第十三話 刹那の温もり
ぎりぎりセーフ……
だと思いたい。
うーん、直接的な描写はほぼないし。
招かれた夕食は、生まれて初めて見るものばかりの豪華な物だった。
質や量からして、おそらく、最初から誘うつもりだったことが分かった。
あの時、迷わず頷けた事をよかったと思う。
まあ、よくよく考えてみれば、あの場で、断るのは多少失礼に当たるような気もした。
せっかくの誘いだし、何より、たいした用事もないのに、せっかくの申し出を断ると、角が立つ、と言うよりも、関係性を悪化させかねなかったかもしれない。
もちろん、実際やらなかったことだから、どうなっていたかは、分からなかったが、あまり良い予感はしない。
「父と母が、ホント喜んでたわ、ありがとね?」
「そう言いつつ、僕の服を脱がそうとしているその手は何なんだろうね?」
にゅっと出てきた彼女、瑞穂さんの腕を掴み、解く。
今は、瑞穂さんの部屋で、小休憩となっている。
しっかりと、かなり高級マンションの一室を借りてるくせに、実家にもちゃんと部屋が残っているなんて、羨ましいものだ。
しかも、その部屋は、僕の部屋のゆうに二倍以上はある。
特別貧しい家じゃないとは思っているが、それでも、貧富の差をこうも感じる羽目になるとは思わなかった。
自分の家庭が、貧しいんじゃないかと、錯覚させられるほど、この家は豪華。
豪華すぎる。
気が滅入る、気が休まる暇も感じられないほど。
「まぁ、いいじゃない。食事後の恋人の部屋。窓の外は暗く、周りには邪魔する者はどこにもいない。しかも、防音設備はばっちり。恋人同士の語らいにはぴったりじゃないか?」
「つまり、どんなに泣いて叫んでも助けは来ないから、慰み物になる覚悟をしろ、と?」
挙句に、この状況。
もう何度目になるのか分からない程の貞操の危機。
そういうことなんだろう。
「ちゅっ」
わざとらしく音をたててのキス。
ただ唇を重ねるだけの行為なんだから、音がするわけはない。
何故、彼女がそうするのかは、分からない。
僕は、それを拒否しない。
ただ、身体を寄せてくる彼女を抱き締める。
豊かな二つの膨らみを持っているくせに、折れそうなほどの華奢な身体を抱き締める。
「今日は逃げないんだ?」
「逃げても無駄でしょう?どうせ、鍵も掛かってることだろうし、逃げられないんなら、逃げませんよ」
二人は恋人。
それを、彼女の両親にも言っている。
だから、もういいだろう、と思った。
まるで、何も知らない無垢な少女のように、相変わらず心は、今から行う行為に怯えている。
だけど、それも、数をこなす内に気にならなくなるだろう。
人はそうやって慣れていく。
傷や痛みを乗り越えて前へと進んでいく。
「てやっ!!」
僕も、そうして進んで行く。
彼女と共に。
彼女と一緒に。
だから、彼女をベッドに押し倒す。
僕が初めて起こした受身じゃない、僕自身の能動的な行動。
そして、そっと彼女の唇にキスをする。
唇の次は、頬、そして、瞼、髪とキスの雨を降らせる。
「随分手馴れてるのね?」
そんな僕を見て、彼女は苦笑混じりにそういう。
「恋人を前にして言うことじゃないだろうけど、こういうことぐらいは、奏穂と、経験済みですから」
彼女と身体の繋がりは全くない。
彼女には、そんな体力なんてないし、僕自身も恐れていた。
人アレルギーにも近い症状があった僕だけど、彼女は大丈夫だった。
いや、心を許している彼女だから大丈夫だった。
だけど、いざ、更に一歩進んだ時、もっと深い繋がりをもうとしたとき、その時の自分がどうなるのか分からなくて怖かった。
大丈夫なはずの彼女ですら、拒否反応とも取れる症状が出たらと思うと、踏み出せなかった。
彼女を傷つける事、そして、自分自身に降りかかるだろう虚しさを思うと、怖かった。
心を許しているはずの彼女ですら、深い繋がりを持てないという現実を見たくなかった。
観る勇気がなかった。
だから、深い繋がりは、望めなかった。
そして、その代わり、出来る限りのスキンシップは取った。
それだけの事。
「ホント、その通りね。てか、姉としても、ちょっと嫌だわ」
深い深いキス。
ただ唇を合わせるだけの物とは違い、もっとお互いを絡ませ合うようなキス。
それは、嫉妬から来たものなのだろうか。
自分の妹に嫉妬してしまったのだろうか。
そんなことは、分からない。
だけど、彼女のそれは、もっともっと深い繋がりを欲しているように思えた。
深い深いキスのただ中、彼女の頬を、髪を右手で撫でながら、あいている左手で、彼女のブラウスのボタンを外しにかかる。
自分でも驚くほどの器用振り。
ずっとずっと、こんな事には不慣れで、一生不慣れなものだと思っていた。
だけど、そんな予想とは裏腹に、事は淀みなく流れていく。
彼女が拒絶しないのもあるだろう、だけど、僕自身もその手は、緊張で震えることも、何もなく、ただするりするりと解いていく。
やっぱり、僕も庵原夕貴という一個の人間であると同時に、ただの男と言うこと。
無意識のうちに、自然とそう出来るようになっていたんだろう。
「なんだか、改めて、こうすると恥ずかしいわね?」
一度唇を離すと、彼女はそういうと、苦笑する。
けれど、そうはいいながらも、彼女は既に、僕のシャツのボタンを外し終わっている。
「そうですね。うん、ホント恥ずかしい。穴があったら入りたいぐらいですよ」
「あら、下ネタかしら?」
「ぶっ」
思わず吹いた。
いや、確かに、彼女の言う通り、聞き方によれば、下ネタと取れない事はない。
けれど、さすがに、こんなときに、そんな事を言わないで欲しい。
「ホント、意地悪ですね」
「それが、私だもの」
彼女はそう言って笑う。
まあ、確かにそういわれればそうなんだけれども。
そして、そんな彼女を僕は素敵だと思っているわけだし。
最後のブラウスのボタンを外すと、淡いピンクのブラと白く滑らかな肌が顔を出す。
こぼれんばかりの豊かな二つの膨らみは、それだけで生唾物だろう。
僕自身、今にも口から飛び出しそうなほど、心臓が脈打っている。
初めて彼女のマンションに誘われて、押し倒されたとき。
あの時は、何も感じなかった。
だけど、今は違う。
今、僕の中にある牡としての本能には、しっかりと火が灯っている。
ミニのタイトスカートをするすると脱がせる。
僕も既に、ボクサーパンツのみ。
彼女を脱がしながら、僕も少しずつ脱いでいた。
ベッドにいる彼女は、上下薄いピンクの下着を纏うだけの姿。
秋になり、もう肌寒いはずの季節。
なのに、それでも、パンストを履いていなかったのは、彼女なりの配慮だろう。
もしかすると、彼女自身も、こうなる事を期待していたし、予測していたのかもしれない。
そして、履いていると手間取る事を予想して、脱いだのだろう。
その心遣いに感謝したい。
ここまで、せっかくすんなりと着ていたのだ。
それを、ここで止めてしまうのは、もったいないし、興ざめにもなりかねない。
だから、未然に防いでくれた彼女のその気持ちに感謝したい。
「ありがとう」
その気持ちを載せて深い深いキス。
キスの合間に残りを脱がして、僕自身も全てを取り払って、素肌同士で感じる温もりを絡ませながら深い深いキス。
僕達は深い深いキスをした。
割と深夜に近い時間。
ようやく、僕は、目覚めた。
「おはよう」
それに合わせて、くすりと笑いながら、彼女はそういう。
初めての行為後、僕はあっさりと眠りに落ちた。
とはいえ、それは、初めての行為のための疲れだったのか、それとも、単なる女性恐怖症から来るものだったのか、僕には分からない。
そう、僕には、分からない。
けれど、直接ずっと僕を見てきた彼女なら分かるだろう。
「うーん、やっぱり、あれね。未だに異物感が残るわ。これが、初体験の痛みって奴?」
「そんな事聞かれても、僕には分かりませんよ」
本日初体験な僕に、そんな事を聞かれても、分かるわけがない。
「でも、まぁ、良かったわ。初体験が夕貴で。他の奴だったらと考えたら、もう、ぞっとしないわ。それこそ、姉さんが付き合ってきたようなゴミみたいな奴だったら、あれね、自殺物よ」
「いや、そこまで言わなくても」
確かに、彼女の気持ちも分からないでもないが、それはちょっと言いすぎなんじゃないだろうか。
こうして、僕を持ち上げてくれるのは、本当に嬉しいが、僕自身、そんなに偉い人ってわけでもない。
分不相応な持ち上げられ方をすると、やっぱり居心地が悪い。
まぁ、それでも、確かに、鈴穂さんの周りをうろちょろしている男達は、ゴミみたいなもんだけど。
まぁ、彼らにしてみれば、ひどく心外だろうが、それでも、やっぱり、評価はそれに落ち着く。
「だから、私は幸せ。いい想い出が出来たわ」
彼女はそう言って笑う。
だけど、その笑顔はどこか寂しげ。
何かを覚悟したような、何かを終わらせようとしているような笑顔。
そう、まるで、それは、僕が……
「だから、夕貴もいい想い出を作りなさい?」
僕が、奏穂を殺した時の物と同じ。
絶望を心に宿した瞳。
「今の私には、夕貴を救えない。奏穂に縛られている夕貴は救えない。だから、今日は私と夕貴の、最後の思い出のために仕組んだの。父と母と姉に協力してもらったの」
そう言って、彼女は悲しそうに辛そうに笑う。
本当は泣きたいくせに。
泣いて縋りたいくせに。
それを良しとせず、気丈に振舞う。
その姿は、あのときの、殺してしまった後の僕の姿と、だぶる。
辛くて悲しくて泣きたくて、泣いて縋りたくて、だけど、それをしなかった。
出来なかった。
ただただ、誰が見ても分かる作り笑いをしていた。
作り笑いをして謝った。
謝って、死んでしまった彼女のもう一度だけ見て、そして、病室を出た。
あのときの自分を見ているかのようだ。
「父と母は二つ返事だったわ。元々、夕貴に会いたがってたし、謝りたがってた。姉さんも同じ。私じゃどうしようもないことなんて分かっていた。だから、手伝ってくれたの。このたった一時のために」
周到に用意した罠。
そういうわけではない。
いくらでも、退路はあった。
けれど、彼女にとっては、今の彼女に出来る最大の博打。
大勝負。
「もし、僕が受けなかったら、拒否したら、どうするつもりだったの?」
それは、決して起こりはしなかったイフ。
だけど、どうしても気になる。
彼女にとっての大勝負。
たった一時の、一瞬のまやかしとて、それでも、その幸せがあるからこそ、彼女は捨てた。
僕のために、僕を救うために、彼女はそれを選んだ。
だけど、もし、僕が彼女を受け入れなかった。
逃げ出したら、どうしたのだろうか。
「無理矢理押し倒してやろうかとも思ってたけど、たぶん、出来なかったでしょうね。出来ずに、お別れを言ってたと思うわ。さっき言った事と全く同じ事をね」
だけど、それは悲しすぎる答え。
たった一時のまやかしですら手にする事の出来なかった悲しい道。
それならば、僕は安心できる。
自分が取った選択肢を。
だけど、それと同時に不安。
これから先が、彼女のこれからの未来が、不安でたまらない。
ほんの一瞬でも手に入れてしまった温もり。
それをむざむざと手放す。
手にしなければ、分からずにすんだはずの温もり、知らずにすんだ喪失感、絶望感。
それを感じさせてしまうのではないか。
更に辛くさせてしまうのではないのだろうか。
「ふふ、暖かいね」
彼女がぎゅっと抱き締めてきた。
秋は深まり、夜、特に深夜となれば、一気に冷え込む。
だから、こうして、素肌で感じる温もりは、心も身体も温めてくれる。
芯から暖めてくれる。
「私の心配してくれているんでしょう?大丈夫よ。私は負けない。大切な夕貴を幸せにしてみせるから」
僕はぎゅっと彼女を抱き締め返す。
「夜があけるまでは、僕達は、まだ恋人だよね?」
そして、そういうと、キスをする。
夜が明ければ、もう僕達は恋人ではいられない。
ただの、校医と生徒に戻る。
もちろん、親しさは変わらないだろう。
だけど、もうこんな深い繋がり合い方はしないだろう。
だから、せめて……
奏穂が死んで初めて、この腕で抱きしめた、キスをした彼女を、深く深く愛したい。
繋がっていたい。
まだ、もう少し、夜明けまでには時間があるのだから。