第29章 招かれざる客のふるまい
Chapter XXII Behavior of an unbidden guest
家の中は静まり返っていた。何の物音もせず、何かの気配も感じない。本当に誰もいないようだ。
チェシャ猫が扉を閉める音を背後に聞きながら、アリスはそっと歩き出した。
吹き抜けの玄関ホールはいかにも音が響きそうだが、柔らかな絨毯のおかげで靴音は響かない。しかし他人の家に無断で入り込んでいるやましさから足の運びは自然と静かなものになった。もともと足音を立てないチェシャ猫は、天井に施された化粧漆喰を大した感慨もなく見つめながらアリスの後ろを歩いていた。
結局玄関ホールで目に入ったのは、珊瑚色の薔薇が生けられた花瓶、絹が張られた長椅子、重たげなカーテンなどで、アリスが探している“何か”に思しきものは無かった。
ホールを突っ切ってしまうと、二階へ上がる階段に出くわした。アリスは薄暗い階上を見上げた後、チェシャ猫に顔を向けて小声で話し掛けた。
「二階から探した方がいいかしら。あなたはどう思う?」
「さあね。あんたの思う通りにすればいいよ」
目を細めてこちらに微笑みかけながらも、チェシャ猫はつれない返事だ。アリスは唇をとがらせた。
「ちょっとだけでも意見を聞かせてよ。私はこの家のこと少しも知らないんだから」
「そうは言ってもねえ、俺だって詳しく知ってるわけじゃないんだよ。まして、何を探せばいいかもわからないのに」
「そうだけど、何か心当たりでもない? “片方は大きく、もう片方は小さくなる”ものに」
「――全然」
チェシャ猫は首を振って答えたが、アリスは眉をひそめた。質問に対する返事が早過ぎないか、そうでもないのか、本当に知らないのか、面倒で考えてもいないのか、知っていて知らないふりをしているのか、いろいろな可能性を考えた。何せこの猫の青年は、人をからかって遊ぶくせがあるのだ。心の内を探ってみようとチェシャ猫の表情を伺っててみるが、笑ってるばかりの顔を見ていても答えは出なかった。
アリスは諦めて、まずは二階へ行くことにした。
無断で家の中に入っているということを忘れず、手すりに手を掛け、一段一段を慎重に踏みしめて進む。グランドファーザー・クロックが置かれた踊り場を通って階段をのぼりきると、廊下の突き当たりに扉があるのが見えた。
「あの部屋から調べましょう」
そう言って廊下を歩き出そうとした時、庭の方から硝子の割れる音が聞こえてきた。ぎょっとして耳を澄ませると、音は一度ではなく二度、三度と続いた。何事かと庭側の窓に近づいて外を見ようとしたアリスは耳に入ってきた声に息を呑んだ。
「ビル! 温室を荒らすなと言ったでしょう! 中の胡瓜が台無しじゃないですか!」
庭で怒鳴っているのは、ここにはいないはずの白兎だった。アリスは窓から飛びのくように離れ、たたらを踏んだところでチェシャ猫に背中を支えられた。
「白兎がいるわ」
押し殺した声で焦るアリスに、チェシャ猫は背中に添えていた手を安心させるように肩に置いた。白兎の怒号は続く。
「硝子も残らず割りやがって、何度言ったらわかるんだ! パット! パットはどこ行った! ビルがまたやらかしたぞ!」
激昂して口調が乱れはじめた白兎にアリスが息を潜めていると、チェシャ猫が顔を寄せて囁いてきた。
「パットっていうのはここの庭番さ。気の毒だね、これから温室の始末で大変だよ」
チェシャ猫はおかしそうに笑っているが、アリスは微笑むだけの余裕も無く「そうね」とだけ返した。
「でも、どうしましょう。白兎がいるなんて思わなかったし、ビルもちゃんと起きてるみたいよ」
「別に平気だろ。白兎はビルを叱るので忙しいし、ビルは叱られるので忙しい。幸いどっちも外にいるから何も問題はないはずだよ」
アリスはそれでも不安だった。今まで他人の家にはどうぞと招かれて入るものだったので、無断で入った上に家主がすぐ近くにいるとなると今更ながら尻込みしてしまう。踏ん切りがつかず黙り込むアリスに、チェシャ猫は肩をすくめた。
「俺が扉の前で見張ってるから。白兎でもビルでも、とにかく誰かが来たらすぐに教えてあげるよ」
「それなら――ありがとう、助かるわ」
アリスは持っていたティーポットをチェシャ猫に預け、もう一度だけ白兎たちがいる庭の方を見ると、扉の前に立って取っ手に手を掛けた。
きれいに片付いた部屋だった。家具が少なく、壁にも小品の版画が二、三枚額に入っているだけの小部屋。目につくのは小さな机、鏡台、それに暖炉くらいのものだったが、アリスは扉を閉めると注意深く中を見て回った。
窓際にあるマホガニーの机には部屋に向けて小さな花束が飾られ、真珠を留め具にした白手袋と時代物のレースの扇子が二、三組がのせられていた。これらは白兎のものだろう。
下手に触れないまま、次に暖炉を見た。赤煉瓦を積み上げて造られた大きなもので、おそらく外から見たあの煙突につながっているのだろう。壁の一面を占領する程の大きさに目を見張っていると、「旦那様、何かご用ですか」という知らない声が庭の方から聞こえてきた。アリスは思わず動きを止め、耳を澄ませた。
「ああ、パット。来ましたか。またビルが温室をだめにしましたよ」
口調が丁寧なものに戻った白兎が疲れたように言った。窓の方へ近づきカーテンの隙間から庭をのぞくと、白兎と、彼の胸ほどの背丈のモルモットが見えた。白兎と向き合って、肩を落として溜め息を吐いている。これが気の毒なパットだろう。
「またですか? これで何度目です? 数えるのも馬鹿らしくなってきましたよ」
「ええ、まったくです。ビルにも困ったものだ。――とりあえず、硝子を片付けて無事な胡瓜を収穫してください」
「承知しました」
「それから、できるだけ早く鏡の国から大工を呼んで修理させてください。あの温室はあの大工の特別製ですからね」
「これも承知しました」
さらに二言三言温室の始末について話し合った後、白兎が「僕は城へ戻ります」と言うのが聞こえた。ほっとしたアリスは玄関の門に向かって歩いて行く白兎の背中を目で追った。しかしあと少しで門をくぐる、というところで白兎はぴたりと足を止めると、家の方へ戻ってきた。
アリスはぎくりとした。もしかして、家の中に誰かいることに気づいたのではないか?
あたふたしながら扉に駆け寄ろうとしたアリスだったが、その心配は杞憂だった。白兎が呼び止めたのは温室の方へ行こうとしていたパットだった。
「これを言うためにここに来たんでした。午後五時までに果樹園の林檎をいくつか掘り出して城へ届に来てください。三月兎がお菓子の材料に欲しいというもので」
「ええ、承知しました」
「頼みましたよ」
今度こそ白兎は城へ戻るために、パットは温室の後片付けのためにそれぞれの方向へ歩いて行った。遠ざかる二人を見送りながら、アリスは首を傾げた。
(掘り出す? 林檎って、土の中にあるものかしら?)
不思議に思っていると、ふと暖炉の火床の辺りでちらちらと揺らめく炎のようなものが見えたので、アリスはさらに首を傾げた。今は使われていないはずだから、わずかでも火の気のあることはおかしいはずだ。
不審に思ったアリスは暖炉に近づくと、格子越しに煙出しにつながる暗がりに目をこらした。
その時、二つの目玉がぎらりと光った。




