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第8章 鮮血の悪夢

※流血表現があります。苦手な方はご注意ください。

Chapter VIII Nightmare of the blood



 背後から聞こえてきた声に、アリスは身体から一気に血の気が引くのを感じた。

 テラスの方を振り返ると、そこには女王が暮れなずむ薔薇園を背景に立っていた。その手にはすでに抜き身のサーベルが握られている。


「これはこれは女王陛下」チェシャ猫が笑みを深め、茶化すように言った。「久方ぶりだね。お目にかかれて嬉しいよ」

「俺は最悪の気分だ。お前が目の前にいて、その気味の悪い眼でこっちを見てるんだからな」

「猫だって、女王を見るくらいはしてもいいはずだけど」

「罪人にそんな権利はない」


 女王は苛立たしげにサーベルを一振りした。

 その刀身はわずかに湾曲していて首を刎ねるには都合がいい代物だった。その刃の形状と輝きは、アリスの亡き祖父の蒐集物のひとつである極東の国の刃物に似ていた。滴るような夕陽に照らされ、血に濡れたみたいに輝いている。


(どうしよう?)


 アリスは指一本動かせないまま、女王とチェシャ猫を目だけで交互に見た。女王の良いとは言えない機嫌ではサーベルは今にも本物の血にまみれてしまいそうだ。元凶であるチェシャ猫を逃がしたいが、彼がそれを許すだろうか。

 恐慌を起こしそうな頭でぐるぐると考えていると、突然、手首がチェシャ猫の冷たい手に掴まれた。


「ご覧の通り、俺達は出て行くところだよ。無理に追い出す必要はないんじゃないかな?」


 俺

 アリスは意味がわからずチェシャ猫の顔を見た。相変わらず、何がおかしいのか顔に笑みを貼りつけている。掴まれた手首は痛みこそないが、手錠のようなかたくなさがあった。


「お前とその子供がどういう関りかは知らんが」女王は凄惨な笑みを浮かべた。「俺はお前を追い出したいんじゃない。処刑したいんだ」


 彼の赤い眼は瞳孔が開き、夕暮れの赤一色の景色の中でも一際燦然としている。アリスは背筋が震えるのを感じた。


「首を刎ねたら、体は薔薇の下にでも埋めてやろう。死体は最高の肥料だからな。その薔薇にはお前の名でもつけてやるさ。罪人には過ぎた栄誉だろう?」

「俺が死んだら、俺の名前の花のできあがりって訳だ」

「ああそうだな、死んでも咲く薔薇だ!」


 死刑囚の行く末を宣告した女王は、罪人の首を刎ねるために地を蹴った。


「そんなのはご免だね」


 チェシャ猫は呟くと、アリスの手首から離した手で彼女を部屋の隅へと押しやった。

 アリスがよろけて絨毯に尻もちをついた瞬間、鋼と鋼がぶつかる鋭い音が響いた。


 顔を上げると、チェシャ猫が刃渡り10インチはあるスカルペルのような鋭いナイフで振るわれたサーベルを受け止めていた。


「大人しく刑を受けるとは思っていなかったが」女王が低い声で言った。「無駄なことだな。それに死ねば名前を残せるぞ?」

「あいにく、自分の名前に興味ないんだよね」


 眉をしかめた女王の強い力で、チェシャ猫のナイフが弾かれた。続けて女王が切り込もうとするのをチェシャ猫がナイフで防ぐ。

 その後も武器同士が紡ぐ激しい金属音が間断なく響いた。女王の鋭い剣戟をチェシャ猫が凌いでいる形だ。刃が振るわれる度、部屋の調度が次々と壊されていく。


 ドールハウスが上下に真っ二つにされる。

 ベッドの支柱が切断され天蓋が落ちる。

 枕と布団が切り裂かれ白い羽毛が舞い散る。

 飾り棚が破壊され人形たちの首と胴体が絨毯に転がる――。


 子供のための空間は見る間に無惨な様相を成していく。

 アリスは床に座り込んで、ただ見ていることしかできなかった。


 その時、一瞬早く動いた女王の蹴りがチェシャ猫の腹にめり込んだ。チェシャ猫は呻き、柔らかな絨毯の上に勢いよく倒れこんでしまう。

 女王は容赦がなかった。素早くチェシャ猫の胸郭を張りつけにでもするように踏みつけ、そのまま首を刎ねようとした。


「やめてよ!」


 アリスは叫ぶと同時に駆け出した。そして女王の身体に思い切りしがみつく。

 これには女王も少し驚かされた。自分が刑を執行するのを邪魔する者なんていないからだ。


 その隙を突いてチェシャ猫が肋骨を圧迫する脚をナイフで深く切り裂いた。骨まで達するような傷は絨毯に鮮血を飛び散らせ、女王はわずかに顔を歪める。

 チェシャ猫はすばやく脚を胸から払いのけ、体勢を崩した女王が床に片膝を着いた隙に立ち上がり、アリスの方へ振り返った。


「今のうちに」


 チェシャ猫はいつの間にかナイフをしまい、呆然とするアリスの手を引いて硝子の扉へ駆け寄った。


「逃がすか!」


 女王は膝を着きながらも怒号を上げサーベルを鋭く投げ打った。矢のように飛んできたサーベルは、チェシャ猫の右肩を背面から深々と貫いた。

 血がどっと溢れ、チェシャ猫が声にならない呻き声を上げた。温かな飛沫は壁や絨毯、そしてアリスの頬にもその赤を散らした。

 チェシャ猫は倒れこそしなかったが、それでもふらついて壁にぶつかり、左手で肩口をかばうように押さえる。


「いや、こんな――」


 唇をわななかせるアリスに、チェシャ猫は「平気」と笑って見せた。しかしそれはいつもよりも余裕のない笑みだった。眉が苦しげに寄せられ、右腕は使い物になりそうもない。

 チェシャ猫は血が噴き出すのもかまわず傷口からサーベルを引き抜き、その忌々しい凶器を床に捨てる。白いコートも拘束衣も鮮血で真っ赤に染まり、それはちょうど斬首刑の罪人の屍衣のようになった。

 しかし見てくれや痛みにかまっている暇はなかった。アリスは血の色や匂いに青くなりながらも、チェシャ猫を支えるようにして、今度こそ硝子の扉から逃げ出した。


「この猫が! よくもやってくれたな! 次は首を刎ねてやる!」


 だんだんと遠くなる子供部屋で、女王が喚いている。ナイフは腱を切断し、そのため脚が動かず追って来れないのだ。


「女王は、元気だね」


 チェシャ猫が切れ切れな口調でも軽口を叩くので、アリスは「喋らないで!」と釘を刺すはめになった。そして一旦立ち止まってエプロンを外すと、止血のためにチェシャ猫の肩の傷に押しつける。


「ありがと」


 チェシャ猫はアリスの頬に飛んだ己の血を、怪我のない方の腕で拭った。


 幸い辺りにはトランプ兵はいなかった。今の時間、ほとんどの兵は城の周囲の巡回をしているそうだ。おかげであまり早く走れない二人も、難なくチェシャ猫が知る城に秘密に出入りできる抜け道にたどり着くことができた。


「近くに病院はないの?」


 城の外の森で一息吐いたアリスは、チェシャ猫に話し掛けた。

 傷口からは血が小止おやみなく流れ、白かったエプロンは紅絹もみのように真っ赤になってしまった。早く治療をしなければ血が失くなって死んでしまう。


「そういうところはないけど、休めるところならあるよ」

「どこなの?」


 アリスはチェシャ猫を見つめ、チェシャ猫もアリスを見て、その場所を口にした。


「公爵夫人の館」



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