差し出せるのは、この右手。
先日、前の仕事で一緒に働いていた友人の引越しの手伝いに出向いた。引越し先は今住んでいる所から数分程歩いたワンルームのマンション。
彼女は小さな荷物や家具はちまちまと仕事先から借りた台車で運び、台車では運べない荷物を私の車に乗せて運んだ。
テレビ、衣装ケース、本棚……、その部屋で彼女と過ごした荷物を淡々と運んでいく。6往復程で彼女が住んでいたほぼ部屋は空っぽになり、新しく住む部屋は荷物でいっぱいになった。
「冷蔵庫はココ」
「この棚はこっちの方がいいんじゃない?」
「服、そこにかけちゃいなよ」
新しい部屋はワンルームながらも小さいカウンターキッチンと高いロッジ付きの日当たりの良いアパートの二階で、部屋に荷物を運ぶ度に「ここに何を置くか」と話し合いながら部屋を出たり入ったりを繰り返す。
友人の引越しの手伝いなんてはじめてのことで彼女と共に過ごした家具や衣類を新しい場所に運ぶのは新鮮な気分でなかなか楽しかった。
一通り荷物を運び終わった後、少し休憩と温かいジュースと肉まんを近くのコンビニで買ってきて荷物がいっぱいな部屋にこたつを敷いて二人で食べる。
テレビが映りが悪いという彼女からリモコンを借りて、肉まんを頬張りながらチャンネルの設定をする私に、ふと彼女が問い掛ける。
「そういえば……、姫子さんって覚えてますか?」
姫子さん、前の仕事先で一緒に仕事をしていた女性だ。
ふくよかな体型で、少し神経質な所があり精神的なバランスが良いとは言いがたいが、飼っているインコをとても大切に育てている根は優しい女性だったのをよく覚えている。
確か、歳は私より7、8歳上だったはずだ。私が仕事を辞める前に転勤していてそれ以来会っていない。
「覚えてるよ、どうしたの?」
相変わらず肉まんを口に突っ込み、リモコンを操作しながら彼女に聞き返す。
彼女も肉まんをかじりながら、普通の世間話しを続ける。
「こないだ少しやかっかいなお客さんが来て、姫子さんのお店に行って貰ったんですけど……その後、姫子さんからうちの店に電話があって凄く丁寧に接客してくださったみたいなんです」
「へぇ」
肉まんをお茶で流しこみながら、私も何の気無しにその話しを聞く。
「電話の声も穏やかで、最初だれだか解らなかったんですよ、名前言われてもピンとこなくて」
それはそうだろう、姫子の苗字はありがちな苗字だし、彼女はたいていイライラしてる雰囲気を出していた、電話越しで話しいてもそれは伝わる。
彼女も私と同じように姫子さんにそんなイメージを持っていた。
「電話切ってから声がなんとなく似てるなって気付いて、店長に話したんですよ、姫子さんと同じ名前の人が凄く優しい声で丁寧に接客してくれたんですって」
「それが姫子さんだったらびっくりするよね」
穏やかに笑いながら、チャンネルの設定を終えてリモコンを机に置く、流れる子供番組を見て彼女が喜ぶ。
「わー!凄い!これでテレビが見える!」
「あはは、良かったね」
デザートに買ってきたお菓子が予想外に美味しくなかったことにお互い不満を言いながら、また姫子さんの話題に戻る。
「そうそう、そうしたら店長が『あぁ、死期が近いからやっぱり穏やかになるんだねー』って、言われてビックリしました。やっぱり姫子さんだったんだって、姫子さん、癌だったって知ってましたか?もう長くないそうです」
「……いや、知らなかった」
けれど、その『穏やかさ』は知っている。
死ぬということを受け入れている人間は、こちらが哀しくなる位に『穏やか』なのだ。
それと同時に『激しさ』も胸の奥に抱いているのも良く知っている。
「そっかぁ……、まだ死ぬには早い歳なのにね、40も生きてないじゃん」
「本当にビックリしました、まさか……亡くなるなんて考えてなかったから」
そうだね、ビックリするよね。
でも、死ぬということは『そうゆうもの』だ。
平等というのには程遠いと感じる位、命は『いつなくなるかわからない』
「かなしいね」小さなため息を漏らした。
姫子さんが亡くなるのが悲しいわけではない、彼女が死を受け入れ、『穏やか』生きていくのが悲しい。一人で痛みと苦しみと戦い続けた彼女の生が悲しい。
――そして私は、彼女のそばで少しでも痛みや苦しみを感じられなかったことが……悲しいのだ。
結局は、誰がそばにいようが病魔と戦うのは本人一人だし、その痛みや苦しさは人と分かちあえるものではない。
そばで支える人は彼女とは違う痛みで、苦しみと戦いながら彼女のそばに立ち、そっと支えている。
それは生きながら『何か』を抱き、戦っている人も同じだろう。
種類は大なり小なりそうゆうものは誰にだってあるはずだ。
それでも、少しでも分かちあいたいと思うのが人なのだろう。
しばらく姫子さんの話しをしてから、サッと話題を切り替える。
「よし!まだ車に乗せられなかった荷物が残ってるからちゃっちゃっと運んじゃおうか!」
いつの間にか夜の空気が部屋を包み込んで、こたつの外はすっかり冷え込んでいた。
私達は彼女の仕事先から台車を借りて冷たい雨が降るなか、車には乗せることができなかった棚や荷物を運んだ。
カラカラカラ、小さい音をたてアスファルトを滑る台車を押して歩く、時折荷物が落ちないように支えながら。
車でほとんど運んだこともあり、二往復でその作業は終わり、彼女の住んでいた部屋は正真正銘空っぽになる。
掃除をしてから新しい部屋に帰るという彼女に手を振り、私は車を走らせながら姫子さんの事を考えていた。
仲が良かったとはお世辞にも言えないが、無性に彼女に会いたくなったのだ。
多分、私は同じ年月を生きている人達よりも『死』というものを身近に感じている。
私の『生』には姿がみえなくとも常に『死』の潜めた息遣いが耳元で聞こえるのだ。
でも、姫子さんのそれは私とは違う。
彼女は『死』の姿が見えている。
息遣いなど生易しいものではなく、彼女の脇には『死』が寄り添っているのだ。
そんな彼女を見てみたいのだ、彼女の穏やかな顔を私の脳裏に刻み込みたい。
未だに鮮明に浮かぶ光景がある、私の母が亡くなった時のこと。
母の体から魂が抜け出し、白い着物を着た母は温かい日だまりの下に裸足で立っている。
足元にはふさふさに生い茂った緑と、回りには木漏れ日をたたえる木々の中、棺に添えられた杖を投げ捨てて、大きく背伸びをして歩いてゆくのだ。
後ろ姿しか見えないけれど、その姿は酷く穏やかで、おおらかだった。
きっと母の着物の胸元にはタバコとライターが入っているのだろう。
鼻歌を歌いながら歩き出す母はどこまでも歩いていけると私は思った。
そして、私はそんな光景を彼女に届けたい。
――貴女の逝く道が、母と同じように穏やかで幸せでありますように。
この右手に祈りを込めて。
貴女の逝く先に咲く見えない花の種を届けたい。
……貴女は私のこの手を取ってくれるでしょうか? 穏やかに笑いながら握り返してくれるでしょうか?