第2章 猫の道しるべ
Chapter II Guidepost of the cat
来た道と言えるドアが無くなり、アリスはひたすら呆然とした。
風が木立をざわめかせ、遠くの方で得体の知れない獣か鳥かが一鳴きする。アリスは思わず自分の身体を抱き締めた。
緑の滴る幻想の森は、たった一人では不気味で恐ろしいだけだった。
いくら見回してみても誰もいない。道もわからない。
涙が零れそうになっていると、突然頭上から声が聞こえてきた。
「かわいそうに。助けてやろうか」
男の声に、アリスは飛び上がるほど驚いた。慌てて上を向くと、そこには綺麗な青年が枝に座って笑いながらこちらを見ていた。
「誰?」
アリスはそっと目元をぬぐいながら聞いた。涙はできるだけ人に見られたくない。
「チェシャ猫だよ。そっちは?」
「アリス」
「ふーん」
チェシャ猫と名乗った青年は気怠げな様子で首を傾げた。
その動作で頬にかかった髪の毛は輝く銀で、いつだか姉に見せてもらった白金の腕輪の色に似ている。白い服に白いコート、白いブーツという出で立ちなので、暗い森の中で彼のいる場所だけが仄かに明るく見えた。
アリスがぼんやりと見つめていると、チェシャ猫は枝からひょいと飛び、アリスの目の前に軽い音を立てて着地した。
近くでよく見ると、彼がコートの下に着ているのは病院が患者に着せるような不健康なものだった。しかも袖が長く、今は留められていないが所々黒いベルトが付いているのを見るとどうやら拘束衣の類らしい。
(拘束が必要な病人?)
もしかしたら危ない人かもしれない。
アリスは逃げ出そうかと思ったが、ちっとも知らない森の中で走り回る勇気は寸でのところで出てこなかった。
アリスの警戒や逡巡を知ってか知らずか、チェシャ猫はまじまじと彼女を見つめている。彼の金色の瞳は薄暗い森の中できらきら輝いている。
「ここはどこなの?」
視線にいたたまれなくなり、アリスはおずおずと質問した。自分がいる場所もわからないなんて何だか馬鹿みたいだが、知らないままでいるよりはましだ。
「不思議の国だよ。知らないの?」
答えながらチェシャ猫が一歩近づき、アリスの顔を覗き込んだ。彼のものなのか、蘭麝の香りが微かに漂ってくる。
「知らない」
「変なの。じゃあどうしてここにいるの?」
アリスは訳がわからないながらも正直に白い「誰か」を追いかけて来たことを話した。
「ああ、そいつは白兎だ」
「兎?」
確かに足跡は小動物のものだったし、わずかに見えた小さな背丈は後ろ足で立ち上がった兎くらいかもしれない。
「でも、人の言葉をしゃべってたわ」
「ここはそういうところだよ。俺もしゃべれるし、不思議じゃない」
「お兄さんは人でしょ。動物じゃなくて」
「さあ、どっちかな」
ニヤニヤ笑うチェシャ猫を、アリスは呆れたような、不思議がるような目をして見た。変な人だ。
アリスのそんな視線も気にせず、チェシャ猫は彼女の後方を指差した。
「向こうを見てみればわかるよ」
そう言われて、アリスは反射的に示された方向を肩越しに振り向いた。しかしあるのは暗い森を構成する樹木ばかりだ。
怪訝に思いながら向き直ると、チェシャ猫がいない。
ふと気配を感じて足下を見てみれば、いつの間にか白銀の毛皮に黒い縞の入った猫が地面にちょこんと座っていた。
「ほら、しゃべれるだろう」
突然口を聞いた猫に、アリスは思わず「わっ」と声を上げて後ずさった。その声はまぎれもなく、人間だったはずのチェシャ猫のものだった。
後ろに下がって離れた距離をびくびくした足取りで取り戻しながら、アリスは口を開いた。
「あなた猫になれるの? それとも猫だけど人間になれるの?」
「それはどっちでもいいんじゃない? ここではあんまり大事なことじゃないよ」
アリスはチェシャ猫に合わせてしゃがみこんだ。さっきまではずっと見上げていたのに、今では見下ろす位置に顔がある。薄暗いためか、猫の目の瞳孔は半ば開いていた。
「ここは変なところなのはわかったわ。でも猫は好き。私も猫を飼ってるの」
「それは幸せな猫だね」
「そう? あなたみたいにしゃべれないけど、もし会ったらきっと気に入ると思う。お利口でかわいい子だから」
「『お利口でかわいい』のは好ましいけど」
チェシャ猫は一旦言葉を切り、首を傾げる仕草をした。
「ABCも言えないんじゃ、一緒にいても楽しくないだろうね」
アリスはちょっと笑ってしまった。
「私の猫とは友達になれなさそうね」
「あんたと知り合えたから、それでいいよ」
そう言って、チェシャ猫は口の周りをぺろりと舐めた。淡い紅色の舌は確かに猫のもので、これでどうやって人語を紡いでいるのだろう。
アリスはしゃがみ込んだまま頭上を仰いだ。
白兎、チェシャ猫、不思議の国――。
ここは本当にわからないことばかりだ。しかしここがどこだろうと、家族がいないのは確かだった。
「私、帰りたいの。どうすれば帰れる?」
「来たときみたいに白兎を追いかければ? あいつなら多分知ってるんじゃないかな」
「どこにいるの?」
「さあね。あいつはハートの城の大臣で、いつも女王の気まぐれな命令で駆け回ってる。だから、城にいないんならどこにいるかはわからない」
「じゃあ、お願い、そのハートの城に連れて行って」アリスは膝にのせた手にぎゅっと力を込めた。「今はいなくても、いつかは帰って来るはずだから」
アリスの懇願に、チェシャ猫は思案するように目を細めた。
「俺、女王に嫌われてるんだよね」
その一言で、アリスは彼が何かしたんだな、と思った。出会って間もないが、気分一つで相手に不都合なことでも仕出かしてしまいそうな雰囲気がある。
眉を寄せて何も言わないでいると、アリスの思考を読み取ったのかチェシャ猫は心外とばかりに息を吐いた。
「理屈抜きに猫を嫌う人種がいるだろう? 女王もそうさ。ああいうのは性質だから直らない」
「……ふーん?」
チェシャ猫の言葉に一応納得を示しながらアリスは立ち上がった。しばらくしゃがみ込んでいたので、足が疲れたのだ。
すると、そのわずかな間にチェシャ猫は人間に戻っていた。再び見上げる立場になる。
「人も猫も自由なのね」
「自由にならないこともあるけどね」
「お城へ行けないとか?」
「それも一つかな」
チェシャ猫は肩を竦めると、笑った。口端から尖った歯がのぞく。
「まあ、案内役なら他にもいるよ」
そう言って彼がぐるりと右腕をめぐらせると、森の中にいつの間にか二本の道が開けていた。
「右へ行けば帽子屋の家。左へ行けば三月兎の家」
チェシャ猫は両手で二つの道をそれぞれ示した。大仰な仕草は容姿の端麗さも相まって舞台俳優みたいだ。
「案内を頼みたいなら、三月兎の家に行くべきだね。お茶会の最中だから」
「もうそんな時間?」
アリスが応接間にいたのはまだ昼過ぎだった。お茶の時間にはまだ時間があったはずだ。
「あいつらはいつだってお茶会だよ。三月兎と眠り鼠、帽子屋の三人でね」
チェシャ猫は金色の瞳を細める。
「どいつもこいつもおかしいけど、あんたは綺麗だから。きっと気に入られるよ」
アリスはひょいと言われた「綺麗」という言葉にどぎまぎした。大人の女性に言うような文句は、つい最近十四歳になったばかりのアリスには慣れないものだった。
「ええと、ありがとう」
目を泳がせながらアリスは礼を述べた。チェシャ猫がにっこりと笑うので、余計に気まずいような恥ずかしいような気持ちになる。
「それじゃあさよなら」
アリスはそれだけ言って背を向けると、チェシャ猫の返事も聞かずに歩き出した。とにかく離れることで、動揺した気持ちを鎮めたかった。
だがほんの少し進んだ所であまりに無作法だったかと思い直した。一言謝るべきかと振り返ってみる。
しかし、そこにはすでにチェシャ猫はいなかった。
この世界の掟が少しだけわかった。
ちょっとでも目を離すと、何もかも無くなってしまうらしい。