお姉さまが味方してくれるわよ、だっていつも私ばかり仲間外れにされてるもの。」
留守番ばかり任されるリズは一人で愚痴をこぼしながら傾斜のある山を登っていく。枝をかき分け、草木を踏み込んだ先には街の景色を一挙に抑える見晴らしの良い高台に辿り着いた。
高台から転げ落ちないように、近くにある大きな木を掴みながら足りない身長を補うために背伸びをする。街にいる人間が点のように小さく、その姿が同じ方角を目指して歩いている事をリズは視認した。
「何か行事でもあったかしら?お姉さまは何も言っていなかったけど。えっと……あったわ。」
人だかりができている箇所を見つけたリズはそこにあるものをじっと見つめる。大きな丸太が観衆の中心に添えられており、その丸太が足元からゆっくりと燃え出したのだ。
リズの高台からは遠すぎて声が聞き取れず、街の人々さえも点のようにしか見えない。そのため、火柱と化していく様子を観察していたリズは何故観衆が騒いでいるかが理解できなかった。
「結局よく分からなかったわ。あれ、だんだん空模様がおかしくなって……そういえば洗濯物!」
晴れた陽光はいつしか雲に隠れ、鼠色に空が移り変わっていた。リズは街に興味を失い、家主に怒られないように急いで自宅への帰路についたのだった。それから暫くの事、予想通りに雨が降り出していた。
その雨は誰かの事を思っているかのように儚げに悲しく涙を落とす。火柱と化していた丸太は炭に姿を変え、小さな人々は蜘蛛の子を散らすように去っていった。
「ふー、間に合って良かったわ。それにしてもロゼリアはいつになったら帰って来るのかしら?」
洗濯物を取り込み終えたリズはたった一人で家主の帰りを待つ。雨が止み、日が暮れて待ちくたびれた彼女は柩で眠る。再び朝日が昇れば彼女は家主の帰りを待った。
いつしか季節を跨ぎ、年を跨ぎ、それでも彼女は待ち続ける。永遠を生きる彼女にとって待つことは苦ではなかったが、とても寂しい時間である事に変わりはなかった。
そんな時、ようやく玄関の扉を叩く音が聞こえてリズは満面の笑みとともに出迎えに走る。しかし、そこに現れたのは家主の姿では決してなかった。
大きな鈴の音が響き渡り、終着を示す汽笛が鳴る。それに合わせて扉が開かれるとぞろぞろと人々が外に荷物を抱えて出ていった。
「リズ、着いたわよ。」
マリアンヌに身体を揺り動かされる事でリズの夢が霧のように消えていく。そして、リズは目の前の存在を認識するや否や先程まで何を見ていたのか忘れてしまっていた。
「ん?ん、そう、マリーか。」
「ちょ、ちょっと!もう着いたって、また寝ないでよ。」
再び目を閉じそうなリズの手をマリアンヌは無理矢理引っ張り、大きな荷物を背負いながら周りの人々と同じように列車を後にした。
多くの人で混雑した駅構内でリズとマリアンヌは人の間を縫うように改札に向かって進む。そんな中、リズは床に落ちていた格子模様の鳥打帽を手に取ると立ち止まってしまった。
「まるで記者が被るような帽子ね、一体誰のかしら?」
「リズ、落し物を拾うのは面倒事を引き受けるのと同じ行為よ。」
「その程度の事は勿論弁えているわ。けれど、この匂いはどこかで……。」
リズは過去に覚えのある懐かしい匂いに引かれて帽子を拾った訳であるが、肝心の記憶から思い出せないでいた。その時、リズのもとに眼鏡を掛けた女性が何やら叫びながら大急ぎで駆けて来る姿が目に映った。
「あの、その帽子、私、私のです。」
息を切らしながら走ってきた所為で彼女は暫く顔を上げる事ができずにいた。そんな彼女の様子にリズとマリアンヌは帽子の持ち主が難なく見つかった事に安堵する。
「これ、貴方のかしら?」
「はい。きっと帽子の裏に私のオリヴィアって名前があるはずです。」
言われるがままにリズは持っている帽子の裏地を確認すると丁寧な文字で名称が記されていた。その几帳面さや肩に掛けている射影機からリズはオリヴィアの職業に当たりを付ける。
「確かに……持ち物に名前を書くなんて珍しい人ね。新聞か雑誌の記者さん?」
「え?あ、はい、これから取材に伺う予定で……とにかく帽子を拾って下さりありがとうございました。」
時間に余裕がないのか一礼したオリヴィアは挨拶を終えるとそのまま走って改札の向こう側に消えてしまった。そんな彼女の後ろ姿を眺めていたリズは険しい顔でオリヴィアから漂った懐かしい匂いの正体を追っていたのだった。




