無銘のナイフエッジ
後悔とは常に自分自身に起因する。
不可抗力ならば諦めもつく。理不尽ならば憤ればいい。
だが、後悔とはそう簡単に責任転嫁することも許されない重い十字架なのだ。
彼は十字架を背負っていた。あまりに分厚く、巨大な十字架はそれそれものが罪の証明。
「―――反省した。俺は大いに反省したぞ、アリア。これは猛省といっていい。マリアナ海峡より深く、ブラックホールより深く反省した。どうだここは関大な心で許すべきだろう、そう思うべきだ、なあ?」
「死んで下さい」
武蔵は溜息を吐いた。春と呼ぶにはまだ早い澄んだ朝の空とは裏腹に、彼の内心は困り果てていた。
「まったく、ちょっとくらいクラスメイトにお前の裸体を披露したからって、そこまで怒ることもないだろうに」
「それで怒らずして何に怒れというのですか!?」
がおがおと叫ぶ少女に、武蔵は何度目か判らない溜息をまた一つ。
どうやら、転校生の美少女―――アリア・K・若葉は武蔵に対して、依然として敵意を抱いているようであった。
転校生という言葉にはどこか甘美な響きが潜む。
「アホか」とか「なに言ってんだコイツ」とか「援交生なら甘美かも」とか「山田太郎侍見参」とか多々異論もあるであろうが、その特殊な立ち位置はやはり一目を置かれうるポジションであることは否定出来ないはずだ。
旅客機の通信途絶による遭難騒ぎ、その後日。件の美少女はしかしいつまでたっても学校に現れず、彼女が乗り込んでいたのは別の便だったのだろうかと内心落胆していたとある休日。
「むう……」
我らが主人公、大和武蔵は自室にてスケッチブックを穴があくほど睨んでいた。
冬の嵐は過ぎ去り、積もった雪も順調に溶けていく今日この頃。武蔵が真っ白な紙と睨み合うに至った理由、それは学校の宿題にあった。
社会人になってから役に立たない技能として勇名轟かせる数学だが、これは職業によって意外と使用する機会に恵まれている。
武蔵を悩ませているのは真に約立たずであろう、美術なる科目。担当の教師は授業中にデッサンが終わらなかった生徒に対し、日曜日に家で済ませてくるように言いつけたのだ。
なんという横暴であろうか。なんという暴虐であろうか。しかしどれだけ嘆こうとも期限は待ってはくれず、武蔵は唸りながら自室の机にてスケッチブックに恨み節を漏らし続けたである。
「そもそも何を描くのか決まってないときた。あーやめやめ、やってられませーん」
大和はスケッチブックを放り投げ、ベッドに倒れ込む。
こういうのはインスピレーションが大切なのだ。根詰めたところでいい絵など描けないのだ。あながち間違いではないものの明らかに言い訳でしかない自己正当化を自身に言い聞かせ、武蔵は大きく伸びをする。
その時、外からローター音が聞こえてきた。ヘリコプターの音、それもかなりの大型機。
「この音は―――民間用のチヌークか」
上体を起こし窓の外を見れば、輸送ヘリが近所の発着場上空でホバリングをしていた。下部にはトラックを吊り下げている。
「お隣さんか?」
慌てて身を起こす武蔵。
彼が真っ先に連想したのは、最近出来上がった隣の新築であった。
「最初は別件かと思っていたが、この時期に家の新築、そして転校生……可能性は決して低くはない」
大和家の隣には、前々から一軒家が建築されていた。
この島はそもそも新興住宅地、時期も2月ということで新築など珍しくはない。故に頭から抜け落ちていたのだが、ふと彼は気が付いたのだ。
―――もしかしてこれ、例の美少女転校生の家じゃね? と。
輸送ヘリがトラックを慎重に降ろし、作業員が手早くワイヤーを外していく。
少し前の時代に生きる人間からすれば、引っ越しで輸送ヘリが飛ぶことに疑問符を抱くであろう。しかしながら、2045年現代では珍しくもない光景だ。
近年、技術発達によって航空法は大幅に緩和された。交通手段の充実した町中ではその恩恵は微々たるものであったが、彼が住まうような離島においては劇的な変化が訪れたのだ。
かつて限界集落と呼ばれ、若者が住処として選ぶ選択肢に上がるはずもなかった山中の村。船を出すにも採算の合わない、遠く離れた小島。そして近年建造されるようになった、土地不足の起死回生の一手たる人工の浮遊島。
空という新たな交通手段が解禁されたことにより、山岳地帯の多い日本の人口分布は大きく平均化されることとなる。
山や海を超えての通勤、通学は今や珍しくはない。かつては一日がかりで挑まねばならない距離の移動を、技術は『近所』へと変貌させた。
江戸時代において別世界への旅に等しい東京大阪間が、新幹線の出現により僅か2時間半で移動できるようになったように―――そう、世界は更に小さくなったのだ。
人口の局部集中も収まり、少しずつではあったが商店なども進出してきた。
人が集まればそこに仕事が生まれる。大和宅の隣の新築も、そんな流れから引っ越してくるであろう家族だ。
「これも時代かねぇ」
家も完成したとあれば、後は家具の運び込みくらいであろう。ならば小回りの効く輸送ヘリという選択肢も頷ける。
彼の推理を肯定するように、隣の家の敷地に先程のトラックが入ってくる。トラックが楽に駐車出来る広い家を購入出来るのも、近年の利用可能な土地増大の恩恵だ。
引越し業者の者達が、わらわらとトラックから飛び出して荷物を家へと運び込んでいく。
それを見守る部外者数名、彼らが引っ越してきた一家であることはすぐに判った。
「……おー、ガイジンさんだ」
一家の半数が、日本人離れした髪の色をしていた。更に注目すれば、顔つきも異国風である。
ふと、一番小さな人物―――少女が振り返る。
背は高くない、小さいといわれる日本人女性の平均すら下回る。
しかし遠目ではそう感じさせないほどに華奢な四肢がスラリと伸び、陶磁のように真っ白な肌と白に極めて近い金髪は彼女が人形であるかのような錯覚さえ覚えさせる。
「おっっしゃあああああっっ!!」
銀髪の、物凄い美少女であった。
少女が不意に振り返る。
「―――っと、バレたか!?」
慌てて身を低くするも、どうやら周囲の景観を見渡しているだけらしく少女はキョロキョロと周囲に視線を走らせているのみであった。
覗き見していたことに罪悪感を覚え、カーテンを閉める武蔵。そのうちあの中の誰かが引っ越しの挨拶に来るであろうことは容易に想像がつく。
武蔵の両親は単身赴任中。妹の信濃は夕飯の買い物で遅くなると連絡があった。
挨拶が来れば居留守するわけにもいかず、挨拶を出迎えるのは当然彼だ。
なんと出迎えればいいのだろう、と考えつつぼんやりしていると再びローター音。
役目を終えたヘリは、トラックを再び吊り下げて山の向こうへと飛んでいったのであった。
ご挨拶に来たのは、日本人の男性と銀髪の女性であった。
失礼と知りつつも、つい奥さんの銀髪に目がいく。話を聞けば、彼女は生粋の外国生まれらしい。
「娘はハーフですが、日本語も話せます。仲良くしてやって下さい」
「お任せ下さい。お嬢さんのことは俺が必ず幸せにします。永久に」
「はあ……?」
武蔵の妄言を冗談かなにかと解釈した夫婦は、困惑しつつも定番の引っ越し蕎麦を武蔵に渡す。
夫婦が帰った後、貰った土産を開く。奇をてらって実はうどん、ということもなく普通に蕎麦である。
「ただいまお兄ちゃん! お兄ちゃんの信濃、お兄ちゃんの信濃だよ!」
「選挙か」
やがて帰宅した妹と夕食を済ませ、妹と戯れつつ余暇を過ごし就寝の時刻を迎える。
自室に入り、そしてふと思い出した。
「あ、これがあったか」
数時間前に放り投げたスケッチブックを発見した彼は、嘆息と共にカーテンの隙間から星空を仰ぎ見た。
「いっそ真っ黒に塗って、『夜空』だと言い張ろうか」
口にして、それがナイスアイディアに思えた。
全然ナイスアイディアではないのだが、少なくとも彼にはそう思えた。
善は急げとカーテンを完全に開き、彼は目を剥く。
「―――あれは……!」
新築の隣の家の屋根まで、およそ3メートル。そして更に少し離れているが、1階部分の屋根の先には2階の窓がある。
その窓の一つから、煌々と光が漏れていた。
先程の美少女であった。
着替え中であった。
―――インスピレーションであった!
「っ!」
武蔵は咄嗟に部屋の電気を消す。こちらも明かりを点けっぱなしにしていては見付かってしまうかもしれない。
そして彼は、スケッチブックを構えた。長らくキャンパスに向き合い続けてきた画家のように、精悍な横顔であった。
宿題はスケッチであったが、今の彼にとってはどうでもいい。絵の具を用意し、一心不乱に筆を走らせる。
それはあまりに苛烈な戦いであった。負けられぬ決闘であり、死闘であった。
脳裏に焼き付いた光景をひたすらに絵に写し取っていき、深夜0時を過ぎた頃にようやく勝利の時は訪れる。
やがて出来上がったのは、一枚の裸婦画。
それは写真を見紛うほどの、見事な精密画。美大への推薦枠を勝ち取れそうなほどの、凄まじい情報量の絵画であった。
「―――よしっ!」
その出来ばえに満足し、武蔵は今度こそ満足した表情で就寝するのであった。
翌朝、いつものように信濃に置いてきぼりをくらった武蔵は自宅から慌てて飛び出した。
「やれやれですよ。これだから昨今の政治家というやつは!」
寝坊の失態を政治屋に責任転嫁しつつ、武蔵は庭に出て鞄を放り投げる。
鞄を投げたのは、別に彼がトチ狂ったとか憂さ晴らしに鞄に八つ当たりをしたわけではない。
―――きっと魔法なんてものがあるのなら、こういう光景をいうのだろう。ふと、武蔵はそう思った。
高度に発達した科学は魔法と見分けが付かない。広く知られた言葉だが、武蔵の前で起こっている現象は実に魔法的な科学であった。
浮いていた。
鞄が、ふわふわと浮遊していたのだ。
重力という絶対支配に抗う鞄は、熱せられた餅のように、内側よりその本性を顕とした。
各部のロックが外れ、フレームや合成繊維の構造体が次々と鞄らしきものから吐き出されていく。
その光景はあたかも鞄が異次元に繋がっているかのような、不自然な光景。
動力を兼ねるコンプレッサーが鞄に押し込まれた怪物を蘇生させ、莫大な数の電磁弁がバチバチとがなり立てる。
鞄は機械的なオーケストラを奏で、パズルのように、あるいは折り鶴のように形を変えていく。
やがて完成したのは、全長全複3メートルほどの『飛行機』だった。
主翼は三枚。三翼機と呼ばれる、最初期の航空機にのみ見られたデザイン。
見て判るプロペラやエンジンは存在しない。推進器は主翼内にあるのだが、安全の都合上外部からは完全に隠れている。
やたらと小さいが、それでも誰もがイメージする基本的な構造を備えた完璧な『飛行機』であった。
「いつ見ても謎体積だな……折り紙の技法を応用しているんだったっけ?」
もう何度も見ているが、違和感が消えることはない。わけあって近年急激に発達した航空機技術だが、『これ』はその最右翼といえるであろう。飛行機だけに。
武蔵は浮遊スタンバイする愛機、ドイツ製キャリーの『フォッカー』周囲をくるくると見て回る。
飛行前点検。あらゆる航空機の飛行前に義務付けられている、最終チェック過程である。
キャリープレーンは自動車と同じで、本来ほぼメンテナンスフリー。法的にはキャリープレーンも飛行前点検の義務があるのだが、自動車の『日常点検』という乗車前点検がほぼ無視されているように、キャリーもほとんどの利用者は点検などしないしその前提でメーカーも安全係数を確保した上で設計している。
しかし武蔵の愛機は徹底的な軽量化で知られるゼロ戦。このようなデリケートな飛行機のパイロットをしていると、どうしてもその辺は慎重になってしまうのだ。
これは彼の魂にまで染み付いた習性のようなものであり、本格的な航空機のドライバーすべてに共通する本能であった。
とはいえ、超々軽量動力機はまず墜落することはない。それ自体は武蔵も認めるところだ。
トラブルや故障は自己診断機能で飛行前に発覚する。仮に飛行中にトラブルが発生して飛行が維持出来ずとも、滑空して自動着陸する。滑空すら出来ずとも、パラシュートで機体を浮かび上がらせる。パラシュートすら開かなかろうと、射出座席で搭乗者を保護する。
これほどの安全設計だからこそ、航空法の緩和という日本においては異例の措置が取られたのだ。
故に、飛行前点検を行うのは単に武蔵の自己満足。というより、やっておかないと落ち着いて飛べない。
「―――よし、大丈夫」
武蔵は前席に腰を下ろす。
彼の体重にキャリーは若干沈むも、すぐにファンウイングの回転数が上がり高度を維持する。
キャリーという飛行機は着地することはない。勿論地面に置いた程度で壊れるわけではないが、元より着陸装置すら搭載されていないのだ。
縦横3メートルの小型機と侮ることなかれ。この機体の積載量は200キロにも達し、よほど太っている人間でなければ余裕で2人乗れる。
パイロットの存在を認識したコンピューターが、武蔵の周囲に大量の計器を立体映像で表示させた。
小型化の為に物理的な計器の搭載スペースすら削られたキャリープレーンは、やはり最近実用化された立体映像によって飛行に必要な情報を搭乗者へ提供する。近年軽量化が著しいディスプレイすら載せないという設計思想は、超々軽量動力機というジャンルが小型軽量化にどれだけ苦心しているかを如実に表わしているともいえるであろう。
左手のレバーを静かに押し出す。翼のファンが高速で回転、真上に向けての推力を発生させる。
不安定さなどなかった。軽量故に風に煽られれば途端に傾くはずのキャリーは、だが高感度のセンサーによって僅かな傾きも即座に検知され姿勢を水平へと戻す。
『垂直に』浮き上がったフォッカーは屋根の上にまで上昇する。
そしていざ発進せんと意気込んだ時、彼は奇妙なものを発見した。
前方を飛行するキャリープレーン。その挙動は安定せず、右に行ったり左にいったり。
「はわっ、はわわわっ!」
遂には横滑りし、その場で駒のように回り出した。
「フラットスピン、キャリーで再現しようと思ったらむしろ難しいぞ……」
呆れを覚えつつ、武蔵はフラフラと飛ぶキャリーの側までフォッカーを近付ける。
くるくると回るキャリーはアルバトロス、フランス製の単葉機であった。安定性の高さに定評のある、初心者向けの超々軽量動力機だ。
「誰か、誰か止めて下さいー!」
「操縦桿とスロットルから手を離せ! 安全装置が働いて動きが止まる!」
「そーじゅーかんってなんですか!?」
「それくらい常識だろ! お前が握ってるレバーだレバー!」
操縦席に座っていた少女はおっかなびっくりに手を離し、意味もなくバンザイする。
独楽のように回転していたキャリーは、嘘のようにぴたりと止まった。
「だいじょーぶかー?」
「お、お構いなく……助言、感謝します」
自家製ジェットコースターでぐったりしていた少女は、それでも健気にお礼を言った。
武蔵は再度その顔を確認する。遠目で判っていたが、隣に越してきた欧州美少女であった。
「キャリー、慣れてないのか? あ、おはようございます」
「おはようございます。実は引っ越してきたばかりでして、前に住んでいた場所では超々軽量動力機はあまり使っていなかったもので」
地域によってはそれなりに使用されるようになったキャリーだが、そうではない場所も多い。
これはお国柄や技術レベルの上下ということではなく、単に需要の有無が理由だ。発展途上国でも交通機関が発達していない山中などではキャリーは重宝されているし、逆に東京などの大都市ではどこでも離着陸できるわけではなく法規制も厳しいのであまり普及はしていない。
新南部十諸島は大小多くの島からなる地域であり、キャリーがなくてはまず生活できない。
「ライセンスは持ってるんだよな?」
「持ってますとも。ちょおっと調子が悪かっただけです」
再び操縦桿を握る少女。
キャリーは再び進み始めた―――バックに。
「……お前、才能あるよ」
「バカにしているのですか! バカにしていますね!」
武蔵は溜息を吐き、親指で自分の後ろを示した。
「後ろに乗れ。本当に遅刻しちまう」
「えっ? 後ろとは、貴方の後ろですか?」
キャリーはバイクのように二人乗りが可能。とはいえ見知らぬ男性の後部座席に乗るような女性はいない。
武蔵は自己紹介もしていないことをやっと思い出した。
「はじめまして、若葉さん家のアリアちゃん。俺の名前は―――」
名乗り、キャリー操縦の手助けをしたことで多少の信頼を勝ち得た武蔵は美少女を後部座席に乗せることに成功した。
「あ、あの、いいのですか? 私がキャリーの操縦を会得するまで送り迎えをして下さるのはありがたいのですが」
「構いませんよ。困っている女性を見過ごしては日本男児の恥ですから」
きりっ、と顔をキメて頷いて見せる武蔵。
しかし振り向いた顔を前方に戻すと、すぐに素の困惑顔に戻った。
「やばいー! 女の子が、女の子が後ろに、心拍数がー! しまった髪整えてない、寝癖ないか!? 後頭部に俺も知らない10円ハゲないか!?」
女の子に言い寄る光景が多い割に、いざチャンスが巡ってくるとテンパる男であった。
一旦適当な場所に着地して二人で話し合った結果、お互いの家が隣同士ということもありしばらくの間彼女と通学を共にする運びとなる。
いくら彼女が不器用で操縦の適正がなかったとしても、キャリーの操縦など絶対に習得できると武蔵は確信している。それほどまでに扱いやすい航空機なのである。
そもそもが、高齢者なども利用できるように自動操縦機能だって付いているのだ。乗りこなせるかはともかく、使いこなせないはずがない。
「詳しいことを教えてもらうアテはあるのか?」
「ご心配なく、両親はキャリーに乗れるので」
それなら安心だ、と武蔵は安堵した。
彼が真に女たらしであれば、練習の指導者として自らを売り込んでいたであろう。しかし武蔵はびびっていた。
いうほど女性慣れしているわけではないのだ。
「……あの、大和さん」
「ん、武蔵でいいぞ」
「そうなのですか? 日本では親しい相手でなければファーストネームで呼び合うことはないと聞きましたが」
「まあそうだけど。同じ学校に妹がいるんだ、ややこしいから皆下の名前で呼んでる」
これはアリアに下の名前を呼んでもらう為の詭弁ではなく、事実であった。武蔵は信濃と校内でも共にいることが割と多く、共通の知り合いが多い為に名前で呼ばれることが多い。
「わかりました。では武蔵と呼びますね」
アリアは、この時点では相応に武蔵に好感を抱いていた。現時点ではさして変質者的な発言をしておらず、偶然隣の家となった親切な男子生徒であった。
それの認識は数時間後、瓦解する。
転校初日はやはり、転校生にとって重要な日であろう。
第一印象。ある程度は芝居で取り繕えるとはいえ、やはり初対面である人物の人となりを把握するのは邂逅の瞬間である。
「はじめまして。アリア・K・若葉です。お初にお目にかかります!」
黒板の前で堂々と名乗るアリア。日本語が時代がかっているものの、滞りなくはきはきとした口調はクラスメイトにいい印象を与えるには充分な材料だ。
ご都合といわれればそれまでだが、当然の如く同じクラスであった武蔵。彼は彼女の雷間高校デビューが成功したと確信した。
それをぶちこわしたのも武蔵であった。
「よーし、先週の美術の宿題集めるぞー!」
美術の授業が始まり、速やかに回収される各々のスケッチブック。鉛筆で描かれた中に、何故か一人だけフルカラーの裸婦画。
繊細なタッチで描かれたその絵は、謎の光で大事な部分と目元が隠れていたものの個人を特定するには充分であった。
「おい、どういうことだこれは」
「しらんな」
武蔵は誤魔化しきるこころづもりであった。
無謀であった。
美少女転校生アリア。
彼女からの好感度が『少しだけ好印象』から『カースト最底辺豚野郎』にジェットコースターした武蔵は、放課後に部室(仮)にて愚痴を零していた。
「ってわけなんですよー! 理不尽だと思いません? ちょおっとばかし、裸婦画の被写体に自分が似ているからてー! おーぼーですよねこれ、おーぼーだー!」
「うん、武蔵君が犯罪を犯したら、取材に来た報道記者には『彼は幽霊部員でした、私は関係ありません』ってこたえておくわね」
「ガッテム! 先輩なら俺の夢を理解してくれると思ってたのに!」
たった二人の同窓会メンバー。特定の部室があるわけでもなく、あてがわれた教室にて若い男女は無意味に時間を過ごす。
真っ当な部活動を行うつもりは両者共になく、ただ無為に時間を消費していくだけの時間。
だが武蔵は、妙子と過ごすこの時間が嫌いではなかった。
「俺の夢……可愛い奥さんを沢山もらって、ハーレム結婚するという目標に、是非ご協力をぉ!」
「それってつまり、私に武蔵君のお嫁さんになれってことよね? 私を『可愛い奥さん』候補としてくれるのは嬉しいけど、私は武蔵くんのことべつに毛虫以上の存在だと思ってないから」
「毛虫!?」
思ったより低い自分への評価に、愕然とする武蔵であった。
「いや、でも毛虫はやがて美しい蝶となる……先輩、なんだかんだで俺が大成するって信じてくれてるんですね」
「確かに武蔵君は飄々と大物になりそうな気もしなくもないけど。性犯罪者とか、テロリストとか」
「テロリストはひどくないですか?」
「性犯罪の方は否定しないの!?」
武蔵は自分なりにキザなポーズを決め、イケメンボイスにて答える。
「ハーレムを作ろうというのだ―――その程度の誹り、覚悟の上だ」
「さっき武蔵君、自分がいつか美しい蝶になるとか言ってたわね」
「言いましたね」
「武蔵君はきっとマイマイガよ」
【マイマイガ】
ドクガ科に分類される蛾の一種。舞舞蛾の名の由来は、活発に飛び回ることから。
10年に一度ほどの周期で大発生し、一帯の草木を食い尽くす。
研究は行われているものの大発生を防ぐ手法は確立しておらず、人間は妙に存在感溢れるこいつ等を見て震える以外に選択肢はない。見つけ次第殺す? んなもん焼け石に水である。
幼虫時代は弱い毒を持つものの、基本的には人間に直接被害を与えるわけではない。
が、キモイ。ひたすらキモイ。
「やめて! 大発生はトラウマだからヤメテ! マイマイガイヤー! オーマイガー!」
色気もへったくれもない会話をしていると、唐突に教室のドアがノックされた。
顔を見合わせる武蔵と妙子。教室の扉には『空部使用中』の札がかけられており、この部に客人など滅法珍しい出来事であった。
「はあい、どうぞ。どちら様?」
部長の妙子が訊ねると、失礼しますとの掛け声と共に少女が入室してきた。
「んげ」
「なにが、んげ、だ」
やってきたのはアリアであった。
真っ先に武蔵の存在を認め、あからさまに顔を顰める。
「なぜ貴方がここに……」
「なぜって、俺ここの部員だから」
「まじですか」
「マジです」
アリアはやや葛藤し、やがて口を開く。
「キャリーの扱いを、教えて頂けないでしょうか?」
放課後にやってきたアリア。超々軽量動力機の操縦を教えてほしいと請う彼女に、武蔵は首を傾げる。
「教えて貰えるアテがあるんじゃないのかよ?」
「それはまあ。でもクラスメイトの皆さんが、この学校の空部は暇だから教えてもらえばいいと仰っていて」
にゃろう、と誰とも知れぬクラスメイトを武蔵は呪った。
事実暇である。まず間違いなく、全ての部活同好会中最も暇である。
しかし暇であることは、ボランティアを行う理由にはならない―――彼はそう思うのだ。
「ねえねえ、武蔵君。この娘が例の訳有な転校生なのね?」
「はい。欧州の学校でヤンチャして、日本に亡命したアリア・K・若葉さんです」
「ま! 可愛らしい見た目によらず、意外とクレイジーなのね。私は足柄妙子、この学校の2年生よ。よろしくね」
「よろしくお願いします―――変な設定付け加えるなそこ。此度の転校は、普通に親の仕事の都合です」
憮然と否定するアリア。
そして、彼女はついでに質問をすることにする。
「あの、一つお訊ねしても?」
「恋人ならいないぞ。というか、有無に関わらず常時募集中だ」
「そんなことは聞いては……相手がいても尚募集するのですか?」
「俺の人生の目標はハーレムだからな」
アリアはドン引きした。ほぼ初対面の相手を前に、欲望丸出しである。
「この国では一夫多妻は認められていないはずですが……」
「日本では不倫は文化なのよ」
妙子がいらんフォローをする。
「ま、まじですか」
「マジよ。クラスメイトに『この国に不倫は文化、という言葉はありますか』と聞いてごらんなさい。10人中10人が『有るぜよ』と答えるわ」
提案が悪意に満ちていた。
訊ねるなら有無ではなく、各々各人の価値観からそれを肯定するかを問うべきである。
「そ、そうなのですか……もしかして、貴女もこの変態の毒牙に……?」
「その通りだ。彼女は俺の女だ。なあ妙子」
「私に断りもなく、武蔵君の欲望計画に組み込まれていることにビックリしたわ」
「幸せにします」
「ならまず、その甲斐性があることを証明することね」
「あえて言わせて頂きます。ヒモ男は嫌いですか?」
「そりゃあね」
「ストリング?」
なんだかんだで日本語の語録が足りないアリアが、単語の意味を理解出来ず首を傾げる。
「そうではなくて! 質問なのですが―――そもそも空部って、何なのですか?」
そこからかよ、というつっこみは武蔵と妙子間で見事にハモったのであった。
「空部ってのは、文字通り空に関する競技……スカイスポーツ全般を行う部活動よ」
妙子が説明を終えた。
満足げな彼女の表情を見る限り、これで彼女的には説明は終わりであるらしい。
困ったようなアリアの視線に肩を竦め、武蔵は説明を引き付く。
「正しくは航空競技同好会みたいな名前だ。まあ学校や集会によって名称は違うから、あまり拘らなくていい」
「ちょ、武蔵君! 質問は私が受け付けるわ!」
「しっかりものみたいな外見の割に、おとぼけな先輩は黙っていて下さい」
「ま! おとぼけ!?」
テキトーな部分がある妙子に説明を任せては語弊誤解があるかもしれない。
実はこの部活動において書類実務その他諸々も、主に武蔵が請け負っている。実質的に空部を運営しているのは武蔵なのだ。
「先輩は顔とおっぱいが最強なので、それが仕事なんです」
「武蔵君の性根はとっても可愛くないわ」
なんなんだろうこの人達は。
アリアは前途に多大なる不安を覚えた。
「続きを話すぞ。最近は航空法が色々と緩和されている、ってのは知っているか?」
「はい、あちらでもニュース番組でよく言っていました。安全技術の発達で、航空機の取扱の敷居が下がったのでっすよね」
首肯する武蔵。
「技術発展による安全性の向上、それに予算的にも昔と比べてずっとリーズナブルだ。これらの理由から、普通の学生や社会人の間でもスカイスポーツに挑戦する人が多く現れるようになった」
しかしそれはそれで、当然ながら問題が生じる。変化には摩擦が付き物なのだ、それ自体が予定調和であったとしても。
空の無秩序化。一度事故が起きれば大惨事となりかねないのがスカイスポーツであり、知識に乏しい人間が無許可で飛行し、初歩的な事故を起こす事例というのは昔からあった。厳しい航空法によってほぼ消滅したそれが、再び表面化したのである。
正しい知識のある人間が指導する体制の必要性。それが提唱されるのは自然なことであり、すぐに全国で部活や社会人サークルとして、情報共有の場が整備された。
「この雷間高校空部も、そうやって生まれた部活の一つだ」
「なるほど、ではお二人はスカイスポーツの専門家ということで宜しいのですね?」
「部員二人だけ、ここしばらく何ら大会にも参加していない幽霊部活だけれどね」
手をひらひらと振り、廃部寸前っぷりをアピールする妙子。
「では普段は何を?」
「お喋りしたり、デートしたり」
「あれデートだったのか。妙子先輩、大苫地区でお城みたいな可愛らしい建物があったので一緒に行きましょう」
「うん、それラブホかな」
「貴女達にご教授願おうということに、かなり不安を感じ始めたのですが……」
早まったか、とアリアは頭痛を覚えた。
妙子はやおら立ち上がり、自身の豊かな胸をぽよんと拳で叩く。
揺れた。
「キャリーの扱いよね? まっかせて! この妙子先輩が、手とり足とり教えてあげるわ!」
「いえいえ、ここはクラスメイトとしてのよしみで俺が」
「……よろしくお願いします、足柄先輩」
「うふふっ。妙子でいいわ、アリアちゃん」
頭を下げ合い、そしてきゃははうふふと練習スケジュールの調整に移る女子二人。
武蔵は放置プレイされてた。
「それじゃあ、キャリーについての簡単な説明から入るわね。ライセンスをとる時に教わっているでしょうけれど、おさらいってことで」
学校裏に移動する一同。可愛い女の子が大好きな妙子は、妙にはりきりながらアリアに講義していた。
「正式名称は超々軽量動力機。イギリスの会社が開発した、小型飛行機よ。特徴は、鞄サイズから大型乗用車サイズにまで全自動で膨らむことね」
本当の基礎知識だけを告げ、「それじゃあ実技に入りましょう」と宣う妙子の頭を叩く武蔵。
そして彼女の豊かな髪の毛に顔を押し付け、甘い香りを堪能してから武蔵は補足する。
「勘違いされがちだが、折りたたみ式の小型飛行機自体は昔からあった。ただ展開格納が全自動っていうのは、たぶんキャリーが世界初だ」
「ねえ今すっごく自然にえらい変態的なことをされたんだけど」
「飛行機というのは、常に大きな矛盾を孕んでいる」
「武蔵君の言動にも大きな業を孕んでいると思うわ」
「つまり『小さくコンパクトに設計したい』という思想と、『大きく沢山載せられるように設計したい』というものだ」
アリアはきょとんと目を丸くした。
「でもそれって、車でも船でも同じでは?」
その通りである。どんな乗り物でも、サイズは小さく積載量は大きく、というのは共通の要求だ。
「特に飛行機の場合はこれが顕著なんだ。だってそうだろ、飛行機は太く厚くなれば空気の抵抗も大きくなってしまう。同じ体積や重量でも、細いものは空気の抵抗が小さくて、太いものは空気抵抗が大きい」
頷くアリア。知識のない彼女でも、それくらいは直感的に理解する。
「更にいえば、飛行機は翼で浮かぶ乗り物だ。重ければ重いほど、大きな主翼が必要になる」
「まあ、そうでしょうね」
「『翼を含めた機体の寸法』と『大型化による空気抵抗』、これは大型トラックや船舶ではあまり考慮されない飛行機特有の設計上の制限だ」
バスがほぼ体積いっぱいに長方形をしているように、車や船では体積を増やしたければ物理的に許す限り増やせる。しかし飛行機の場合、要求される貨物の重量体積が増えると、加速度的に機体規模まで増えてしまうのだ。
更にいえば、二乗三乗の法則という問題がある。
長さが倍となれば表面積は2乗で増え、体積は3乗で増えていく単純な計算式。飛行機に当てはめれば、機体規模を大きくすれば加速度的に重量も増加していくと言い換えることが出来る。
当然重ければ、空に浮かべることが難しくなる。大型飛行機というのは、その存在そのものが矛盾を突き進む化身である。
「大きくしたい、でも小さく纏めたい。その矛盾した目的を両立すべく考案されたのがキャリープレーンなんだ」
「なのよ!」
「妙子先輩、ちょっと自己主張したいのは判るけど、静かにしててくれないか?」
「むーっ」
怒られた妙子は拗ねてしまった。
「折り畳むことで矛盾を解決しようとした試みは、割と昔からある。でもそれは実用の域に達してはいなかった」
軍用機では主翼を折り畳み、スペースを節約することが可能な艦載機というジャンルも存在する。
しかし、そういった機体が自動車並に気軽に扱えるかと問われれば、当然NOであろう。
「そんな中、キャリーが生活に溶け込むほどに完成度の高い自動折り畳み機構を組み込めたのは……まあ、技術の発展によるもの、としか言いようがないな」
「劇的な新発明とかではなくて、ですか?」
「勿論新発明も組み込まれているよ。でも、それらも同様の機能を有する装置自体はあった。キャリーの動力源である高性能バッテリーだって新発明だけど、電池自体は200年以上前からあったわけだし」
超々軽量動力機は、今世紀となって生み出された多数の発明品の集大成である。
軽量高出力の超電導蓄電地。同素材を採用した小型大出力電動コンプレッサー。炭素繊維を織り込んだ極薄の強化皮膜。ファンウイングによるVTOLすら可能な浮力。そして、それらを統括しアクティブな機体姿勢制御までも行う小型コンピューター。
―――ようするに、とても凄い技術を集めて作った、とても小さな飛行機なのだ。
「とはいえ、高性能な飛行機でもスペックが高いわけではない。あくまで生活の補助として設計されたキャリープレーンは、性能がかなり制限されている。最高速度は時速100キロに制限されているし、天気情報を自動で受信して、危険だと判断すれば運用者の意志を無視して飛行不可能なスリープ状態となっちまう。扱いとしてはあくまで自転車に毛が生えたようなもの、くらいに思っておいてくれ」
「悪天候では飛べないのですか? では、そういう日はどうやって登校すれば?」
「臨時休校になる」
「あ、そっちが合わせるのですか」
交通手段が天候に左右されやすく、嵐の日には町の機能そのものが麻痺してしまう。これもまた、キャリー普及による弊害であった。
「この種子島や新南部十諸島周辺では、キャリーはほとんどどこでも飛んでいい。勿論飛行禁止区域は存在するが、許可を取れば侵入出来るし、うっかり迷い込みそうになってもキャリーのアビオニク……コンピューターが勝手に進路を修正するから大丈夫。ただ気をつけてほしいのは、町中で離着陸をする場合だ」
「町、どこからが町なのでしょう?」
人が集まれば町が出来る。生徒数が減少傾向にある雷間高校周囲にも、相応の商店が存在する。
町と呼ぶには寂しいが、こことて充分に人口密集地だ。しかし生徒達はそこらへんから適当にキャリーで飛び立ち、そして降り立っている。
「詳しい制限についてはキャリーで表示される地図を参照してくれ。あー、俺は持ってきてないから、先輩お願いします」
「私の仕事、キャリーを持参することだけぇ?」
妙子は文句をいいつつ自分のキャリー、ヴィッカースを放り投げる。
またたく間に展開するキャリー。立体映像の地図を表示させ、アリアに示す。
「大苫地区って呼ばれるこのあたりは、種子島で一番発展している地域だ。ここは流石に離着陸制限がされている」
「ほう。ではここに行くには、近くに着地してから自分の足で近付けと?」
「それでも構わないし、場合によってはその方が近い場所もあるだろうけれど……ほら、ここ」
武蔵は地図の上を指差す。
○の中にHが描かれたマーク。いわゆる、ヘリポートである。
「このポイントなら、町中でも離着陸していいことになっている。混み合ってる時でも他のキャリーとデータリンクして自動操縦で離着陸するから、衝突とかは考えなくていい」
「これ……ビルの上?」
「屋上だな」
「町中だとそういう場所が多いわ、キャリーが最近普及したものだから土地の確保が難しいのよ」
発着場は必要だが、わざわざ密集したビルを取り壊して設置するわけにもいかないのである。
「あと、キャリーにも滞空証明っていう車検のようなものがあるわ。一年に一度、キャリーを預けて検査をしてもらうだけだけど……アリアちゃんのキャリーは大丈夫よね?」
「え、ええっと、恥ずかしながら両親にやってもらったので、多分としか……」
「別に恥ずかしがることではないと思うが……メンテナンスやトラブルで何かあれば、適当に相談してくれ。俺に」
「……いえ、プロに見てもらうことにします」
「整備師資格持ってるから俺もプロだっぜ!」
得意げにサムズアップする武蔵。
アリアは冷めた目で確信した。
「不正合格ですね」
「んだとこら」
一通り口頭での説明を終えた妙子は、満足げに頷く。
「運用や法的なことについてはこれくらいかな。それじゃあ、実際に乗ってみましょ」
「了解しました」
促され、アリアは自分のキャリーを展開する。
「アルバトロス。名前の通り長大な主翼を持つ、低速巡航での安定性に定評がある機体ね」
「初心者向けということだったのでこの子にしました」
「まあ気休め程度だけどな。キャリーなんて、上級者向けと銘打たれていてもまず扱いづらいなんてことはない」
携帯電話の機種選びのようなものである。よほどアレな欠陥商品を選ばない限り、要求される性能はほぼほぼ満たしている。
よって、キャリー選びの基準は外見による部分も大きい。
「そう? でも武蔵君のキャリーは前に乗った時、扱いにくいって気がしたけど」
「あれは手が入ってますから。でも安全装置は外してませんよ、ちょっと過激なセッティングになっているだけです」
「アリアちゃん、キャリーの改造は違反だからね。もし武蔵君に何かされた時は、そのことを然るべき場所に通報してやりなさい」
「判りました。さっそく帰ったら電話します」
「俺何もしてないぞ!?」
「えっ?」
「えっ?」
不思議そうに首を傾げ合う武蔵とアリア。
気を取り直し、アリアはアルバトロスに飛び乗る。
「よっと、おわわっ」
「乗る時はこう、お尻から滑り込ませる感じにするのがコツよ」
手こずるアリアに、乗機のコツを実践してみせる妙子。
妙子はいとも簡単に、アルバトロスの後部座席にトスンと締まったお尻を入れる。
「こ、こうですねっ」
アリアも見様見真似で尻をシートに落とす。
「痛っ」
「お前肉付き悪いからな、必要ならシートを柔らかいものに交換するが」
「余計なお世話ですっ! ……でもシートはふわふわのやつがいいです」
「あいよ。今度アルバトロスに載せられるシート調達しとく。面倒だが純正探しとくよ」
アリアは戦慄した。この人、本当に資格を持っているのかよ、と。
「でもま、慣れないと乗りにくいのは判る。なんていうか、ちんさむだよな」
スタンバイ状態のキャリーに載る際、体重をかけると僅かに機体が動く。
別に固定されているわけではないので僅かに沈み込んだり、横にスライドするのだが、その感覚は慣れないとなかなかにおっかないのだ。
お上品な表現を良しとする当作品においてあまり直接的な表現は多用したくはないのだが、つまりタマタマがフワッとするのである。
「乗ったわね? それじゃ、1から焦らずに確認しましょう」
「は、はい!」
妙子は後部座席から身を乗り出し、直接指差しを交えつつ説明する。
「飛行機の操縦なんて単純なものよ。左手のレバーがアクセル兼ブレーキとなる『スロットル』。足にあるペダルが左右に機体を振る為の『ラダーペダル』。飛行機は基本的に、これだけで操れるわ」
「なら右手のレバーはなんですか?」
「飾り」
「飾りじゃねーよ!?」
あまりにも堂々と嘘を吐く妙子に、武蔵は渾身でツッコんだ。
「それは操縦桿、真っ当に飛行機を操縦するにあたって一番大切な場所だ」
「一番大切な場所なのに、説明を省くのですか……」
慄くアリアだが、省くには省くなりに理由がある。
小声で緊急会議を開始した武蔵と妙子。
「話を聞く限り、操縦桿を握らせても返って混乱するだけじゃないかしら」
「まあ、言わんとするところは判りますが」
二人は目と目で僅かに頷き合った。
「飾りよ」
「飾りだ」
「ええっ……」
とにもかくにも、練習してみることにする。
「スロットルを慎重に押し込んで。それで前進するわ」
「りょ、了解なのです」
言われた通り、アリアはスロットルを静かに押し込む。
ゆっくりと前進するアルバトロス。武蔵は徐行飛行するキャリーの隣を歩き着いていく。
「次は曲がってみましょ。右側は校舎だから、左にぐるっと回るの。左のペダルを蹴って」
「えいっ」
蹴って、という言葉通りペダルを蹴り飛ばしたアリア。
アルバトロスはスピンに陥った。
「きゃわー!?」
「ちょ、ペダルから足離して!」
フィギュアスケートのように、くるくると回転するアルバトロス。まるでベ○ブレードである。
アリアは足を離し、ついでに武蔵に教わった通りに両手をバンザイして操縦を手放す。
自動操縦によって機体は即座に安定を取り戻り、静止状態となった。
「あううぅ」
「ど、どういうことなの、キャリーでスピンするなんて……」
目を回すアリアに対し、流石の空部部長たる妙子は突然のメリーゴーランドにも困惑するだけでダメージは受けていない。
「すごいでしょ。俺もびっくりしました」
「ず、ずいばせん……」
「操縦桿の説明を省いたから? ううん、ロールなしでもキャリーなら安定性を失わないはず……」
ぶつぶつと原因を考察する妙子。身体の大きなアホの娘とはいえ、空部部長としてそれなりの知識はある。
突然だが、世界初の動力飛行を成し遂げた飛行機・ライトフライヤー号をご存知だろうか。
このライト兄弟が作り上げた飛行機には多くの技術的注目点が存在するが、その一つが捻り翼という『エルロン』の前身となった装置を装備していることだ。
翼を捻ることで、機体を捻るように傾ける機能。それまで試行錯誤されていた航空機は、この発想によって横風に対応し、また横滑りせずスムーズに旋回運動を行えるようになったのだ。
このように、飛行機にとって必要不可欠なエルロンだが。キャリーの場合、妙子のいう通りこれを意図的に操作せずとも飛行は可能であったりする。
マニュアル操縦で効率的な旋回を行おうと思えば、やはりこれを駆使する必要がある。だがかつてライト兄弟が捻る翼を搭載した最大の理由は横風による墜落防止、つまるところ安定した飛行の為。
コンピューター制御されているキャリーはほっといても安定飛行の為の最低限のフォローが自動で行われる為に、エルロンを操作する右手、操縦桿には触れずとも正常に飛行可能なのである。
だからこそ、妙子は操縦桿の説明を省いた。何も真っ当なパイロットを育てようというわけではない、通学及び私用においての活用に限定されるならば右手を使わずともどうとでもなるのである。
なるはず、だったのである。
「アリアちゃん。このキャリー、違法改造とかしていない? 中古品で、前のオーナーが安全装置外したとか」
「し、新車ですよ。改造なんてしていませんから!」
慌てて否定するアリア。
だがこうなってはお手上げであった。練習の第一段階にすら達せないのだ。
「武蔵君、どうしたらいいと思う?」
「諦めましょう」
「うぐっ」
身も蓋もない降参宣言に、しかしそう判断するに値するヘッポコっぷりな自覚のあるアリアは落ち込むしかない。
しかしそれは早合点である。別に武蔵は、アリアを見切っているわけではない。
「回転翼、固定翼、直線翼、エンテ翼、同じ揚力で飛ぶ航空機でも飛行特性は全然違います。得手不得手ってどうしてもありますしおすし。とりあえず、色々乗ってみてアリアの適正を確認しましょう」
「アルバトロス、レンタルとかじゃなくて購入してしまっているんですけど……」
「別に買い換えろとは言ってない。とにかく感覚を掴むなり代案を用意するなりすればいいさ。なんならキャリー魔改造しようぜ。ジェットエンジンで垂直上昇するキャリーとかカッコよくね?」
「頻繁に垂直離着陸するキャリーに載せたら、あっという間にオーバーヒートしちゃうわよ」
「出力抑えればヘーキヘーキ」
「貴方達が何を言っているのか、まったく解りません」
エンジン史に名を残すゲテモノエンジンはさておき、武蔵は見解を述べる。
「アリアはそもそも体で覚えるタイプ、体感しなければ納得しないタイプなんじゃないかと。とにかく経験値積んでからじゃないと、どうにもにっちもさっちもいかないぶきっちょです」
そう指摘する武蔵だが、むしろ彼と妙子のどちらがその類と類友かといえば、妙子の方がよほど感覚派である。
武蔵はエキセントリックな言動が多く、一見すると妙子の方が落ち着いているように見える。しかし彼女はパイロットとしては才能や感性に頼った部分があり、むしろ武蔵のほうがよほど数値や理論を重視するのだ。
論理派の武蔵だからこそ、アリアが妙子と同類だと気付いた……といえるかもしれない。
「こんな校舎裏じゃなくて、広い場所で色んな機体に乗せてかっ飛ばしましょう。いっちょ気合を入れれば、たぶんハマりますよ」
論理派の彼も、結局のところ根性論な解決法なのだが。その辺は結局、操るのは人間なので仕方がないのである。
「広い場所? でもグラウンドは、真っ当な部活動で使用中よ?」
「この学校の空部が真っ当ではないと、部長自ら認めました」
「例え邪道部でも、空部としての権限や発言力が死んだわけじゃない。たまには空部らしく、申請書を書いてみましょう」
提案しつつ、武蔵は考える。
邪道部って、剣道部の親戚みたいだな、と。
これ以上の練習は危険なだけであると判断し、その日はお開きとなった。
美術授業の宿題関連で武蔵を警戒するようになったアリアだが、自力で帰宅出来ない以上彼の操るキャリーに乗るしかない。
「変なことをしたら、後ろから首を締めて私も死ぬ」
「背面飛行で帰宅してやろうかこのアマ」
ベルトをしているので落下することはないが、長時間の背面飛行に素人のアリアは耐えられない。
そんなことをされては堪らないと、アリアは思わず武蔵の首を締めた。
「お兄ちゃーん! お風呂が空いたよー! 妹の出汁がたっぷりだよー!」
「やったー! とでも言うと思ったかー!?」
出汁が取れているかはともかくとして、妹に続き入浴を終えた武蔵は自室へと戻る。
「あ、どうも」
部屋に何故かアリアがいた。
武蔵は無言でカーテンを捲り、若葉宅を確認する。
若葉宅と大和宅の間にはハシゴがかけられていた。アリアはこれを橋にして、武蔵の部屋へと不法侵入したのだ。
「……夜這いか?」
「ヤバイ? いえ、別にやばくはないですよ?」
日本語を習得しているとはいえ、あまり一般的とはいえない単語までは理解が及ばないアリア。
武蔵は懇切丁寧に夜這いについて説明した。
「日本ではな、夜間に女性が男性の部屋に忍び込むのは、婚約成立という意味を持つんだ」
「マジですか!?」
「ちなみに婚約破棄したら切腹だ」
「……短い人生でした」
「婚約より死を選ぶのか……」
何故か双方がダメージを受けたが、とにかく武蔵はベッドに腰掛けアリアに問う。
「それで、何しに来たんだ? 約束通りパンツ見せてくれるのか?」
「もしかして下着を見せてあげると約束した貴方の記憶の中のアリア・K・若葉は、粒子論的平行世界上の同一個体ではないでしょうか?」
アリアは男児の部屋にやってきたというのに、気負う様子も見せず本棚を漁る。
「……意外でした。学術書ばかりではないですか」
「空部だしな。いい加減な知識では空は飛べない」
本棚ばかりではない。部屋には機械や工具など、航空機に関する物が溢れていた。
「そこまで慎重に技術習得しなくてもいい、そういう時代になったと言ったのは貴方ですよ?」
「キャリーや小型機程度なら、な。だが本格的に将来の仕事として考えるなら、依然としてパイロットは困難な道であることに変わりない」
多くの場面においてメンテナンスなどの義務が軽減されたとはいえ、極限までの安全性を求められる航空機は存在する。
惑星間航行を行う旅客機は事故が発生しようと長時間救援を望めない為、徹底した安全管理を要求される。
性能を重視し先進的な設計を取り入れた軍用機は、かつてと変わりない点検事項をあらゆる手段にて通過してから飛行している。
確かに民間レベルでの航空機は安全な乗り物となった。だが、誰かの命を預かるパイロット達は時代に変わりなくプロフェッショナルであることを求められ続けているのだ。
「将来はパイロットに?」
「ああ―――そうだ。俺は宇宙の航空分野、その最前線にて仕事をしたい。いや、する」
明確な意志の篭った武蔵の瞳。
アリアは初めて、彼に尊敬の念を抱いた。彼の抱く目標は生半可な努力では達せない、挑むだけで足が竦んでしまいそうな過酷な天望だと理解したのだ。
「そして俺は―――沢山の美少女を囲って、ハーレムな人生を送る」
尊敬の念は大気圏外に離脱していった。
「あの、どうしてそんなにハーレムなんて幻想に取り憑かれているのですか? 脳味噌腐敗してます?」
「黙れシュールストレミング」
「あの缶詰の名を出すなああぁぁっ!」
思わず叫んでしまったアリア。当然ながら、声は家中に響き渡る。
【お兄ちゃーん! 何か女の子の声が聞こえたんだけどー! 拉致監禁陵辱中ー?】
隣の部屋の信濃に、武蔵はなんとか誤魔化さんと叫び返す。
「お兄ちゃんが裏声で一人芝居しているだけだから大丈夫だぞー!」
【そっかー! なら大丈夫だね、お兄ちゃんの脳味噌腐敗していること以外はー!】
「お前この部屋に監視カメラとか仕掛けてないだろうな」
きょろきょろと周囲を見渡す武蔵。
壁に穴が空いていた。
「…………。」
「…………テヘペロ」
武蔵は壁の穴にグリスガンを接続し、シャコシャコと取っ手を動かした。
【止めてお兄ちゃん! なんか壁から出てきた! ドロドロしたものがにょろにょろ出てきた!】
「それは俺の白濁液だ」
【白くないよお兄ちゃん……】
「とんでもない兄妹ですね」
アリアはようやく見つけた漫画を読み始める。
しかし数ページ読み進めたものの、すぐに眉間に皺を寄せた。
「画風が美形だったので少女漫画かと思ったら、外人部隊の戦闘機漫画でした」
「お前何しに来たんだよ本当」
「いえ、少しお訊ねしたいことがあって」
漫画から目を離さぬまま、アリアは訊ねる。
「何故、私にキャリーの乗り方を教えてくれるのです?」
「お前が教えろって言ったんだろ」
「私はてっきり、部活の合間にちょいちょいと教えて貰える程度かと思っていました」
教えを請おうと考えが至った時点では、空部がほぼ活動停止状態にあることを知らなかったというのもあるが。
そうでなくとも、図々しく訪ねていった手前、アドバイスを貰えれば御の字だと考えていたのだ。
しかし二人の対応は予想外に丁重であった。暇だったからというのもあるが、だとしても腑に落ちないほどに。
「放課後だけならばともかく、まさか休日までお付き合い頂けるとは」
広い場所での本格的な訓練が必要。そう判断した武蔵は、日曜日に練習を行うことを提案した。
校外の設備を使用しての練習。空部でなくては、こんな書類処理は出来ない。
妙子は予定があるということで、当日は武蔵とアリアのワンツーマンである。アリアは武蔵という男がそこまでお人好しな男であることが意外であった。
赤面し、上目遣いで恐る恐るアリアは確認する。
「それって、し、下心……ですか?」
「自惚れるなちんちくりん。これは嘘だと断言していいが、お前に欲情なんて欠片も抱いてはいない」
「はあ。……え? 今なんと?」
武蔵はバリバリと頭を掻く。
「キャリーは絶対安全、なんて世間では思われているが……専門家の末席として言わせて貰えれば、そんなことはない。正しい運用を行えば墜落する可能性は宝くじ一等より低いが、世の中に正しくない道具の使い方をする奴なんてゴマンといる。堕ちられたら……その、困るんだよ」
ベルトの装着を面倒がり、接続部を常時通電状態に改造してしまう奴がいる。
定められた点検を行わず、機械の安全係数を過信する者がいる。
飛行機より自動車の方がよほど死亡事故は多い、という話があるが―――旅客機のトラブルより、キャリーのトラブルの方がよほど多いのも事実なのだ。
そして、それらは『不適切な使用』という一言で片付けられる。事実その通りなのだから救いがない。
「下手くそでもなんでもいいから、正しい使い方だけは厳守しろ。お前に望むのはそれだけだ」
「……意外と気真面目なのですね」
あんまりな言いようであったが、アリアは反感を覚えることはなかった。
知識のないアリアに多くは理解し得ない。だが、武蔵が真剣に航空機に向き合っている、それはよく判った。
「改めて。日曜日、お願いします」
「いいから帰れ。俺はもう寝る」
窓から蹴り出され、自宅への梯子橋をひょいと渡るアリア。
新築の屋根にたどり着き、隣人の部屋を振り返る。
既に締まったカーテン。あれだけセクハラしてきた癖に、随分とあっさりしたものであった。
「よく解らない男です」
呟きつつ、足元の梯子がぐらぐらと揺れてアリアは慌てて渡り切る。
今度しっかりと釘で打って、梯子を屋根に固定してしまおう。彼女はそんな予定を脳裏のスケジュール表に入れた。
そして休日。
二人がやってきたのは、種子島宇宙港であった。
「なんともまあ、大規模な埋立地ですね」
日本の宇宙への玄関口。種子島と称されるが、その地は本来海面であったはずの埋立地だ。
海上に空港が作られた理由など、今更記すまでもなかろう。人が住まう地域から隔離されているからこそ宇宙港はその機能を24時間フル稼働出来る。宇宙への需要は増すばかりであり、ついで空港の利用者数も半端なものではない。
日本本土からも近く、かつ南方に位置することから周回軌道にも乗りやすいこの島は、火縄銃の時代と変わらず外界との要所で有り続けていた。
「あっ、見て下さい。丁度旅客機が離陸するところですよ」
プラズマの尾を曳き、宇宙往還機が垂直に空を昇っていく。
「あれはどこに行くんでしょうね」
「さてな。地球圏内に行くにしても宇宙コロニー行きにしても、さっさと大気圏から離脱した方が効率がいいから離陸時の航路に大差はないし」
「ああ、それであんなに急上昇するんですか」
宇宙往還機は短時間で見えないほど高空まで至り、あとには軌跡だけが残る。空気抵抗というのは一般人が想像するより大きく、それから解き放たれるべく宇宙機は真っ先に上昇し大気圏脱出を目指すのである。
衛星軌道に乗り地球を回るはずの宇宙ロケットが、打ち上げ直後は真っ直ぐ上昇するのもその為だ。
種子島では珍しくもなんともない光景。しかしアリアにとっては新鮮だったらしく、彼女はしばらくそれを見続けていた。
「Tanegashima Tower, Raikan airplane club Bravo , 10 miles final」
【Raikan airplane club Bravo , Tanegashima Tower, Runway 36, Cleared to Land】
「うわなんかいきなり変な英語話してます」
「おいヨーロッパから来たアリアさんよ。俺の英語の発音に何か文句あんのか」
【日本語で申します。エアバンドで痴話喧嘩垂れ流すなガキ共】
武蔵は慌てて無線機を切り、顔を赤らめつつアリアに振り返る。
「俺達の仲……バレちゃったな」
「あそこにあるの、空母ではないですか? 大きいですねぇ」
「無視すんな。俺がバカみたいだろ」
アリアの指差す先の海上には、確かに空母が浮かんでいた。
「だからあれは空母じゃなくて護衛艦だと……いや違う、あれは確かに航空母艦だな」
アリアが海上自衛隊の護衛艦を空母と誤認しているのかと早とちりした武蔵だが、目を向けるとそこには紛れもなく空母が存在していた。
航空母艦。その名を聞いて、外見をイメージ出来ない者はいないであろう。船の前後まで全てを覆う甲板、武装らしい武装もない異色の軍艦。艦橋と呼ばれる塔だけが甲板上に備え付けられており、それ以外の甲板上活動を阻む障害物は完全に廃されている。
船の上で飛行機を運用しようという無茶な発想を実現すべく、試行錯誤の果てに特異な外見へと進化した船は100年の時を超え空を仰ぎ見ていた。
「あれは航空母艦『赤城』だな。最近サルベージされたと聞いていたが、種子島に来ていたとは」
左側に艦橋がある空母などそう多くはない。その他の情報と照らし合わせれば、おおよその特定は容易だ。
甲板には大きな穴。当時日本海軍最強の名を馳せた一航戦は、急降下爆撃機のたった2発の爆弾で致命傷を受けたのだ。
「進水は1925年。多くの戦闘を経験し、1942年にミッドウェー海戦で雷撃処分。構造的欠陥もあり、英雄的軍艦としては呆気ないほどの最期だったらしい」
赤城の特徴である左側の艦橋、そして甲板に開いた大穴を確認する。
彼女が就航した頃は、未だ航空母艦のノウハウが完成していなかった。その為赤城は幾度か改修され、やや歪な船体形状をしている。
「なんだか、普通の船の上に板を載せたって感じです」
「実際そうなんだから仕方がない。完成していた巡洋戦艦の上を削って、無理矢理甲板を付け足したんだ」
赤城の船体形状を知りたければその名をネット検索にかけるのが一番早いが、あえて文字で表現するならばやはり『戦艦の上に無理矢理甲板を載せた』であろう。
空母にとってどれだけの航空機を載せられるかは重要な性能なので、本来ならば船体部を出来る限り格納庫にしてしまうのが望ましい。しかし元戦艦である赤城は構造的に無駄が多く、その260メートルの巨体の割に積載数が少ないのだ。
「甲板の前の方、柱で無理矢理支えてます」
「あの頃の空母なら珍しい構造ではないが。赤城は運用途中で甲板延長してるしな」
それはもうマジで、無茶に無茶を重ねた船なのである。
「ちょっとあの鉄骨の間、通り抜けて下さい」
「やなこった。つーかキャリーだと安全装置が働いてコンピューターに阻止されるし、普通の軽飛行機なら幅が狭くて翼端が引っかかる」
「でも前に、ゲームで吊橋の間を戦闘機で飛ぶ映像を見ましたよ」
「このゲーム脳め。そういうのはミサイルが無限に打てるゲームだけの中だけにしなさい」
「―――って、あれ?」
アリアは武蔵の言葉に奇妙な点を見つける。
「呆気ない最期って、目の前に浮かんでるじゃないですか」
「いやだから、あれは海から引き上げられたんだ。多くの兵の亡骸と共にな」
「何故今更? 眠らせておけばいいものを」
「奇遇だな、俺もそう思うよ」
赤城を始めとして、世界中の戦没した船が現在積極的に海底より引き上げられつつある。この活動のきっかけは、大陸解体と呼ばれる出来事であった。
とはいえ大陸解体について、この場で多くを語ることはしない。ただ、この出来事の後に武力を持つ無法者が世界に解き放たれてしまった。今や、7つの海に跨り崩壊したハリボテ超大国が残滓、肥大化した統制のない武力勢力が闊歩しているのだ。
直接的な海賊行為を及ぶ者はほぼ殲滅されたものの、未だに無許可のサルベージなどが頻発している。そこで『他人に盗まれて無残に解体されるくらいならば』と、元の所有国が現在必死に歴史的な船を先んじて引き上げているのだ。
もっとも、引き上げた後の扱いは依然として問題のままだ。赤城もまた、解体するべきか展示していくべきか、議論の真っ最中である。
「武蔵はどちらが、船にとって幸せだと思いますか?」
「さてな。見世物になるくらいなら、陸奥鉄として日本人の役に立った方が本人も幸せかもしれんな」
ムツテツ? と不思議な響きに首を傾げるアリアを尻目に、武蔵の操るキャリーは空港の一画へと着地する。
種子島宇宙港の全てが業務目的で稼働しているわけではない。練習生が訓練を行っている区画もあれば、アマチュア飛行家が利用する短距離滑走路などもある。
あるいは模型飛行機を飛ばしたりなど、本当のお遊び区画までも用意されているのだ。武蔵達が訪れたのは、気軽に使えることに定評のある短距離滑走路の区画であった。
「早速練習を始めるぞ」
「はい!」
格納庫を歩く武蔵。それにちょこちょことアリアも着いていく。
個人所有が多い格納庫内の飛行機はやたら多種多用で、珍しい航空機も少なくない。
物珍しそうに並ぶ小型機を見上げて一喜一憂するアリア。
「見て下さい! ゼロ戦ですよ!」
「あれは隼だ。まあ素人目には似ているかもな」
「あっちにもゼロ戦が!」
「あれはテキサンって練習機だ。シルエットは似ているがアメリカ製だぞ」
「それは日の丸が付いているので、ゼロ戦で間違いありませんね!」
「閃電のレプリカだ! 全然形違うじゃねーか!」
母親がテレビゲームを全てファミコンと呼ぶように、アリアもまたプロペラ機を全てゼロ戦と認識するタイプであった。
「じゃあなんだ、アレもお前にとってはゼロ戦なのか?」
流体力学の発達によって高速低燃費巡航に対応し、航空業界に復権したプロペラ旅客機を指差して武蔵は訊ねる。
アリアは冷めた目で答えた。
「あれがゼロ戦? 何言ってんですか? バカですか?」
「コイツ……」
「チョーウケる、こいつ等さっきの痴話喧嘩してた奴じゃね?」
「早くも破局寸前ってカンジー?」
第三者から声をかけられ、二人してぎょっとそちらに目を向ける。そこに立っていたのは、いかにもチャラい男女。
彼らは武蔵とアリアが本格的に喧嘩を始めたと見て、とりあえず嘲笑うことにした暇人であった。
「なんなのですか、貴方達は」
「素人はキャリーで遊覧飛行ごっこしていろよ、俺達はこいつで成層圏のデートだぜ」
そういって男は後ろ手に航空機の外板を叩く。
真っ白な小型機。標準的な外見のジェット機だが、その機体が最新鋭機であることを武蔵は知っている。
「凰花か。金持ちめ」
「そうだ。お前達みたいな貧乏人とは違うんだよ」
「死ねよ」
「そ、そこまで言うかよ……」
あまりに直球な罵倒にチャラ男もたじろぐ。
武蔵が凰花と呼んだ航空機。最大3人乗りのこの小型機は、単なるレジャー用飛行機ではない。
外見は強いていえば、小さなスペースシャトルというべきか。最新鋭と呼ぶ割に古く単純な構造を積極的に採用し、機材も民生品を多く流用することで価格の高騰を抑えた汎用小型宇宙艇だ。
この機の開発経緯は特殊である。『特定条件をクリアした民間製造機開発者に高額賞金を送る』というコンテストをある財団が発表したのだが、幾つかに分かれていた一つ一つが国営機関でも困難な課題、それら全てをこの凰花1機が尽く達成してしまったのだ。
他のチームが液体ロケットエンジンか固形ロケットエンジンで宇宙へ挑む中、凰花の開発者は当時誰も研究すらしていなかった新開発のリニアエンジンを実用化、小型機に搭載してみせた。
『同一の機体を使用し、1週間以内に2度宇宙へ到達する』―――安価な再利用可能宇宙船を目標として掲げられたこの達成条件を、こともあろうか凰花は『1度宇宙に到達し、その後地上に戻って再補給せずにタッチアンドゴー、そのまま離陸し再度宇宙へ到達する』という出鱈目な方法でクリアしてしまったのである。
その後、凰花は紆余曲折の果てに量産化され、その単純故に頑丈な機体設計を活かし実験機から軍用、そして民間機としても幅広く利用されている。
しかし価格を抑えたといっても、仮にも宇宙まで行ける高性能機。購入維持にはそれなりの資金力を必要とし、それを個人所有しているというのは彼がこれをクリアし得る立場であると証明していた。
「お前ら貧乏人は見るのも初めてじゃないか?」
「いや別に」
ぶっちゃけ凰花の開発者はハカセである。
『ハカセ』がリニアエンジンを開発した際に、新規設計で1から作り上げた実験機。それを量産したのが凰花だ。
武蔵のバイト先の店長は、割とチートであった。
「ふん、せいぜい低空を這って飛んでろ」
「匍匐飛行舐めんな」
チャラチャラなカップルは因縁を付けるのにも飽きたのか、鼻を鳴らして踵を返す。
二人が乗った凰花は滑走路まで自走し、そのまま離陸していった。
「何なのですかあれは!」
憮然と眉を吊り上げるアリア。武蔵は女性をエスコートするのも男児の役割と気合を入れ、精一杯の慰めの言葉を送る。
「そうカッカするなよ。可愛い顔が台無しだぜ」
「武蔵……」
「お前は顔だけは美少女だからな。あいつにも、男のプライドとか色々あったんだろうさ」
「顔だけとは何です、顔だけとは。これでもスタイルも悪くないつもりですよ」
「あのな、スタイルがいいのと肉付きが悪いのは違うんだぞ?」
「クケーッ!」
アリアはニワトリに進化した。
「というかあの飛行機、宇宙機という割に急上昇しないのですね」
「連れの女性が加速の重圧に耐えきれないから気遣っている―――いや、単によく判ってないだけだな」
「どうしてそう思うのです?」
「挙動がもたついている」
「ああ、ちょっと迷ってラダー蹴った感ありましたね」
武蔵はアリアの顔をジロジロを見た。
「な、なんですか。私の顔に何か付いてますか」
「―――アリア? アリアじゃないか! ほら、俺だよ! 昔、隣に住んでた武蔵だ! 結婚の約束をした!」
「唐突に変な設定生えましたね」
「バカなこと言ってないで行くぞ」
「バカなこと言ったのは貴方ではありませんか!」
武蔵はアリアを置いて歩き出し、眉間に皺を寄せて唸る。
「……確かに下手な奴が意味もなくラダー蹴っちまうのはよくあることだ、だがそれを外から見て看破するのはある程度の慣れが必要なはずだが……」
「ブツブツと、何を言っているのです?」
「……なんでもない。着いたぞ」
格納庫内でも特に混沌とした場所に辿り着く。武蔵が手配し、事前に用意した飛行機達である。
「とにかく実践だ。幾つか飛行機を持ち込んでおいたから、手当り次第に乗ってみる」
形も色も様々な航空機。中には回転翼機も存在する。
「ヘリコプター?」
「オートジャイロだ。こう見えて、動きは固定翼……お前が普通に思い浮かべる飛行機に近い。空中停止はできないからな」
ものによっては可能だが、武蔵が持ち込んだ機体にそんな機能はなかった。
「さあ、どれからがいい?」
「あの、私こんな本格的な飛行機に乗れる免許は持っていないのですが」
「俺も乗るから大丈夫だ。仮免許みたいなものは申請してあるし、離着陸や危ない状況でのリカバリーは俺がやる」
出来ることは制限されるが、軽飛行機の操縦桿を握る敷居は意外と低い。
武蔵は空部で多くの経験を積み、その手の書類を準備するのも慣れていた。
「そもそも、これだけの飛行機をどこから持ってきたのですか? まさか私物?」
「私物には違いないけど、俺のじゃない。バイト先の店長のだ」
「それはまた、好事家なのですね。じゃあ……この子からいきます」
「あえてまずそれを選ぶのな。まあいいけど」
アリアが指差したのは、マイルズ社のエンテ翼機、リベルラであった。
意外というべきか、各種機体でのテスト飛行ではおおよそ問題ない操縦が可能という結論に達した。
「素人にしちゃあ及第点―――いや、むしろ筋がいい。操縦桿に関しても飲み込みが早い」
如何なる理屈か、アリアの操縦はキャリーの場合と比べ遥かに上等なものであった。こんなことなら下手に簡略せず、1から教えるべきだったかと武蔵は教育方針の是非を考え直す。
「軽飛行機に関しては存外筋が良かった。キャリーだとダメってことか? むーっ……」
もしやコツを掴んだのではないかと考えて再度キャリーに乗せてもみたのだが、やはりマトモな挙動はしなかった。
従来の飛行機では乗れるのに、キャリーには乗れないのだ。軽飛行機と軽動力機の差異は大きいが、その中でも武蔵は操縦に関わるある装置に注目した。
一度地上へ戻り、格納庫にて推測を説明する。
「キャリーは高度なコンピューター制御によって安定飛行している。それはいいな?」
「はい。コンピューターによる補正がなければ、風などの影響を受けてとても真っ直ぐ飛べない……でしたか」
「そうだ。何せ軽いからな、簡単に風に煽られる。だから風を受けた瞬間にセンサーで感知して、即座に元の姿勢に戻すシステムが組み込まれているんだ」
武蔵が用意した飛行機はハカセの趣味もあり、コンピューター非搭載の旧式機ばかりであった。近年では当たり前な、操縦入力と出力の間にコンピューター制御を介する装置を搭載していないのだ。
こういった機体は特定の条件が揃うと操縦者の意図しない動きをしてしまう場合があり、そもそもそういった状況に陥らないようにコンピューターが操縦を監視しているとも言える。しっかりとした知識のない人間が乗るには危なっかしいのだが、そこは武蔵がフォローしていた。
双方の操縦感覚に違いなどない。ないのだが、それでもやはり違うと感じることもある。
「運転手の意に反して動くなんて、変な感じです」
「こういった制御にコンピューターを噛ませる方式を『フライ・バイ・ワイヤ』や『フライ・バイ・ライト』などと呼ぶんだが……まあそれは置いといて。人によっては、この補助で違和感を感じることがあるんだ」
自動車の話だが、初期のパワーステアリングではハンドリングに違和感が残ったように、フライ・バイ・ワイヤにおいても未熟な技術を使用している際に違和感が残る場合があった。
既に実用化されて久しく、成熟した技術なのでそういった事例はほとんどないが、キャリーほど軽量な機体の場合はどうしてもブレが大きくなる。そのことを、武蔵は今までの経験から知っていた。
「そういったパイロットの操縦と実際の飛行動作、その差異がお前を混乱させているんじゃないかと俺は仮説を立てた」
「すいません、さっぱり解りません」
「そうだな、自分で言っててよく解らん」
「はい?」
困ったように、武蔵は溜息を吐いた。
「あの、そのフライバイナントカをキャリーから外せばいいのでは? さっきまで乗ってたセスナには搭載されていないのですよね?」
「さっき乗った飛行機に『セスナ』も『セスナ機』もない件!」
若干世間で勘違いされている気があるが、『セスナ』はある一機種を指す登録商標、固有名詞である。
小型飛行機全般をセスナ機呼ばわりしたところでいちいち突っ込むほど武蔵も几帳面ではないが、ハカセのマニアックな趣味なラインナップにはお世辞にもセスナ機呼ばわりすべき普遍的軽飛行機は存在していなかった。
「キャリーは乗用車と同じだ。改造すれば法律違反、まして安全装置を外せってことだぞ?」
「危なくて飛べないということですか」
「俺だって、軽量なキャリーを補助なしで飛ぶなんてことはしたくはない。せめて1トン以上ないと、軽飛行機は安定して飛べは……ん?」
いや待て、と武蔵は考え直す。
キャリープレーン、超々軽量動力機としては違反。しかし、通常の小型飛行機として登録すれば可能ではないか?
法律の要項を思い返し、照らし合わせ。それが決して不可能ではないという結論に至る。
「自家用操縦士免許を取れば、ちょっとくらい改造したキャリーでも合法的に乗れなくもないな」
色々と屁理屈が必要だが、キャリーと同じ運用も不可能ではない。そうやって少し真面目に検証したところで、武蔵は我に返った。
「いやいやいや、キャリーの為に小型機ライセンス取るとか本末転倒だろ。マトモなキャリーの動かし方を覚える方がずっと手軽だ。つーか自動操縦使えばいい」
そもそも、アリアがキャリーに乗れない理由がフライバイワイヤのせいであるという確証もない。
「たまにお前みたいな才能の欠片もない下手くそはいるもんだが、そういう輩は総じて理屈を超越した不器用さを発露するものなんだな」
「少し言い過ぎだと、貴方自身罪悪感の一つも感じないものですか?」
「というわけで、最後にこの複葉機に乗ってもらう」
武蔵はそう言って、橙色の飛行機の前に立った。
「これは……ゼロ戦?」
「いや複葉機だっつってんだろ。これは九三式中間練習機、通称『赤とんぼ』だ」
「オレンジ色ですが」
「そこはスルーしろ」
オレンジだが赤とんぼなのである。そういうものなのである。
「こいつは110年前の機体だが、アビオニクスは新調されているから充分練習機として使える。それでいて舵は全て機械式だ、これならお前でも扱えるだろう……たぶん」
九三式中間練習機。旧日本軍において練習機として運用された、二枚重ねの主翼を有する飛行機だ。
練習機の常として素直で扱いやすい機体特性を有した、オレンジ色の飛行機。その素性の良さは、練習機以外の用途にも転用されていたことからも明らかであろう。
「アビオニクスって何ですか?」
「『Aviation』と『Electronics』を組み合わせた単語だ。よく使うから、これくらいは覚えておけ」
「んー、航空電子機器、ですか」
「……まあ、そうだな」
英単語でさえあれば、アリアは直訳して大凡の意味を推して知ることができる。
武蔵はずるいと思った。英語はパイロットを志す者にとっての鬼門なのだ。
「でも、航空機に搭載された電子機器なんて沢山あるのでは?」
「そりゃあな。ぶっちゃけ定義は曖昧で、単語としては航空機に載せる電子機器全てがこれに含まれる可能性がある。あまり具体的な単語じゃない」
先程から話題に上がっているフライ・バイ・ワイヤは勿論だが、初歩的な無線機や乗客用のオーディオ機材までもをこれに含むことがある。そもそも電子機器を組み込んでいない道具など今時ほとんどなく、どこからがアビオニクスなのかは意見の別れるところだ。
「赤とんぼ、でしたか。いままでのヘンテコな飛行機と比べると、とても真っ当な形状ですね」
「ああ。この標準的なレイアウトな機体でも乗りこなせるようなら、問題は操縦補助の差異による違和感と断定してもいいはずだ。その場合は……解決法については後で考える。しばらくは自動操縦で我慢しろ」
武蔵としては、出来ればキャリーを改造し小型機として再登録するなどしたくはなかった。面倒くさい。
「つーか、お前が日本に来る時に乗ったスペースシップナイトだって充分ヘンテコな形だったろう。今時単純な直線翼の方が珍しいくらいだ」
「あの往還旅客機のことですか? ヘンテコだからあんなことになったのでしょうか」
「スペースシップナイトはあれで枯れた技術の結晶だ、信頼性は高い。あの事故は外的要因によるものだ」
「―――あれ、何故私が日本に来た時のことをご存知なのです?」
「いいから乗れ。前の席だぞ」
ぐいぐいとアリアの背を押して座席に押し込む武蔵。
「あの、今度は一人で乗ってみたいのですが」
「ダメに決まってるだろ。ちょっと上手く乗れたからって調子に乗るな。結婚する?」
武蔵は即答した。
飛行機の単独飛行は、ある意味での登竜門。決められた時間、孤独な飛行に耐え抜いて初めて免許を与えられるのである。
「飛行機を空で飛ばすことなんて誰でも出来る。一番難しいのは離着陸だ」
しばらく赤とんぼで飛んでみたところ、やはりアリアは条件次第ではごく普通に飛行機の操縦が可能という結論に至った。
空の上であっても雑談する程度の余裕も出てきたアリアは、なんとなしに武蔵に話しかける。
「窓がない飛行機っていいですね。風は寒いですが、空を飛んでいるという感じがします」
「窓……ああ、風防か。そうだな、おまけに速度も解りやすい」
「いや速度計見ればいいでしょうそこは」
「昔の飛行機は速度計が適当でな、あまりにアテにならないから『自分で風を感じて測った方がマシ』と言われていたんだ」
「この飛行機大丈夫なんですか!?」
「ダイジョーブダイジョーブ、エンジンは骨董品の天風一一型、しかもサバイバーでひょっとしたらいきなり止まるかもだけど、ダイジョーブ」
「なにをどう安心しろと! あ、そういえば飛行機ってエンジン止まっても滑空して安全に着地出来るのでしたよね。なら確かに安全ですね」
「戦前の飛行機にそんな設計思想が組み込まれているわけないだろ。100年前の飛行機だぞ」
「降ろしてー! 降ろして下ざいー!」
操縦桿を左右に揺らし、翼を振るバンクと呼ばれる挙動にて抗議の意を示すアリア。
何気に使いこなしてるんじゃねぇよ、と呆れながらも、武蔵は彼女に飛行機の適正がまったくないわけではないことを再度確信した。
「おおよそ解った、これからどうするかは地面で考えるとして、とりあえずRTBだ」
「アールティービー?」
「Return to base、やることやったから帰ろうぜって意味だよ」
「日本語で言って下さい面倒くさい」
「お前の母国語英語だよな? ほれ、I have control」
「ゆ、You have control!」
武蔵はアリアから操縦を引き継ぎ、普段の言動に似合わぬ優雅な曲線を描いて旋回する。
蒼い空を、コンパスで引いたように軽やかに滑る赤とんぼ。素人のアリアからしても、それが自分の操縦とは一線を画する高度な技だと判った。
「顔に似合わず、丁寧な操縦ですね武蔵は」
「顔通りだろうが。俺の優美な顔が見えないのか」
「はっ」
アリアは鼻で嗤った。
「はっ」
「なんで二回嗤ったの? ねえなんで?」
そんなやりとりの後。
武蔵は、突如90度ロールして操縦桿を思い切り引いた。
急旋回する赤とんぼ。アリアの身体にも地上の数倍の重圧がかかり、悲鳴を上げる。
「はぐぅっ!? っ、な、何をするのです!」
「それは俺の台詞だ! 管制塔も何してやがった!?」
直後、赤とんぼを飛行していた場所を白い閃光が通り抜ける。
「ニアミス!」
ニアミス―――空中接触の危険が伴うほどの、航空機同士の異常接近。背後上空より迫る小型機を察知した武蔵は、アリアに断りを入れる間もなく回避行動を行ったのだ。
それは結果として正解であった。衝突していたかは不明ながらも、それに極めて近い航路を不明小型機は通過していった。
「あれ、さっきの二人の飛行機では!?」
アリアが指摘し、武蔵も続いて確認する。
確かにその機体は、練習を開始する前に武蔵達を茶化してきた男女の搭乗する凰花であった。
「あれは―――オートパイロット?」
一目で彼の機が人間の操縦から手放されていることを看破する武蔵。
降下し続ける凰花を追い並走することで、更なる観察を続行する。
「見て下さい。前の座席に座っている人がぐったりしています!」
「そうみたいだな。理由は判らんが」
心臓発作、機体から漏れたガスによる中毒、物理的なダメージによる意識の喪失。可能性は多々有るものの、それは今は重要ではない。
問題は目の前を手放しで飛行する凰花をどうするかだ。
「そこのクソカップル! 聞こえるか、応答しろ!」
無線機で通信を試みるも、後部座席に乗る女性は武蔵達に必死に手を振ってアピールするだけで、通信による返答はない。
「無線機の使い方を教わっていないようですね」
「ざけんな!」
通信が可能ならばまだ望みはあったものの、これでは自動操縦に切り替えての着地も行えない。
どうしたものかと悩んでいると、女性は突如キャノピーを開けた。
「脱出する気か」
「男の人を見捨てて!」
「二人共倒れよりはマシだ、判断としては賢明だろう。―――って、パラシュート背負ってないぞ!?」
まさか、と目を疑う武蔵だが。
女性はこともあろうか、丸腰のまま空へとその身を投げたのだった。
「バカ、何を考えているんだ!」
「下は海ですから、死にはしないのでは?」
「死ぬわ! 時速数百キロで叩き付けられたら、海面もコンクリートと大差ない!」
どうすべきか、悩んだのは一瞬だった。
「無線で指示する、それまで空中待機していろ!」
「へっ? あの、ええっ!?」
ハーネスを外し空に飛び降りる武蔵。
赤とんぼには自動離着陸機能が追加されている。それを操作するくらいならば、アリアでも充分可能。
よって、武蔵は女性を追うことを選んだ。今打てる手の中で、最も確実に人命を救う選択を選んだのだ。
ほぼ自由落下するのみの女性とは違い、正式な訓練を受けている武蔵はすぐに彼女へと追い付く。そしてパラシュートのベルトを女性に固定し、予備傘を開いた。
急激に減速する武蔵と女性。小さな予備傘、しかも二人分の重量から減速速度は小さく、それなりの速度で海中に突っ込む。
武蔵はすぐさま女性の後ろに周り込み、羽交い締めにする形で行動を制した。
「コントロール、エマーンジェシー! 当方の救助を求む!」
【こちらコントロール、状況は把握している。既に当空港常駐の特殊救難隊をそちらへ急行させた。それより―――】
「何か? いや、これは暴れて溺れないようにであって、別に胸に触っているわけではないからな!」
【そうではなく、君が搭乗していた九三式練習機は何をしているのだ?】
言われ、武蔵はアリアが単独飛行させる練習機へと目を向ける。
赤とんぼは変わらず、制御を失った凰花と共に飛行していた。だが、その距離は先程よりずっと近付いている。
カツン、と翼端が接触する。2機が大きく姿勢を崩すのが、海上からでも判った。
「バカ、何をしているんだ! すぐに離れろ!」
再度空中接触をする2機。
【でもっ、このまま降下していったら、この人死んじゃいますよ!?】
「だからなんだ! お前が気に病むことじゃない! お前が背負うべき責任じゃないだろ!」
【それを、飛び降りて女性を助けた貴方が言いますか!】
「俺にはそれが出来る、お前にはそれが出来ない。それだけだ! 言ったはずだ、自惚れるなと!」
【でも、でもっ―――!】
アリアは未熟であった。それは勇気というよりは、無謀に近い下策でしかなかった。
それでも、彼女なりに挟持があった。ひよっこにも劣るパイロットは、先人の行動を見習ってしまったのだ。
【な、なんだっ!? ぎゃああっ! 落ちてる、墜落する!】
何度かの接触、その衝撃で男が目を醒ます。
アリアの試みは適切ではなかったが、それでも一つの人命を救う結果となったのだ。
飛行機が自機の状況を把握出来ない場合は、とにかく高度を上げて時間を稼ぐべし。その心得に従い、凰花は寸前まで迫った海面から逃れるべく上昇する。
【良かった】
安堵するアリア。武蔵が怒声を上げた。
「良くない! 前を見ろ、いやさっさと上昇しろ!」
指摘され、前方を確認するアリア。
そこには巨大な鉄が横たわっていた。海上に鎮座する横倒しとなったビルが如き、巨大構造物。
空母赤城。赤とんぼの進路上に、全長260メートルの壁として彼女は存在していた。
「ああっ、くそ!」
もう駄目だ、と武蔵は思った。
旋回性能に優れる赤とんぼといえど、あれほど目前に迫った障害物を避けきれるわけがない。上昇は間に合わず、下降すれば海に叩き付けられ分解。左右に避けても船尾か船首に衝突する。
脱出するにも、パラシュートを開くにはそれなりの高度が必要。それほどの高さはもう失われていた。
彼の脳裏に諦念が過る。
されど、アリアは諦めてなどいなかった。
機体を大きく傾け、船首へと向かって旋回。
しかしそれでは間に合わないことは明白。だが、アリアの行動は武蔵の予想の更に上をいっていた。
エルロンを開き、更にロールする。その角度は90度、完全な横倒しとなる。
主翼の揚力が喪失するも、ラダーを蹴り機体を上向きにすることで高度を保つ。翼を縦に持ち上げたままに、赤とんぼは赤城の船首へと突入した。
赤城船首、4本鉄柱の間。
僅か10メートルほどの隙間に、九三式中等練習機をねじ込んだのだ。
「―――ナイフエッジ、だと!?」
そのまま、何事もなかったかのように姿勢を戻す赤とんぼ。
武蔵は信じ難い気分だった。ナイフエッジ、機体を90度横に倒して真っ直ぐ飛行するそれは―――シンプルな見た目とは裏腹に、高い技術を要求される高等技能なのだ。
当然だが、飛行機は水平を基本として飛ぶように設計されている。
重心も、操縦系も、全て水平であることを前提としている。ナイフエッジはそれら設計者の意図を完全に無視した、極めて不自然な飛行方法。
縦となった主翼はただのデットウェイト、空気抵抗となる。それだけではなく横方向への不要な揚力を発生させ、機体を意図しない方向へと持ち上げようとさえする。
エレベーターはラダーに、ラダーはエレベーターへと変貌。揚力が失われた分を、機体そのものを主翼とすることで補わねばならない。
プロペラ機―――特に赤とんぼのような非力な飛行機ならば、揚力を強引に稼ぐことから徐々に速度が落ちていく。それに伴い少しずつ機体角度を調節し、一定の高度を保ち続ける。
単純な割に、逐次変化していく状況を四肢全てを駆使し御し続けなければならない。アリアが行ったのは、そういう技術に他ならなかった。
「ありえない、ライセンスも持っていない、キャリーにすらまともに乗れない奴が―――!?」
そこに唐突に―――むしろ自然な流れだが、武蔵にとっては現実に強引に引き戻されるような感覚を伴いながら無線通信が入る。
「……アリア?」
恐る恐る応答する武蔵。
【今の凄くなかったですか! 褒めてくれてもいいのですよ!】
自分の成したことをいい意味でも悪い意味でも理解していないアリアの声に、武蔵の頭が一気に冷えた。
「……とりあえず自動着陸の切り替えを教える。お前、あとでお説教な」
【そんな!】
「ああ、救助が来たからちょっと待て」
武蔵は救助隊のボートに乗り込みつつ、空を見上げる。
空を旋回待機するオレンジ色の練習機。やはり、その飛び方はお世辞にも上手くはない。
だが、彼女はナイフエッジをやってみせた。ほぼゼロ高度でのナイフエッジなど、武蔵ですら御免こうむる危険な行為だ。
「単にビギナーズラックか。それとも―――」
あるいは、彼女は―――『そういう人種』なのかもしれない。
武蔵とは極対にある、道理や理屈を飛び越えていく種類の人間。武蔵が憧れ、そして打倒してきた存在。
「ま、いいか」
彼女はキャリー操縦の習得の為に、一時的に空部を訪れたに過ぎない。
彼女がエアレースの世界に飛び込んでくることなどない。そう判っていたからこそ、武蔵は平静をすぐに取り戻した。
「アリアのお説教して、関係各所への謝罪行脚して、ああそれと自動操縦の操作方法も教えとこう。まだまだマニュアル操縦は無理そうだし」
とんだ休日になったな、と溜息を吐く武蔵。嘆いていても仕方がないと、気をなんとか持ち直す。
とりあえずは―――アリアを迎えに行くべく、空港へ戻ろう。武蔵はそう予定を立てたのであった。
それから数日後。
空部宛の入部届けを持参したアリアに対し、武蔵は「ニホンゴサッパリネー」と誤魔化すことで事なきを得るのであった。
「Please put me in the sky club.」
何の事も得ていなかった。
登場機体紹介
凰花
世界初のリニアエンジン搭載機。リニアエンジンは酸化剤を必要としない一種のロケットエンジンだが、従来の宇宙ロケットを超越する性能から既存の宇宙技術をほぼ駆逐してしまった困ったちゃん。
いろいろと配慮した結果「桜」という字の使用は見送ったが、作者は日本製の飛行機に桜という漢字が使えないのはなんだかなぁと思っている。
赤とんぼ(九三式中間練習機)
日本軍が使用していた練習機。作中の機体はアビオニクスを更新しているものの、エンジン周りはほぼオリジナルな逸品。
エンジンスターターすら追加装備はされておらず、武蔵がヒーヒー言いつつイナーシャーを回すシーンがあったものの結局カットした。男がヒーヒー言っててもつまらん。
なお、赤とんぼと呼ばれる機体は複数存在するので注意すべし。
マイルズ リベルラ
すごく……イギリスです
航空母艦 赤城
色々あってサルベージされた、日本海軍を代表する巨大空母。
その巨体の割に、色々と使い勝手の悪い空母だったようである。
最期は敵の急降下爆撃によって、2発の爆弾であっさりと大破してしまった。慢心だめ、絶対。
ちなみに作者は最近、慢心で嫁を沈めた。無能。