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第37章 青薔薇色の夢と浅い眠り

Chapter XXXVII Blue rosy dream and light sleep



 アリスは夢を見た。

 見渡す限り何も見えず、何も聞こえない真っ暗闇。そんな中に、アリスはぽつんと立っていた。

 どこを向いても文目あやめもわからぬ闇一色だが、どうしてか自分の姿だけは、灯りがついているようにはっきりと見えた。着ているものは赤いネグリジェではなくいつもの青いワンピースと白いエプロンだ。見下ろしてみれば、靴下と靴をきちんと履いていた。

 足元から顔を上げると、三ヤード程先にいつの間にか黒い鉄柵の門が現れていた。アリスが近づいて行くと、門はゆっくりとひとりでに開いた。

 開け放たれた門の向こうに広がっていたのは、ハートの城の薔薇園だった。ただし、薔薇はすべてアリスの名がつけられたあの青い薔薇だ。アリスが青薔薇の園に一歩踏み出すと、背後の門は開いたときと同じようにひとりでに閉じると消えてしまった。


 頭上の空は――それが空であるかはわからないが――星も月もない闇夜だったが、薔薇園の花たちは白昼の陽光を浴びているように自らの青色を輝かせていた。時折そよ風が吹き、花や茂みがささやかな音を立てている。

 アリスは石畳の道を歩いた。漆黒の中で咲き誇る青薔薇を眺めながら進んで行くと、少し離れたところで何かが白いものがひらひらと飛んでいるのが見えた。近づいてみると、それは帽子屋邸で見たバタつきパン蝶だった。

 薄いパンの翅をはばたかせ、アリスの知る他の蝶と同じように空中を舞っている。アリスがそっと手を伸ばすと、蝶は逃げもせず指先に止まった。

 自由だが、すぐに訪れる死か。籠の中だが、ある程度の時間がある生か。

 どちらが幸せかは、やはりアリスには判断できない。

 バタつきパン蝶はしばらく翅を広げたりたたんだりを繰り返し、角砂糖の頭を上下させていた。しかしやがて飽きたのか、アリスの指を離れてどこかへ飛んでいってしまった。


 アリスはその姿が闇に溶けるまで見送ってから、また歩き始めようと前を向いた。するとその進路には、忽然と黒い扉が出現していた。アリスが歩み寄ると、扉はやはりおのずから開いた。中をのぞくと石の階段が暗い地下へと続いていた。アリスはゆっくりと、慎重に降りて行った。しばらくしてたどり着いたその場所は、どうやら地下牢のようだった。

 燭台の乏しい灯りの下、石の廊下沿いには茨のように鋭い棘が生えた鉄格子の檻がいくつもあった。どれも空っぽかと思ったが、床を見ると檻の一つ一つに首を刎ねられた陶磁器人形ビスク・ドールが転がっていた。気味悪く思いながらも、アリスは引き返すことなく奥へ奥へと進んで行った。歩く度に、固い石床に靴音が響いた。

 やがて最奥の牢にたどりついた。特に大きく広い檻の中には、人形ではない生きた誰かがいるようだ。薄暗くてよく見えないが、ぼんやりとした輪郭から椅子に座っているらしい。

 出入り口には頑丈な錠がかけてあったので、アリスは鍵を探して辺りを見回した。中にいる誰かを出してやるためというより、自分が中に入るためだった。

 地下牢の隅まで行くと小さなテーブルがあり、その上に分厚い本が一冊置いてあった。表紙を見ると裁判の判例集で、中に何かが挟まっている。本を開くと出てきたのは小さな鍵だった。これが錠の鍵だろう。そして鍵が挟まっていたページには一篇の詩のような罪状が書かれていた。


 猫さん猫さん どこ行った?

 王女さま見にハートの城へ

 猫さん猫さん 何をした?

 女王さまと血で血を洗う殺し合い


 判決の欄には“有罪、死刑”とあった。アリスは本を閉じてテーブルに置くと、再度最奥の牢の前に立った。鍵穴に鍵を差し込んで左に回すと、軋むような嫌な音を立てて錠がはずれる。アリスは鉄格子の棘に触れないようにして牢の扉を開けた。


 そこには、背のまっすぐな椅子に座り、目を閉じているチェシャ猫がいた。暗さのためにそれまで気づかなかったが、ただ座っているのではない。拘束衣のベルトをきつく締められ、さらにその上から鎖で縛られていた。首元を見ると、怪我でもしたのだろうか、真新しい包帯が無造作に巻かれている。

 アリスが突っ立っていると、チェシャ猫は閉じていた目を開けた。


「助けてくれないの?」


 チェシャ猫はいつもと変わらない飄々とした態度でニヤニヤと笑っている。目の前の彼はひどい戒めを受けているが、アリスはよくわからない理由からそれを解いてやる気にはなれなかった。動こうとしないアリスに、チェシャ猫はさらに笑みを深めた。


「俺が死刑囚だから、大人しく刑を受けろってわけだ。大したことをしたつもりはないんだけどね。有罪の決め手は何?」

「それはわからないわ」アリスは夢の中ではじめて口をきいた。「私は裁判長じゃないから」

「そうだね、裁判長じゃない」


 笑みの形に細められた金色の瞳が、地下牢の微かな灯りにきらめいた。


「そしてエイダでもないし、メイベルでもない。ガードルートでも、フローレンスでもない。じゃあ誰? 不思議の国の王女様だ」


 アリスは唇を引き結んだまま顔をしかめた。そうなることを望んでいないと知っているくせに、彼はそう呼ぶのだ。アリスの責める視線にもかまわずチェシャ猫は言葉を続ける。


「そしてゆくゆくは女王陛下さ。悪くないだろ? はまり役だと思うよ……民はそろってこうべを垂れて、通る道には薔薇の花がまかれる。気に入らない奴がいれば首を刎ねればいい。まあ、たまには俺みたいに逃げる奴もいるけど――ああ、今はこの有り様か。つまり、大抵のことは思い通りさ」


 随分よくしゃべるな、と思った。体が動かせない分、口が動くのだろうか。

 ふと彼の首元を見ると、ついさっきまで白かったはずの包帯から少しずつ赤いものが染み出している。まるで白薔薇が赤薔薇に塗り替えられているかのように。そしてその色は紅玉のような赤でも、珊瑚のような赤でも、鳩の脚のような赤でもない――血のような赤だった。

 焦燥感に駆られて、アリスはチェシャ猫の首に片手をのばした。包帯の端を掴んで引っ張ると、二重三重に巻かれていたはずのそれは不思議なほどあっけなくほどけた。

 支えを失くした首が、ぐらりと傾いた。



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