第5章 女王様の薔薇の園
Chapter V The Queen's rose garden
「あれが女王陛下の宮殿にして要塞だ」
帽子屋が示した先には、壮麗にして堅固な城が一際高く地に建っていた。
赤く染め上げられた外壁にいくつもの窓。空に聳える鋭角の屋根。それらの至るところに凝った装飾が施されているのが遠目にもわかる。
(綺麗なお城)
アリスは思わず見惚れた。それは誰もが夢見るおとぎの国の城だった。
近づくにつれ、石造りの城壁の周りに巡らされた堀から清らかな水の流れが聞こえてくる。水流を見ようと首を伸ばしてのぞいてみると、侵入者を防ぐために鋭く尖った杭が幾本と植わっていた。
おとぎの国は楽しいばかりじゃない。
二人が大手門の前に来ると、トランプを歪に人型にしたような不気味な何かが控えていた。
白く平たい長方形の胴体に首と手足が無理矢理縫い付けてあり、表にトランプのスート、裏には赤い薔薇とハートを模した図柄が刺青のように描かれている。
彼らは手に手に槍を持ち、城の門番や巡回をしていた。
「あの人たちは?」
「トランプ兵、ハートの城の兵隊だ」
城に入るには門の前の可動式の跳ね橋を通るしかないが、橋は巻き上げられた状態で訪問者を堅く拒んでいた。
しかし帽子屋が門番に取り次ぐと、すぐ様内部に合図が出される。
橋が滑車と頑丈な鎖によって軋んだ音を立てながら降りて来たと同時に、その先にある黒い樫の門扉が厳かに開かれる。
アリスと帽子屋は開かれた道を通り、ついにハートの城への入城を果たした。
「女王は薔薇が好きだ。紋章にも使われているし、広大な庭園も持っている。今はそこにいるだろう」
白い敷石の舗道を歩きながら帽子屋が言った。
「薔薇が好きなんて、少しは優しい人かしら」
アリスの気分が少し上向き加減になっていると、ふいに薔薇の甘い芳香が漂ってくる。
舗道の先に目を向けると、黝い茨の生垣に囲まれた薔薇園が見えてきた。重々しい差し錠がついた鉄柵の門の前では二人のトランプ兵が番をしている。
そこでも帽子屋が一言二言言葉を交わすと、それだけで番兵は門を開き、庭園の中に入れてくれた。
薔薇園は薔薇の色ごとに区切られており、その中でも赤い薔薇は大きな区域を占めていた。
眺めてみると同じ赤でもいろいろな赤がある。
紅玉のような赤、珊瑚のような赤、鳩の脚のような赤、――血のような赤。
赤の洪水に見とれながら歩くうちに、涼しげな噴水の近く、地面より一段高く作られた屋根つきのテラスが見えてきた。
「あれがハートの女王だ」
帽子屋が右手で示した玉座には、女王が供もつけずに一人で座っていた。
秀麗な容貌で険のある表情をしている。赤い衣装を身に纏い、赤い髪をした――
「男の人よ」
アリスは怪訝な表情で帽子屋を見た。
美しい顔は男のそれであるし、身体つきも女性のような柔らかさは見当たらない。赤い衣装はドレスなどではなく開襟型の軍服だ。その上に肩章に飾緒のついた暗い臙脂色の軍用コートを羽織っている。
アリスの視線の先で玉座に座しているのは、まぎれもなく男性だった。
「それなのに“女王”?」
胡乱げなアリスに、帽子屋は淡々と説いた。
「“女王”はこの国の最高権力者に冠される肩書きのようなものだ。その資格がある者がそう呼ばれる。男女の別は、あまり関係がない」
アリスはふーん、と納得した。
(不思議な、変わった国だものね。それくらい当たり前かも)
「つまりこの国の生き死には彼次第と言うことだ」帽子屋が続けた。「女王にサーベルを使う気を起こさせないことだな」
言われて、アリスは女王の傍らにあるサーベルを見た。黒塗りの鞘や柄頭には金細工の美しい装飾が施され、緋色の刀緒は鮮やかに刀剣を彩っている。それは一つの芸術品だった。同時に、女王が自ら刑を執行するための処刑器具でもあった。
「さあ、行くぞ」
帽子屋が歩き出し、アリスも意を決して後に続く。
「ご機嫌麗しゅう、女王陛下」
テラスにたどり着いた帽子屋は、シルクハットを取り機械的に一礼する。アリスもワンピースの裾をつまみ、出来るだけ優雅にお辞儀をした。
「なんだ、帽子屋か」
女王はどこか不機嫌そうに来訪者を一瞥した。そして顔を上げたアリスに気づき、わずかに瞠目する。
「お前に連れがあるとは知らなかったな」
「私の連れと言うよりも、貴方の客人ですよ」
帽子屋の言葉に女王は更に眉を寄せ、訝しげな顔をした。それを見て、不機嫌そうなのは元からなのかも、とアリスは思った。
「何だそれは。何者だ?」
問われたのは帽子屋の方だったが、彼は何も言わなかった。しばらくして、ようやく口を開く。
「そう言えば名前も知りませんでしたね」
アリスの方も、名前を聞いておきながら自分が名乗っていなかったことを今更思い出した。
「この間抜けが」
女王は忌々しげに吐き捨て、アリスの方に顔を向けた。
彼の瞳は髪や装いと同じく赤い。その眼に見つめられると、滴る血を見たような不安と恐れを覚えた。
「名前は何だ?」
「アリスです。女王様」
背筋を伸ばして顎を引き、アリスは精一杯行儀よく答えた。でも、声は少し震えてしまったかもしれない。
女王はアリスの立ち居振る舞いに特に気を留めた様子もなく、黒い編み上げの軍靴を履いた脚を組み直した。
「俺に何か用でもあるのか」
「はい、私、白兎に会いたいんです」
「あれがどうかしたか」
アリスは自分が不思議の国にやって来たいきさつを話した。すでに二回も同じ話をしていたので慣れたものだった。ただし、チェシャ猫のことは伏せておいた。
「とにかく、白兎を追いかけてここに来てしまったんです」
アリスが話し終えると、それまで静かに聞いていた女王は少し間を置いた後「わかった」と呟いた。
「白兎ののろまに何とかさせよう。しかし子供に追いつかれるなんて、あいつも焼きが回ったな」
「あ、ええと、正確には足跡をたどって来たんです」
アリスは何となく白兎の肩を持った。実際、チェシャ猫に教えられるまで白兎だとわからなかったくらい彼は早かった。
「まあ、あれがお前の祖母の家に無断で侵入した訳だからな。あれに非がある」
「臣下の非は主君の非ですからね」
「うるさいぞ帽子屋、首を刎ねられたいのか」
女王が鋭い目つきで帽子屋を睨みつけるが、睨まれた方は肩をすくめただけだった。
サーベルが使われてはたまらない。アリスはとっさに口を挟んだ。
「それで、白兎はどこにいるんですか?」
女王は「ああ」と浮かせかけた腰を今一度玉座に戻した。
「あれは所用で今はいない。いつ帰るかもわからんから、待ちたければ城で待てばいい」
アリスはほっとした。ようやく帰る目途がついてきたのだ。
「ありがとうございます!」
頭を下げるアリスを見ながら、帽子屋が口を開いた。
「それでは、私はそろそろお暇しよう」
アリスははっとして帽子屋に向き直った。少し苦手な彼だったが、ここまで無償で案内してくれた優しい人だ。
「ありがとう、帽子屋」
アリスは帽子屋の水銀を湛えたような目をじっと見つめた。お礼をするときは相手の目を見るものだから。
「お礼に何もできなくて、ごめんなさい。せっかく良くしてもらったのに」
「そんなことはない。その髪を切らせてくれればお礼になるが」
微笑んだまま言葉を失うアリスに、帽子屋は笑いもせず「冗談だ」と呟いて背を向けると、来た道を戻って行った。
アリスがその後ろ姿をぼんやり見ていると、女王が口を開いた。
「まあ、ここにいる間は――どうせあとわずかだろうが、その髪は切らんことだな。あいつにとって完璧になれば、ラベルを付けて飾られるぞ」
そう言って女王はどこか面白がるような笑みを浮かべた。
その言葉が本当なのか冗談なのか、アリスにはわからなかった。