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第36章 夢見の支度

Chapter XXXVI Preparations for dream



 欠伸をしたきり何も言わなくなってしまったキャタピラーを残して、アリスは部屋を出た。扉を閉めてから溜め息を吐いて、手の中にあるブリキの箱を見る。家に帰るにはこの箱の中のものたちを口に入れる必要があるらしいが、それがいつなのか、どこでなのかは教えてもらえなかった。だが沈んでいても仕方が無い。目的に向かって少しでも前進した、と思うことにした。

 ブリキの箱をそっとポケットに入れたところで、向こうの廊下に白兎がいる見えた。獣の姿の白兎は二本の後ろ脚でぱたぱたと駆けている。アリスが声を掛けると、こちらを向いてひとつ飛び跳ねた。


「よかった、こちらでしたか」


 すぐ様走ってやって来た白兎は、アリスの目の前でぴたりと止まった。急な停止に長い耳が前後に揺れ、チョッキの胸元から懐中時計が飛び出した。


「パーティーは終わったのね」

「ええ、陛下が閉会の宣言をしました。招待客たちも帰り始めています」


 懐中時計をふところにしまいながら、白兎はふう、と長い息を吐いた。忙しそうな様子は相変わらずだが、大きな催しが一段落したので少しほっとしているようだ。息を吐き終えると、白兎は小さな前脚で自分が来た道を示した。


「お疲れでしょう。湯浴みの用意をしてありますので、こちらへどうぞ」


 案内された部屋は、キャタピラーの水煙管とはまた違った、柔らかな花のにおいに満ちていた。中ではすでに数人の女中が控えており、白兎は彼女たちに指示をするとまたどこかへ駆けて行った。

 カーテンがめぐらされた室内を見回しながら、アリスは促されてまず靴を脱いだ。ブリキの箱はポケットから取り出し、大事なものだからと断って鏡台の上に置かせてもらった。

 介添えの女中たちに手伝われて、エプロン、ワンピース、ペティコート、スリップ、ドロワーズ、靴下と次々と脱いでいく。裸にされて心細く思っていると、すぐに白い薄絹のネグリジェのようなものを着せられ、アリスは幾分かほっとした。


 甘い香りが立ち込める浴場は広く、大理石の床面の上に猫脚のバスタブがいくつも置かれていた。アリスはその中の一つに連れて行かれ、赤い薔薇の花がいくつも浮かぶ湯に抱えられて入れられた。

 底が斜めになっている浴槽に、脚を伸ばしてゆったりと浸かる。女中が陶製の水差しで髪や体にぬるい湯を注ぐと、肌は水分をはじき、濡れたブルネットの髪はいつもより濃い褐色になった。頬にはりつく髪を指で払いのけながら、アリスは一番近くにいる女中を見て口を開いた。


「このお湯には何が入っているの?」


 両の手の平ですくってみた湯は乳白色をしており、薔薇の他においしそうな甘い香りがする。


「薔薇水や糖蜜、オレンジ・マーマレードなどが入っております。それから鏡の国のミルクです」

「ミルク? 鏡の国の?」

「はい。このミルクは、味は飲用に堪えるものではありませんが、体にはとても良いものなのです」


 どうやら鏡の国のミルクはまずいらしい。今のところ役に立つかわからない知識だが、アリスは覚えておくことにした。

 バスタブから上がると湯浴み用のネグリジェを脱がされ、白絹でかいがいしく肌と髪を拭かれた。コーカス・レースに参加しなくても、体をすっきりと乾かすことはできるのだ。浴場を出ると、下着と真っ赤なネグリジェが用意されていた。スリップやドロワーズは肌触りがよい上等のもので、細かな襞飾りやリボンがあしらわれている可愛いらしいものだった。ネグリジェも、ドレスといってもいいような豪奢なもので、レース飾りやフリルがふんだんに使われ、裾もギャザーを寄せたサテンの生地が柔らかそうだった。それらを女中たちの手によって着せられ、裸足にも赤い繻子の部屋履きを履かされる。そうしてブリキの箱を置いていた鏡台に座らされると、まるで絹糸でも扱うような丁寧さで櫛で髪をかされた。


 まさにお姫様の扱いだ。湯に浸かってきれいになった髪や体が気持ちが良いことは確かだったが、ここまで大勢の人たちに世話をされた経験がないアリスは随分落ち着かなかった。

 髪の手入れ――アリスの髪はせいぜい肩より少し長いくらいだったので、大した時間はかからなかった――が終わり、ネグリジェの上からこれまた赤い化粧着ドレッシング・ガウンを掛けられる。アリスがそのポケットにブリキの箱を入れていると背後でノックの音が響いた。女中が扉を開けると、人の姿になった白兎が立っていた。


「湯浴みは終えられたようですね。それでは寝室にご案内致します」


 アリスが返事をしながら椅子から立ち上がると、女中たちがそろって頭を下げた。彼女たちにお礼を言い、ついさっきよりずっと背の高くなった白兎の後に着いて部屋を出た。


「明日は陛下がおっしゃっていたようにクロッケーの試合を行います」寝室への道すがら、白兎は明日の予定をアリスに伝えた。「午前十時からになりますので、そのつもりで」

「準備が大変そうだったわね」

「ええ、場所さえあればいつでもできるコーカス・レースなどとは違って――ああ、そういえば参加されたそうですね、とにかく、何かと入用なものが多い競技でして」


 話をしていると、間もなく寝室の扉の前に着いた。通された部屋は赤い壁紙に赤い絨緞、赤を基調とした家具調度が並び、その一色に目がちかちかした。壁に飾られた金額縁の絵があったので見てみると、夕陽の下の薔薇園を描いたものだった。

 ベッドは壁に接した頭側の支柱が二本のみの、俗に言う天使の寝台エンジェル・ベッドだった。優雅な天蓋がついており、深紅の天鵞絨びろうどや絹で飾られている。


「もうお休みになられますか? もしまだ起きていられるのであれば、何か書物でもご用意しますが……」

「いいえ、もう寝るわ。疲れちゃったから」


 部屋履きと化粧着を脱いだアリスはさっさと羽毛の布団に潜り込んだ。するとシャンデリアの灯りがふっと消え、部屋は赤から闇の色に変わった。おやすみなさい、と一礼する白兎にアリスもおやすみを返し、部屋の扉は閉じられた。

 朝からほとんど休み無く動き回っていたので、体はくたびれ果てていた。自分の肌や髪から香る薔薇の甘いにおいに包まれて、アリスは眠りについた。



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