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部屋の中は、以前来た時とその有り様を大きく変えていた。締め切られたカーテン、敷きっぱなしになっている布団。見た目に大きな変化はなかったが、しかし、空間そのものがどこか、前回訪れた時と比べて変容している。それを感じ取ったのか、途中で合流したフルート・オーケストラも小さく息を呑んでいた。
空気が、嫌という程甘ったるい。
まるで、パンケーキを焼いた後のような、この部屋で、先程までティータイムが行われていたかのような、そんな甘さ。
思わず、湧き上がる吐瀉物を抑えこむ。
辺りを見渡すと、フォルテ・オーケストラが残した箱は存在しなかった。
「これが、兄の部屋ですか……?」
困惑したような顔で尋ねるフルートに、三谷は無言で首を横に振る。
「以前来た時はもっと普通の部屋だったよ。少なくとも、こんな結界のようなものはなかった」
結界──確かに、これは結界のような物だ。
外界と較べて、空気が濃い。まるで、この空間だけが別世界であるかのように。
「まさか、これが彼奴の残した魔術か」
外界との隔離。
この空間を表すのに、その言葉はピッタリだった。だとすると、これから起こる未来は──
「──ッ!!」
不意に、体から力が抜け始める。
それは、この空間からの魔力──生命力の排除が始まる予兆だった。
「一度出よう。この空間には今魔術が起動している。此処にいたら、俺達の魔力は全て持って行かれてしまう」
一体、何故視認の魔術が起動しているのか。
誰かが起動させたのか、それとも死後、起動するように仕込まれていたのか、そんな事を考える余裕もなく、三谷はフルートを連れて扉から転がり出た。
「──ハァ……」
息を整え、頭の中を整理する。
横目でフルートの顔を見ると、三谷よりも衰弱が激しいようで、真っ青な顔で息を整えている。
──思ったより、耐性は薄いらしい。
それとももしくは、単純な魔力量の差か。
「これが兄の研究していた魔術……一体、何の目的が」
「恐らくは神域への到達が目的だろうけど、未だに詳細は不明だ。それよりも一番の問題は、死人の魔術が今更になって起動したということだ」
そして、もう一つ、消失した箱も気がかりだった。
恐らくは、誰かフォルテの研究を知っていた第三者が箱を奪い去り、ついでに彼の作り上げた魔術を起動させたと言うところだろうが……。
と、ようやく頭の回転が元に戻ったところで、何もしていないのに、扉が音を立てて開いた。
無言で、扉へと目をやる。
「あれ、先輩じゃないですか」
扉の向こうに立っていたのは、見知った少女の姿だった。
しかし、その姿は三谷が知っている姿や雰囲気とは真逆のそれだった。
普通、人間なら絞まっているネジの何本かが抜け落ちているかのようなすっとぼけた表情が、今の彼女の顔には張り付いていない。何より、彼女の服装は、まるで教会に仕える聖職者のようで──
「アル──一体なんでこんなところに──」
「それは私の台詞です。私は先輩を巻き込まないために一人で来たというのに、まさかオーケストラ家の次女まで連れてくるなんて、いくらなんでも間が悪すぎと言いますか、なんと言いますか」
「お前、教会の人間だったのか」
教会、と言う言葉に隣りにいたフルートが反応する。名家に生まれた魔術師の一人として、教会とは何らかのしがらみでもあるのだろう。
「いいえ、違いますよ。少なくとも師匠が言っている教会とは別組織に属しています。『古の開拓者』って聞いたことないですか?」
「……知ってるわ。教会からの離反者と魔術師が手を組んだ研究組織。神域を目指す者達の集いよね」
「流石にオーケストラ家の者なら知ってましたか。まあ詳しくは神域だけに留まらず、要するに現代に残されていない、過去の遺物を保管する、文字通りの人智倉庫というのが正しいんですけど」
「そんな貴女が、どうして兄の部屋に?」
「彼の遺した魔術が必要だからです。彼の魔術は、そのまま神話の再現に繋がる可能性のある魔術で、その魔術は私たちにとって大きな意味を持つ。最も、師匠ならこれだけ聞けばもう大体の見当は付いていると思うんですけれど」
「つまり、お前の属する組織は現代に神話の世界を再現することで、失われた過去の遺物を創造したいというわけか」
呆れたように言う三谷に、アルは真剣な表情で頷く。
「そんなことが可能なんですか?」
「少なくとも、理屈的にはですが。フォルテ・オーケストラが遺した魔術は、世界の作り変えと同義です。事実、彼は其れに気づいていた。まあ言ってしまえば、彼はこの世界を作り変えたかったんです。これでも私は交霊術師ですからね。この部屋にいれば、ある程度染み付いた思想・執念の類は読み取ることが出来ます。
ねぇ、師匠、オーケストラ家の末裔さん。本来、霊なんて言うもののほとんどは、成仏できない魂ではなく、死後残された思想に他ならないんです」
それは、アルと初めて会った時にも聞いたことがある話だった。
詰まるところ、霊との交信は、死者の意思との交信であると。そこから更に奥地へと踏み出して初めて、人間は霊──死者の魂との邂逅を果たすことが出来る。
「それで、結局お前は何をしたいんだ? 俺からレポートを奪い去りたいのか?」
「まさか。師匠との師弟関係を壊したくはないから、私はわざわざ一人でこんなところまで調べ物に来たんです。そして、この箱を手に入れました」
アルが取り出したのは、小さな箱だった。
それは、元々この部屋に在った物で、前回見た時と同様、矢張り中になにか入ってるような形跡はない。
「この箱こそが彼の魔術の触媒なんです。見た目は変哲のない箱ですが、この箱にはとある術式が刻み込まれている。それも、フォルテ・オーケストラがレポートに書き記さなかった隠された術式が」
「兄が隠した術式?」
「そもそも、どうして一人を選び、人から離れた状況下で研究していた彼が、レポートなんて形にして魔術を遺したと思いますか?」
あぁ──と三谷は今度こそ理解した。
つまり、フォルテ・オーケストラはそもそも、自身の研究成果を残すつもりなどなかったのだろう。
レポートに書かれていた日現実的な術式も、それで全て納得がいく。かれは、ブラフを混ぜ、真実を隠蔽することで、決して自身の研究を奪われないように。
「なら、フォルテが遺した魔術っていうのは一体……」
「言ったとおりです。世界を作り変える魔術。大筋はレポートに記されたとおり、結界の中を自身の一部とし、それを自身の思い通りに描き直す。まあ、一度これを見てください」
言って、アルは手に持っていた箱の蓋を開く。
中身の無いはずの箱の中には、一本のろうそく。ろうそくには青い火が灯っていて、しかし、ろうそくの長さが変化している様子はない。
「これが彼の遺した魔術ですよ。最も、この箱はあくまでもテスト用の空間だったみたいで、実際は部屋の中を見ていただいた方が理解が早まります」
ドクン、と鼓動が早まる。
アルに促されるままに部屋の扉に手をかけると、先程まで部屋に充満していた甘い匂いが漏れ出ているのに気づいた。
「部屋に入ったら消化されるなんてことはないでしょうね」
「大丈夫ですよ。そもそも、一人で実験していた所に急に侵入り込んで来るから巻き添えなんて食らうんです」
フルートは何か言いたげにアルを睨んで、納得したのか三谷の後ろに立つ。どうやら、巻き添えを食らうことはもうないと踏んだのだろう。
ガチャリ、と扉が開かれる。
その先に人がっていたのは、別世界だった。
月明かりに照らされた、西洋の墓地。
そこに居座る、一匹の黒猫。
「これ自体は幻のようなものです。とても、現実世界を侵食させるには及びません。それでもここまで精密に、思い描いた景色を作り出せ、かつ誰もが見て触れるという幻覚は、もう一つの仮想現実みたいなものですが。その凄さは、暗示の魔眼を持つ貴女なら理解できるんじゃないですか? フルート・オーケストラ」
「……えぇ、そうね。何のキッカケも与えずに、全ての者を非現実に陥れるなんて、確かにそれは世界の書き換え──貴女が言ったように、神話の世界だって再現できるでしょう」
感嘆するように、部屋の中に広がる景色を眺める。フルートの目は、兄の遺した偉業に釘付けになっていた。
「さて、では師匠。これで謎は全て解決ということでいいしょうか? レポートの中身は嘘っぱち。だけど彼の求めたものは嘘じゃなかった。精霊の排除・他の世界への経路を繋ぐなんて大それた事をせずとも、彼は世界を作り変える術を見つけた……」
「そう……」
無言で部屋の中を眺める三谷とは反対に、フルートはポツリと呟いた。
「兄は、何も成し遂げずに死んだわけではないんですね……」
か細い声だった。
三谷の知っている、気丈な彼女からは、とても想像の付かないか細い声。
「ええ。この魔術を完成させるために、貴方の兄は一生を研究に費やしたのです」
安心したように、フルートは目を細めた。
まるで、この景色を脳に焼き付けるかのように。
空虚の城(了)