第35章 怪しく危険なおいしいものたち
Chapter XXXV Doubtful and dangerous delicious foods and drinks
階段を降りたアリスが騒がしい大広間に登場しても、近寄ってくる住人は誰一人としていなかった。皆が皆食事やおしゃべりに夢中で、見向きすらされない。しかし寄って来られてもどうすればいいのかわからないアリスはかえってほっとした。
とは言えこのまま突っ立っているわけにもいかないので、アリスはひとまず一番近いテーブルを目指して歩き出した。浮かれ騒ぐ住人たちや忙しく動く給仕たちが進路を遮るが、その合間を縫って何とかたどり着く。白いテーブルクロスの前で一息吐くと、顔を上げてテーブルに並べられている料理を眺めた。
カーヴィングナイフとフォークが刺さったローストビーフ、焦げ目が香ばしいロブスター、尾を口にくわえた鱈の香草パン粉焼き、肉汁がたっぷりのミートパイ。銀の皿に山のように積まれた果物、クリームとチェリーのアイシングがたっぷりと使われたケーキ、ねじれた大麦糖。ブラウン・シュガーがふりかけられたアップル・プディングは白兎の庭で採れた土に成る林檎が材料だろうか。
違うテーブルに目を移すと、動物たちの誰かが期待していたように殻つきの牡蠣もあった。砕いた氷の上に並べられ、檸檬と塩と胡椒が添えられている。人気の料理のようで、傍らには早くも殻の山が築かれていた。
豪華な料理を前に空腹を感じながらも、アリスはまず周りを見回してみた。いくらおいしそうに見えても、不思議の国の食べ物が必ずしも安全とはいえないことはこれまでの経験からわかっていたからだ。
しかし見ている限りでは皆機嫌よく食べているし、城のキッチンで作られたものなら奇妙なものと隣り合わせということもないだろう。何よりいいにおいのする料理を前にして、これ以上食欲を我慢をするのは無理な話だった。
「やあ、楽しんでる?」
何から手をつけようかと料理を見回していると、グリフォンが向こうからやって来た。片手には食べかけローストビーフが刺さったナイフを持っている。
「ええ、楽しいわ。でも何から食べようか迷ってるの」
「それなら、まずはスープからにしたら? 持って来てあげるよ」
そう言うや、グリフォンは残りのローストビーフを食べ終え、突っ立っていたアリスを手近な椅子に座らせた。そして白磁の蓋つきの大きな鉢があるテーブルの方へ向かう。そこでは給仕が杓子でスープ皿にスープを注いでおり、グリフォンはそれを二つ受け取ると、戻ってきて一つをアリスの前に置いた。
目の前で湯気を立てるスープはどろどろとした緑色で、一口の大きさに切られた何かの肉が浮いていた。
「海亀のスープだよ。まがいものじゃない、本物のね」
グリフォンがアリスの隣に座りながら言った。もう一つのスープは自分のためのものらしく、スプーンを使わずに皿から直に飲みはじめた。
「おいしいの?」
「もちろん。俺なんかこれで三杯目だし、海亀もどきなんかは、ディナーにはこれさえあればいいって言ってるくらいだよ」
アリスはスープをスプーンですくうと、おそるおそる口に運んだ。一抹の不安はあったが、温かなスープは味も風味の良い肉も、とても美味しかった。
早くも皿を空にしたグリフォンが次の料理を食べている横で夢中でスープを賞味していると、背後で誰かの気配を感じた。
「葡萄酒はいかが、お嬢さん」
振り向くと、片手にグラスを持った三月兎がいた。相変わらず挙動に落ち着きはないが、青い盛装の釦穴に白薔薇の花を挿し、パーティのためにめかしこんでいた。
ずいと勧められた葡萄酒には、よく見ると釦が二、三個沈んでいた。乾杯の前に撒かれたものが入ったらしい。
「ありがとう、今はいいわ」
アリスは丁重に断った。三月兎は「おや、残念」とさして残念そうでもない口ぶりで釦入りの葡萄酒を放り捨てた。グラスが割れ、葡萄酒と釦が大理石に飛び散る。
驚くやら呆れるやらで目を丸くしていると、いつの間にか帽子屋が近くに来ていた。黒手袋をはめた手で酒ではなく紅茶を嗜んでいる。アリスに目を向けると、丁寧に一礼した。
「本日はお招き頂き感謝する」
「どう致しまして、でいいのかしら」アリスは椅子から立ち上がりながら言った。「招待したのは私じゃなくて女王様だけど。――その帽子も売り物?」
アリスは彼がかぶっているシルクハットに目を留めた。銀細工の蝙蝠が装飾された夜のように黒い絹のシルクハットだ。アリスの問いに、帽子屋は何も言わずに片手でシルクハットの向きを変えた。ピンで留められたカードには“Not for sale(非売品)”の文字がある。
アリスはなるほどと納得した。
テーブルの上でうずくまっている眠り鼠(いつの間にか首元にはきちんとタイを締めていた)をつついたり、公爵夫人が甲高い声で話しているのを聞いたりしながら、アリスはぼんやりとパーティーを過ごした。時折、たまたまこちらに気づいた住人たちが王女様だ、アリス様だ、などと声を掛けてきたが、それだけで皆さっさと自分の食事とおしゃべりに戻っていった。
しばらく料理をつまんでいたら、おなかが膨れてきた。それまであまり感じていなかった疲れと眠気が頭をもたげてきて、喧騒から少し離れたい気分だった。アリスはまだまだ料理に夢中のグリフォンのモーニングの裾を軽く引っ張った。
「少し外に出てもいいかしら」
「ん? ああ、かまわないよ。どうせあとは閉会の挨拶くらいだしね」
アリスは頷くと、出入り口の扉に向かって歩き出した。番をしているトランプ兵が、一礼してから扉を開け、アリスが出た後にその出入り口を閉ざした。分厚い扉越しに、大広間の喧騒はひどく遠いもののように思えた。
アリスは誰もいない廊下を歩いた。廊下の窓からは旗や花、灯りで飾り立てられた敷地が見える。それらを眺めながら、チェシャ猫は今頃どうしているだろうと考えた。
ある扉の前を通った時、覚えのある香りが鼻をついた。体の奥まで染みつくような、ねっとりとした花のにおい。腐朽の森で、香炉のような亭でかいだ、あの香りだ。
アリスは辺りを見回して誰もいないか確認した後、把手に手を掛けてゆっくりと扉を開いた。隙間からのぞいてみると、部屋の中は白い煙でかすんでいた。しかし目をこらせば、その向こうで少女の輪郭が長椅子に肘をついて座っているのがわかった。
「あなた、だあれ?」
水煙管の煙を吐きながら、少女――キャタピラーが言った。
「アリスよ。今日会ったわ」
アリスは答えながら室内のあちこちに視線を向けたが、部屋にはキャタピラーしかいないようだった。体をそっと部屋の中にすべり込ませ、開けたときと同じくゆっくりと扉を閉めた。
「来てたなんて知らなかったわ。大広間には来ないの?」
「招かれたから来たけど、生き物がたくさんいるのは嫌なの。お祭り騒ぎの催しに出て、たくさんの顔を見る気はないわ」
キャタピラーは赤い唇で水煙管の吸い口をくわえた。アリスはエプロンのポケットからブリキの箱を取り出し、紫煙を吐く彼女に近づいた。
「今日あなたが言ってたものって、これのこと?」
アリスが箱の蓋を開けると、キャタピラーは目だけを動かして中の小瓶とケーキを見た。唇から気怠げに紫煙を吐く。
「あら、見つけたのね。片方は小さく、もう片方は大きくなる」
「これをどうすればいいの?」
「見てわからないの?」キャタピラーが緑玉のような瞳をぱちくりさせる。「ご丁寧に書いてあるっていうのに」
確かに、それぞれには『私をお飲み』、『私をお食べ』と書かれている。アリスは箱の中身を見下ろしながら、困惑の口調で問うた。
「口に入れろってことよね。この二つ、何でできてるのかしら?」
「キノコよ。腐朽の森のね」
森を構成していた巨大で不気味なキノコ群を思い出し、アリスはいよいよ食べる気を失くした。
「その時になればわかるわ」
その時、大広間から部屋越しでも騒がしいと感じるほどの歓声が上がった。アリスは驚いて振り返ったが、キャタピラーは見向きもせずに一つ欠伸をした。
「パーティーはお開きみたいね。さあ、帰るとしましょう」
私も帰りたい、とアリスは思った。




