第4章 名前と罪状
Chapter IV The name and the guilt
お茶会を後にして三十分は経った頃、アリスはいまだに帽子屋と連れ立って森の中を歩いていた。
「ハートの城まで、あとどれくらい?」
アリスは帽子屋に尋ねた。この質問をするのは三度目だった。
「到着するまで」
帽子屋がこう答えるのも三度目だった。
彼らはこれ以上の会話をしなかった。つまり、二人は出発してから合わせて六度しか言葉を発していなかった。
城への道は岐路がいくつもある複雑なものだった。案内のための立て札もないので、仮に道を教えてもらったとしても一人では到底たどり着けなかっただろう。
アリスは周囲を見回した。仄暗い木々が立ち並ぶ、いつまでも変わることの無い光景。自分以外の異質なものと言えば横を歩く帽子屋の、そのまま葬式に行けそうな黒い姿だけだ。
アリスと帽子屋の間にはちょうど人一人分の空間があった。無理に縮める気もないが、これ以上離れてしまうのも少し寂しい。そんなことを思いながら、アリスは何気なく彼の頭の上にあるシルクハットを見た。上等の絹が張られたすばらしい帽子。彼の作品だろうか。
「素敵な帽子ね」
「これは売り物だ」
帽子屋は賞賛されたシルクハットのつばをわずかに持ち上げた。
確かにピンで留められたカードには“In this Style 10/6(このスタイル、10シリング6ペンス)”と書かれている。
「売り物をかぶってるの?」
「宣伝になる」
アリスはなるほどと思った。そうなると帽子屋は、さしずめ生きたマネキンと言ったところだろうか。
「そういえば、名前は何?」
チェシャ猫にしても、三月兎や眠り鼠にしても、呼ばれる名前は固有名詞と言うより種族の名だ。アリスは個人に、その人だけにつけられた名前を知りたかった。
「聞いたはずだろう。帽子屋だ」
「それは職業でしょ。そうじゃなくて、エドワードとかヘンリーとかフレデリックとか。そういう名前のこと」
「私は帽子屋だからそう呼ばれている。それが名前だし、それだけあれば十分だ」
「じゃあもし、帽子屋じゃなくなったら、名前は?」
少し意地悪な質問かもしれなかった。しかし帽子屋は、アリスをちらと見て「ない」と答えただけだった。
会話が途切れ、辺りを沈黙が支配する。
アリスは何か話すことはないかと取り上げるべき話柄を探した。思いついたのはチェシャ猫のことだった。
「チェシャ猫とは友達?」
そもそも帽子屋達のもとにアリスを導いたのはチェシャ猫だったので、親しいものかと思っての質問だった。そんなアリスの問いに、帽子屋はわずかに首を傾げ、口を開いた。
「少なくともお互いにそういう役割は求めていない」
「ちがうのね」
回りくどい答えに溜め息を吐き、次に気になっていたことを聞いた。
「あの人、病気か何かなの?」
「何故そう思う?」
「病院で着るようなベルトが付いた服を着てたから」
「あれは囚人服だ」
帽子屋は平然と言ってのけた。
「あいつは死刑囚だからな」
この答えには、アリスは心底驚かされた。チェシャ猫自身女王に嫌われていると言っていたが、まさか殺したいほどとは思っていなかった。
「どうして?」
「女王主催のクロッケーの試合の邪魔をして死刑を言い渡された。だがいくら捕まえても逃げてしまうので保留になっている。あいつも何のつもりか、拘束衣をそのまま着ている」
アリスは黙り込んで物思いに沈んだ。
囚人服を着続けるチェシャ猫も変だが、お茶会からの話も合わせて女王も考えものだとわかったからだ。どれほど試合の妨害をしたのかは知らないが、それで極刑を言い渡すとはかなり過激な人物のようだ。
アリスは俯いて大きく息を吐いた。城に行くのが、今更ながら恐ろしくなったきた。
「さあ、到着だ」
帽子屋の唐突な言葉に、アリスははっとして顔を上げた。
この国は消えるのも現れるのもいつもいきなりだ。
目の前には、いつの間にか女王の住まう城が聳えていた。