第十二話 救われない人達
退屈な時間こそ、僕にとって救いの時間。
一刻の猶予。
あまりにも日々に悲しみと絶望が馴染み過ぎて、安穏な生活なんて送れなかった。
だから、退屈な時間こそ僕にとっては平和で救い。
求めてやまない時間。
「うん、随分良くなったんじゃないかしら?」
そう言って、鈴穂さんは、聴診器を耳から離す。
聴診器と言っても使い方はいろいろあって、僕の場合は心音の安定度を図るために使っている。
女性恐怖症の持つ僕が、女性である彼女に振られても心音が乱れたりしないか、そういうことだ。
「それでも、やっぱり、顔色はあんまり良くないわね。ホント長い間一緒にいるけど、全く慣れてはくれないのね?」
「綺麗な女性はそれだけで、意識してしまいますからね。特に鈴穂さんのように目の醒めるような美人さんだと、それに合わせて、影響が大きくなるんですよ」
女性だと意識さえしなければ、そんなに影響は出ない。
元々ある対人恐怖症が多少顔を出す程度で、それだってしっかりと対処すれば、表立って症状として出るようなことはない。
だから、女性として意識させられるような人以外であれば、いくらでも対処は出来るんだけど、女性として意識させられるような、それこそ鈴穂さんのような美人さんが相手だと、どうしても意識してしまう。
そして、そのまま悪化、と言う感じだ。
それに、やっぱり奏穂の姉妹だと言う事が大きい。
どうしても、彼女と似ているところがちらほらと見えてくる。
そうすると、どうしても、身体は反応する。
拒否する。
思い出してしまう。
暗い暗い闇の中での生活を。
「やっぱり、あの子の姉、だからいけないんでしょうね」
そんな事ぐらい彼女も百の承知だ。
「本当は、私じゃなくて他の人頼めればいいんだけど、任せられる人がいなものね」
それでも、それが出来ないのは、他の誰にも頼めないから。
あまりにも事情が複雑になり過ぎて誰にも頼めない。
ただの精神病ならいくらでも頼めるけれど、原因がはっきりしていて、その原因自体が表に出せないのだ、八方塞もいいところ。
だから、こうして、無意味と思われてもしかたのない事をしている。
「大丈夫ですよ、僕は一人じゃないですから。瑞穂さんがいますし。あの人がいる限り、僕は崩れませんから。今日はありがとうございました、これで失礼させてもらいますね?」
それでも、僕は崩れない。
瑞穂さんがいてくれるから。
彼女がいてくれるから。
だから、大丈夫。
「待ちなさい」
だけど、彼女はそれを制する。
瞳には悲しい色。
何故、そんな瞳を、悲しそうにするのか分からない。
「覚えておきなさい。確かに、瑞穂がいれば、君は一人じゃない。けれど、その代わり救われもしないのよ、絶対に。あの子じゃ、無理なんだから」
そして、何故そんな事を言うのかも分からない。
今の僕は幸せなんだ。
確かに、未だに僕は彼女との距離を縮められていない。
それでも、悲しみに押しつぶされることはない。
彼女を殺してしまったときのような絶望はない。
だから、僕は大丈夫。
彼女と居れば、幸せなんだ。
幸せになれるはずなんだ。
「ありがとうございます」
だけど、そうして心配してくれる気持ちがとても嬉しい。
本当に素直に嬉しいと思う。
その気持ちだけでも受け取っておきたい。
「それじゃあ、また来月」
そして、僕は、そう言って、部屋を後にした。
そのまま、家から出ると、視界一杯に広がる中庭を眺める。
既に患者ではない僕は、もう病院にはいけない。
だから、今、僕が居る場所は彼女の家。
実家。
出来れば、行きたくないけれど、実家暮らしの彼女との往診はここでしかできない。
それに、目の前に広がる中庭は恐ろしく広く、敷地にある本邸もかなりでかい。
これだけの大きさを誇る家なら、そこまで心配しなくてもいい。
彼女の両親に会うかもしれない可能性を考えなくてもすむ。
それに、基本的にその二人は多忙。
家に居ることはまずない。
それを考えると、会うわけがない。
「お久しぶりですね、夕貴君」
「っ!!」
思わず膠着する。
不意の出来事。
ありえるはずのない出来事。
望まぬ出来事。
絶対に起きてはいけないこと。
そう思っていたのに、不意の邂逅。
恐る恐る振り返ると、目の前にいるのは、彼女の両親。
居るはずのない二人。
多忙を極めるはずの二人。
「少しお話がしたいんですけれど、構いませんか?」
たおやかな笑みを浮かべてそういう彼女の母親の姿は、住む世界の違いを見せ付けられる。
金持ちと一般人。
嫌でも気づかされてしまう。
「はい、大丈夫です」
出来ることなら逃げ出したい。
だけど、逃げ出せない。
もしかしたら、これは、何かが用意したものなのかもしれない。
僕が前へと進むための布石。
瑞穂さんとの未来を進むための関門なのかも知れない。
なら、僕は、逃げ出すわけにはいかない。
それに、多忙なはずの二人がこうして揃って僕の前に居る。
わざわざ時間を作ったのだろう。
それを無碍にするのは、はばかれる。
奏穂を殺した罪人としても、瑞穂さんの恋人としても。
「ありがとうございます。なら、こちらへどうぞ。せっかくお天気もいい事ですから、テラスでお茶をしながらお話しましょう」
二人に従うように、僕は案内されるままに歩き出す。
見上げた秋空は高く、青く澄んでいた。
「まずは、自己紹介からでよろしいですか?奏穂の葬式以来会っていませんし、お互い、知らないことが多すぎますから。私は、夕貴君の知っている通り、奏穂の母の果穂と言います」
「私は、父親の譲だ」
二人は、そう言ってそれぞれ柔らかい笑みを浮かべる。
嫌味も何もない、穏やかな笑み。
僕が、思い描いていたお金持ちの印象とは全く違う。
「僕は、庵原夕貴です。以前は奏穂さんとお付き合いさせてもらっていました。今は、瑞穂さんとお付き合いさせていただいております」
それに習うように、僕も続ける。
なんだか、変な感じだ。
確かに、彼女の、果穂さんの言う通り、僕は彼女達のことは知らない。
だけど、きっと、彼女達は僕の事を良く知っている。
鈴穂さんや瑞穂さんに聞けば分かることだし。
それでも、あえてそういうと言うことは、僕に気を使ってくれて、なのだろうか。
僕は、彼女達が奏穂の両親だと言う事しか知らないわけだし。
名前なんてもちろん知らなかった。
そして、それ以上にその瑞穂さんとの事。
そのことを言うかどうか迷った。
迷ったけれど、言わないわけにはいかない。
言うのには、そうとうな決心が必要だったけれど、言った後は、すっきりとしている。
独りで抱えきるだけの余力がもうないのかもしれない。
いや、ないから、今でも僕は、ずっと女性恐怖症なのだろう。
余力も余裕もない。
だから、いつまでも、前へと進まない。
「そのことは、鈴穂と瑞穂から聞いております。特に瑞穂の事、迷惑を掛けてしまって申し訳ありません」
「あ、いえ、むしろ、救われてるぐらいですから、気にしないでください」
「そうですか。それなら瑞穂の事は構わないんですが。やっぱり、奏穂の事、重荷になってしまっていたみたいですね」
「………」
思わず言葉に詰まる。
明らかに失言だった。
「ずっと気にしてました。奏穂の事で負担をかけてしまっていたことは、重々承知していましたから。ですが、私達は、貴方に心苦しい事を押し付けてしまった人間ですし、鈴穂から貴方の病気の事を聞いてしまったら、更に何もできませんでした。申し訳ありませんでした」
場の雰囲気が暗くなる。
分かっていた。
余計な事を言えば、こうなる事ぐらい予想していた。
だから、今まで逃げてきたんじゃないか。
「いえ、気にしないでください。ただ、僕はあれ以上、あんな姿の奏穂を見ていたくなかっただけなんですから。それに、結局僕のやったことは、褒められるようなことじゃないですからね」
自分自身の罪と一緒に。
「確かに、君の言うとおりだろう。決して、世間的に観れば、君のやったことは褒められることではない」
不意に、初めて、会話に譲さんが入って来た。
「人一人の命を奪ったんだ、それは責められるべきものであろう」
そう、それは罪。
裁かれるべき大罪。
愛する恋人を殺した罪人。
だからこそ、僕は責められるべき存在。
許されざる存在。
「けれど、それは、私達も同じなんだ。自分の娘の願いを叶える事が出来ず、保身を考え、挙句に、若くまだまだ未来のある君に全てを押し付けた。大人のやるべきこととは言えない。君に全てを押し付け、見えない振りをした。君の未来を潰したんだ。それこそが、私達の罪」
けれど、そんな僕を見る目はとても優しい。
泣きたくなった。
だけど、それは、喜びじゃない。
優しい目で見られる、心配してくれる。
その気持ちは嬉しい。
だけど、それと同時に、もう、この世界にはどこにも自分を裁いてくれる物が居ないことの証明。
永遠に、僕はこの罪を背負わなくてはいけない。
どんなに苦しくても、悲しくても、辛くても、誰にも許されることなく、背負わなくてはいけない。
助けて欲しいのに、何も言えない。
彼らもまた苦しんでいるのだから。
許される事のない罪を背負い続けないといけないのだから。
僕が何かを言った所で、彼らを救える事なんてないだろう。
むしろ、傷つけ、更に苦しめるだけだろう。
だから、何も言えない。
お互いに救われることはない。
皮肉なものだ。
彼らの罪を知るのが、彼らからしてみれば被害者で、本来許しを請うべき相手なのに、絶対に裁いてもらえない相手である僕で、そして、僕の罪を知って、救い方を知っているのが、僕を憎んでやまず、救う事を拒否したルリだけ。
僕が救われないと彼らは救われない。
だけど、僕は永遠に救われない。
だから、彼らも永遠に救われない。
悲しい結末。
たった一人の女の子の死が、それ以上の人の心を縛り付ける。
彼女の願った願いはそんなに罪深い事なのだろうか。
そんなに愚かな事なのだろうか。
僕には、その答えを知る術は何一つとしてない。
「そうですわ。せっかく、こうして、屋敷に来て頂いているわけですし、お夕食、ご一緒しませんか?」
静まりかえる場の空気。
それを払拭するかのように、彼女はその言葉を紡いだ。
「そうだな、君がよければだけど、どうだい?」
それに彼も乗る。
ただの社交辞令。
その可能性はある。
と言うか、普通はそう考えるべきである。
まだ、数度しか会っていない人に自宅に夕食を招くことはまずない。
ただ、この場の雰囲気を変えるために、言っただけだと考えるのが常識だ。
「ありがとうございます。ご迷惑にならなければ、お世話になります」
悲しそうに揺れる二人の瞳。
一生懸命に何かをなそうと揺れる瞳。
それは、一般常識とはかけ離れたもの考えるべき状況。
常識の範疇外で考えないといけない状況。
僕には決して彼らを救えない。
それでも、せめてもの慰めとして、刹那のまやかしだろうと、それを見せてあげたかった。
ただ、次女の恋人として、彼女の家に招かれた男として、会ってあげたかった。
ただそれだけのこと。