第33章 宴はもうすぐ
Chapter XXXIII A Mad Party is close
アリスが音のした方へ目を向けたときには、女王はすでにそちらに歩き出していた。先程鍵をかけたばかりの扉を乱暴に開けてバルコニーに出る。グリフォンもそれに続いたので、アリスも小走りに着いて行った。
女王は手すりに片肘をつきながら大手門の方を見ていた。アリスが彼の横に来て同じ方向を見ると、敷道沿いに並んだトランプ兵たちが門をくぐった馬車に喇叭を吹き鳴らしていた。
「ああ、公爵夫人のお出ましだ」
アリスの隣に来たグリフォンが手すりから身を乗り出して指を差した。
馬車は白と金と豪華なもので、上等の馬具をつけた馬が四頭で牽いている。ここまでは普通だが、その馬は公爵夫人と同じく肉の無い白骨で、その目にはやはり硝子の義眼が嵌められていた。御者として鞭を持っていたのはあの蛙の従者だった。
馬車は城の門の前で止まり、蛙の従者が御車台から地面に降りた。彼がうやうやしく馬車の扉を開くと、口元に扇をあてた公爵夫人が現れた。骨の体に豪奢なドレスをまとい、花や羽がにぎやかに飾られたつば広の帽子をかぶっている。彼女は蛙の従者を従えて、長い裳裾を引きずってハートの城に入城した。
「あの女は不愉快だ」
女王がぽつりと呟いたので、横にいるアリスはぎくりとした。目だけで見上げて表情を伺うと、公爵夫人が入っていった城の入り口を睨みつけ、ひどく不機嫌そうだった。彼はチェシャ猫が嫌いだから、チェシャ猫と仲が良い彼女も嫌いなのかもしれない。
寝床と食事を提供してもらった恩があるアリスは、女王が「首を刎ねる」と言い出さないうちに慌てて口を出した。
「私はそんなふうには思いませんでした。親切だし、従者の方もいい人だったし――」
本当のところはよく知らない公爵夫人を、無難な言葉を選びながらかばう。女王はそんなアリスを一瞥したが、それだけですぐ城の入り口に視線を戻した。
「骨が擦れる音が癇に障るし、声も甲高い。そこにいるだけで耳を殴られたような気分になる。しかしあの有様では、首を刎ねたところで甲斐も無い」
憂鬱そうに話す女王は、公爵夫人に対してチェシャ猫に関係なく不満を持っているらしい。だが、だからと言ってどうこうする気はないようだ。
アリスがひそかにほっとしていると、女王は寄り掛かっていた手すりから体を離した。
「あんな女のことはどうでもいいんだ。祝宴はもうすぐ始まる。――あとのことは白兎に聞け。ついさっき戻ったばかりだ」
それだけ言うと、返事も聞かずに女王はバルコニーから屋内へ入り、そのまま客間を出て行った。
扉が閉められ姿が見えなくなると、アリスは肩の力が知らず抜けていくのを感じた。女王の前ではどうしても気が張ってしまう。傍らでは、特に緊張していたわけでもないグリフォンが両腕を上げて伸びをしていた。
「それじゃあ、白兎を探そうか」
「そうね。でも、どこにいるのかしら」
「あちこち走り回ってるだろうから、城の中を歩いていればそのうち会えるよ」
グリフォンが部屋の扉を開けて手で促したので、アリスは大人しく部屋から出た。
城の廊下には夕闇が忍び寄り、赤い絨毯に濃い影を投げかけていた。
歩いていると、何度も女中やトランプ兵とすれ違ったり追い越されたりしたので、皆パーティーの準備に大わらわなことがわかる。途中で会った女中に、グリフォンは思い出したように眠り鼠入りのティーポットを預けた。女中は一礼すると、彼をどこやらへと持って行った。
その後姿を見送りながらアリスは何気なく口を開いた。
「女王様が公爵夫人のことを言ったときは、ひやひやしたわ。不機嫌そうだったから」
「いつものことだよ。陛下はどの住人に対してもあんなものさ」
「でも、あの人はチェシャ猫と仲が良いでしょう。処刑はされないまでも、牢屋に入れろなんて言うんじゃないかって思って」
アリスの言葉に、グリフォンが声を出して笑った。何かおかしなことを言ったかと目をぱちくりさせていると、彼は否定するように片手を振った。
「あの二人、別に仲が良いわけじゃないよ」
「だけどチェシャ猫が怪我をしたときに真っ先に頼ったわよ。親しいんじゃないの?」
「確かにチェシャ猫はよく公爵夫人の館にいるけど、あいつが気に入ってるのは公爵夫人っていうより彼女の館の方だよ。日当たりがいいし、水辺からも遠いからね。猫ってほら、人より家に居つくからさあ」
そんなものか、とアリスは思ったが、ふと自分の飼い猫もそうなのだろうかと考えてしまった。自分よりも家が好きなんて、それは少し寂しい。
「公爵夫人は来るもの拒まずなだけさ。俺が行ったってそれなりにもてなしてくれるよ。彼女は旦那とは別に暮らしてるから、気ままなものだしねえ」
「公爵夫人の旦那さんってことは、公爵様ね」
「そうだよ。海亀もどきっていうんだけどね、俺の友達なんだ。そいつは海辺の屋敷に住んでるよ」
「その公爵様は今夜来るの?」
「どうかな? 招待状は出してるけど」
そこまで話したところで、廊下の向こうから何か白くて小さなものがやって来るのが見えた。緋色の絨毯を一直線にこちらへ跳ねてくる。目の前で立ち止まったそれは、探していた白兎だった。
「こちらにいらっしゃいましたか。戻られたと聞いたので、探していました」
白兎はふう、と一つ息を吐いた。走ったせいかチョッキのポケットからレースの扇子と白手袋が飛び出している。アリスが白兎の家で彼に投げ渡したものだった。
アリスは少し屈んで白兎を見下ろした。
「私のお披露目をするって本当なの?」
「ええ、急で申し訳ないのですが」
白兎の長い耳がしおれ、髭が力なく下がった。ひどく申し訳なく思っていることがわかる。パーティーに対して気が進まないことは確かだが、愛くるしい兎の姿でそう悲しそうにされると、文句や余計なことを言って彼の仕事を増やす気にはなれなかった。
「何をすればいいの?」
「何もしなくてかまいません。今夜はお姿を披露するだけなので、陛下のお傍にいて頂ければ、それで」
自分のいまだ少し垂れている長い髭を右の前脚でこすりながら、白兎はアリスを見上げた。
「陛下は常にない上機嫌です。処刑予定の罪人に恩赦を与えて減刑や釈放を行っています。通常ではありえません」
「恩赦があるなら、チェシャ猫には?」
「あの男は無理でしょう」
アリスの問いに白兎は笑った。正確には瞳が細まり、口元が緩んだのだが、獣の姿でも笑ったとわかる表情だった。グリフォンも「ほら、言った通りだろう」と一緒に笑っている。
ひとしきり笑った後、白兎は懐から懐中時計を取り出して時刻を確認した。
「パーティーは午後六時から始まります。今の時刻は――」
前脚を伸ばし、アリスにも懐中時計を見せてくれた。硝子越しの白い陶器の文字盤の上で、長針が“VI”を、短針が“V”を指している。
「五時三十分です。あと三十分ですので、そろそろ大広間へ行きましょうか」
白兎は懐中時計をしまい、そして慰めるようにつけくわえた。
「あなたにとってはいかれたパーティーでしょうが、きっと、楽しいものになりますよ」




